第19話

 鬼瓦は、目黒のあるホテルに来ていた。彼は静かで落ち着いたホテルバーに腰を下ろしてからも、心にゆとりを取り戻すことができないでいた。いや、むしろそこに座ってからの方が、心臓の鼓動が激しさを増していたかもしれない。

 彼は康夫を待っている。待ちながら、見たばかりの腕時計を何度も見てしまう。約束の時間まで、まだ十分もあった。

 突然康夫から電話があったのは、その日の昼過ぎである。客人を預けたままで挨拶もせず申し訳ない、一杯奢ると、明るい調子で言われた。

 若頭代行の誘いは、さすがに断れない。それにしても、康夫から誘われるのは初めてのことである。しかも唐突だった。鬼瓦は、この突然の呼び出しに、不吉な予感を振り払うことができないでいた。

 一応配下の人間を五人、ホテルの中に潜ませている。何かがあれば、直ぐに駆け付けるよう命じてあった。桐島も連れてきたかったが、彼は元々本部の客人だ。いざとなれば、どちらの味方に付くか分からない。だから彼を組事務所に残してきたが、それは少し不自然だったかもしれないと、そんな余計なことまで気になった。

 きっかり七時、康夫は一人でやってきた。バーに入った彼は直ぐに鬼瓦を見つけ、手を上げて彼の座るボックスシートに真っ直ぐ近付いた。何やらご機嫌そうに、笑みを浮かべている。

「鬼瓦さん、お待たせしたようで申し訳ありません。ちょっと道が混んでいたものですから」

 鬼瓦も立ち上がり、少し引きつった愛想笑いを顔に浮かべる。

「なに、時間きっかりですよ。それにしても若旦那から声が掛かるなんて、珍しいですね」

「ご迷惑でしたか?」

「迷惑だなんてとんでもない。こうして若旦那とサシで飲めるなんて光栄ですよ。一人で来たんですか?」

 フロア係が、おしぼりを持ってくる。康夫はそれで顔を拭きながら言った。

「いや、一人で大丈夫だと言ったのに何人かついてきたんで、店の外で待ってもらっています」

 やはり康夫はお供を連れている。鬼瓦は舌打ちしたくなった。康夫に付いてくるのは、五所川原組の精鋭に違いない。いずれも一人で、十人分の仕事をこなす連中だ。もちろん鬼瓦は、康夫に何かをしようと思っているわけではない。しかし万が一のときは、ケツをまくるしかないと思っていたのだ。

「なるほど。うちも必要ないと言ったのに付いきたんで、外で待ってもらってますよ」

 康夫は落ち着いた表情で頷き、鬼瓦に何を飲むかを尋ねた。鬼瓦のスコッチをロックでという返事を聞いて、康夫はバランタイン十七年をロックで二つと、サラミ、レーズンバターをボーイに注文する。

「ところで、突然桐島さんをお願いして、申し訳ありませんでしたね。どうですか? 彼は」

「元気にしていますよ。ただ、もう少し外で羽を伸ばした方がいいと言ってるんですがね、真面目な男で全く遊びをやりません」

 鬼瓦は、桐島が相当腕の立つ人間であることを敢えて伏せた。もちろん自分の子分にしたいという話にも、一切触れない。

「そうですか。ご迷惑をお掛けしていなければなによりです。ただ、ずっと鬼瓦さんに負担を強いるのも申し訳ないので、そろそろ他の方に面倒をお願いしようと思っているのですが」

 その言葉に、どうにか桐島を手中に収めたい鬼瓦は慌てる。

「その心配は無用ですよ。それに、たらい回しみたいなことは客人に失礼ですから」

「そういうものなんですか? なにせこの世界のことは、よく分かっていないもので」

「そういうものですよ」

「分かりました。ではこの件は、もう少し甘えさせて頂きます」

 注文したウイスキーのグラスとつまみがテーブルに届いた。鬼瓦は、社交辞令の笑みを顔一杯にたたえ、康夫の持ち上げたグラスに自分のグラスを軽く合わせる。カチンと小さな音が響いたところで、康夫が切り出した。

「ところで、最近新宿の海外マフィアに変な動きが見えるので、少しお耳に入れておこうと思いまして」

 桐島の件でほっとしたのもつかの間、鬼瓦はぎくりとした。本題は、むしろこちらではないかという気がしたが、どうにかとぼけた。

「変な動きというと?」 

 康夫は間髪入れずに言う。

「台湾、香港、中国大陸から、それぞれの組織に人が大勢流れ込んでいるようなんです。まるで戦争でも始めるみたいにです。鬼瓦さんの耳には、何も情報が入っていませんか?」

 ここで鬼瓦に、どう答えるべきか迷いが生じた。

 鬼瓦は元々、気の弱い男なのだ。怖い顔と弱い者いじめ、そして狡猾さや虚勢だけでのし上がった男だった。たまたま身体が大きく、迫力だけは人一倍あるため、周りも相当な豪傑だと勘違いしやすい。隙あらば人を平気で踏み台にするのも、彼の得意技である。

 その辺の鬼瓦の性格や特性を、康夫は事前に十分調べ上げていた。

「いっ、いや、なにかそんな噂を聞いたような聞かないような……」

 鬼瓦は焦ってどもり、康夫がその彼をじっと見る。鬼瓦にしてみると、何もかもが見透かされているような気になり、居心地が悪くて仕方ない。

 しかし康夫は、持ち前の威厳も迫力もない、極普通の態度で鬼瓦に接した。

「そうですか……、それは残念です。もしかして、新宿に近い鬼瓦さんなら、何かを知っているのではないかと期待していたんですが」

「しっ、知りやせんでした、若旦那。しかしそんな噂があるなら、少しアンテナを高くして気を付けておきやす。で、何かあったら、若旦那はどうするおつもりで」

「もしそれが単なる海外勢の覇権争いなら、自分たちのスタンスは傍観です。余計なことに巻き込まれたくはありませんから。しかし、こちらに火の粉が飛んでくるなら話は別です」

「もしそうなら、どうするおつもりで?」

「徹底的に潰すつもりです」

 そんなことをサラッと言ってのける康夫に、鬼瓦の背中を悪寒が走る。普段全く攻撃的なことを言わない康夫だけに、如何にもそれが本気に思えるのだ。

「徹底的に、というと……」

「皆殺し、ですかね」と言って、康夫は「ははは」と笑った。

 笑いながらそんな台詞を吐く康夫に、鬼瓦はますますぞっとする。猪俣も怖いが、康夫はそれ以上にやばい人間ではないかと思えてくるのだ。一円連合の本部が、実際にそれを実行できる実力を備えているだけに、康夫の言葉が冗談に聞こえない。いや、康夫の言葉だからこそ信憑性がある。康夫と猪俣で作ったと言われる特殊部隊の詳細は、一円連合内部でも依然ベールに包まれているが、その規模や実力の程は噂で聞こえている。康夫や猪俣の一声で、軍隊並みの部隊が動くのである。皆殺しという言葉は、はったりや嘘にならないのだ。

「実はですね、鬼瓦さんだから打ち明けるのですが、新宿の物騒な様子は、一円連合に全く関係がないとも思えない節があるんですよ」

 鬼瓦は思わず「えっ」と声を上げた。そして引きつった神妙な顔を作る。

「どういうことですかい?」

「まずは新宿娼婦殺人事件現場に一円連合の幹部バッチが落ちていましたが、実際にはこの殺人事件の背後に台湾組織の影がちらついています。そして極西連合が台湾組織と何かをしている。更に同じタイミングで銀友会の不穏な行動。根拠はありませんが、全てが繋がっているように思えるんです。そこに一円連合の幹部が絡んでいるという噂がありまして、もしそれが本当なら、一体これから何が始まるのか、興味を持たない方がおかしいでしょう」

 鬼瓦は、内心飛び上がった。康夫がどこまで詳細を掴んでいるか分からないが、まるで自分たちの企みが筒抜けのようにも思える発言である。

 鬼瓦の身体に、怯えからくる震えが起きる。意識が遠のいた。そして遠くから、誰かが自分を呼んでいる。

「鬼瓦さん、鬼瓦さん、どうしたんですか? 大丈夫ですか?」

 康夫に声を掛けられていることに気付き、鬼瓦は我に返った。一瞬、呆然と康夫を見る。康夫も心配そうに鬼瓦を見ていた。

「あっ、失礼しやした。今日は酔の回るのが早いようで。最近酒に随分弱くなってまして、面目ありやせん」

「いや、おそらく疲れていらっしゃるのでしょう。そんなときにお呼びだてして、申し訳ありませんでした」

 その後二人は、猪俣の消息や五所川原親分の近況など、世間話のような話題に終始し、間もなく解散した。最後に康夫は、鬼瓦に忠告した。

「鬼瓦組のお金の流れに、アラートが出ていますよ」

 鬼瓦の心臓がここでまた、張り裂けそうになる。

 康夫は、鬼瓦が薬の横流しで大儲けしている事実を掴んでいたのだ。しかし康夫は、敢えてそれには触れずに続けた。

「猪俣さんが知れば、きっとやかましく騒ぎます。おそらく単なる入力ミスでしょうから、後で調べて修正しておいて下さい」

 康夫の鬼瓦に対する一連の揺さぶりは、鬼瓦を震え上がらせるのに十分だった。

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