第13話

 翌日から、鬼瓦のマークが始まった。面の割れていない桐島という人間を、一円会連合の客人として、鬼瓦組の事務所に預けたのだ。実際に桐島は、九州からたどり着いた流れ者だった。

 九州の地で抗争があり、彼の所属していた組が潰された。そのとき桐島の親分が、骨のある奴だから面倒をみてくれと、猪俣に頼み込んだ人間だった。

 五所川原邸に入った桐島は、無口な男だった。客分といっても所詮は居候だが、桐島は居候としての身をわきまえる寡黙な男だった。下働きをいとわず、一宿一飯の恩義に応えるために、なんでもやると言ってはばからない人間だった。

 猪俣はそんな桐島の心意気を気に入っていたし、いつも謙虚な彼の裏に不思議な底力を感じ、いつか盃を交わしても構わないと思うくらい彼のことを買っていた。歳は三十半ばで、これからますます脂が乗ってくる。今回の件で、彼は適任であった。

 康夫は桐島に、率直に事情を打ち明けた。客人に頼む仕事ではないことを承知で、どうにかお願いできないかと相談したが、桐島は二つ返事で引き受けてくれた。

 康夫と猪俣は桐島に、決して無理をするなと指示した。焦る必要はないし、鬼瓦組の日常をありのままに報告してくれたらそれでいいと言った。内偵者であることを知られたら、危険にさらされることを危惧しての指示である。桐島は、よそ者の自分に気を使う康夫や猪俣に感謝しながら、その身を鬼瓦組に委ねた。

 突然客人を押し付けられた鬼瓦は、怪訝に思った。当然、何か裏があるのではないかと疑った。よって、桐島が鬼瓦組のドアを叩いた日、鬼瓦は自ら桐島と会って話をした。そこで桐島は、堂々と見事な挨拶をした。

「鬼瓦の親分、九州は飯塚の相良組から参りました、桐島でございます。お聞きになっているかもしれやせんが、地元でちょいとごたごたがありやして、しばらくこちらでご厄介になることになりやした。お世話になるからにはただの穀潰しになりやせんよう、お役に立てることはやらせていただきやす。何なりと申し付けて下さい」

 桐島の立派な態度と鋭い眼力に、鬼瓦はそれまで抱いていた疑いを払拭した。桐島が、関東ではあまり見られない、筋金入りの任侠者に見えたからだ。少なくともチンピラ風情ではない。事情があり仕方なく当地に流れ着いた、本物のヤクザだ。こいつは何かで使えるかもしれないと、鬼瓦の頭にそんな打算まで駆け巡った。

「まあこれも縁だから、そう気張らずゆっくりしてくれたらええ。猪俣不在でどうしてもという若旦那の頼みでもある。精一杯もてなしさせてもらいますよ」

 桐島は深々と頭を下げ、「ありがとうごぜいやす」と礼を述べた。

 鬼瓦組に身を寄せても、相変わらず桐島は寡黙だった。本部直々の依頼で客人扱いとなったのだから、鬼瓦組での桐島の立場は悪くない。夜な夜な遊びに出掛け、飲み代全てを組に支払わせる傍若無人な客人が少なくない中、桐島は一切遊びや賭け事をやらず、朝は早起きし組事務所の掃除まで手伝う有様だった。組の若い者は恐縮し、親父や兄貴に叱られると桐島の仕事を取り上げようとしたが、桐島は譲らなかった。そんな桐島を、鬼瓦組の連中は不思議な生き物でも見るように観察していた。

 桐島の唯一の日課は、午後にコーヒーショップに出掛け、そこで二時間程度の読書を楽しむことだった。そして会計の際、お金の裏にメモを忍ばせ渡すのである。それが桐島の、猪俣と康夫に対する日々の報告方法だった。

 一見地味な日々を送る桐島に対し、彼は本当は相当な腰抜けではないかと、鬼瓦組の中でそんな噂も囁かれるようになった。一切はったりのない桐島は、周囲の目にそう映ってしまうようだった。

 しかし鬼瓦組の縄張りで、そんな組員の目を覚ます事件が発生した。いや、事件というほど大げさなことではない。ヤクザにとっては、言わば日常の出来事と言って差し支えないことである。

 鬼瓦組のシマにあるバーで、店と客の間に揉め事が起こった。店は、店長に突っかかる客をなだめながら、その裏で鬼瓦組に連絡を入れたのだ。ここで直ぐに駆け付け、揉め事を店側にとって丸く収めるのが、みかじめを取る組の役目である。こんな事態でその場を収拾できなければ組はなめられ、取れるみかじめも取れなくなってしまうからヤクザも必死になる。

 ヤクザの登場に腰が引け、突然猫を被るような素人相手なら楽な仕事だ。ツラを貸せと表に連れ出し、少し小突いて財布を出させたらそれで終わりである。

 しかしその夜の場合、事態は少々厄介だった。相手もプロのヤクザだったのだ。酒場で遭遇するヤクザとヤクザは、お互いの顔を立ててその場を上手に乗り切ることもあるが、その相手はまるで違った。

 鬼瓦組の三下が四人でバーに駆け付けると、二人のヤクザは、人のシマで飲んでいることなどまるでお構いなしに声を荒げた。

「おめえら、店の教育がなってねえぞ。こんな安っぽいサービスでべらぼうな金額請求しやがって。客をなめるのも大概にせいや」

 鬼瓦組の若いもんは、できるだけ穏便に言った。

「他のお客さんの迷惑になるんで、表に出て話しやせんか」

 次の瞬間、そう言った若いもんの顔にウイスキーのボトルが飛び、それは顔面を直撃したあとカウンター隅に当たり、派手な音を立てて砕け散った。ボトルを食らった男は顔面を抑え、指の隙間から血が滴り落ちる。店内にホステスの悲鳴が響き、一瞬で周辺にアルコールの匂いが漂った。店内は突然の大地震にでも見舞われたような恐怖に包まれ、誰もが口を閉ざし、引きつった顔で対峙するヤクザ同士を凝視している。

 鬼瓦組は、既に戦力を一人失った。

「何しやがる。てめえ、生きて帰れると思うなよ」

 鬼瓦組の残り三人がナイフを出して、よそ者二人に詰め寄る。しかし相手は、余裕の態度を見せていた。慌てることもなく、顔はにやけていた。実力でその場を乗り切る自信があるのだ。

 相手は自分の組の名前を出さなかった。内輪的にも対外的にも、揉める元になるからだ。決して名乗らず無名の流れ物を貫き、日頃の憂さを晴らすために、あるいは腕試しのように他人のシマで暴れる。こうした相手は場馴れしていて、多少は腕も立つ。その世界に身を寄せている者なら余程鈍感でない限り、本能がそんな相手に対して危険を察知するものだ。

 よそ者はゆったりした動作で、客のテーブルからビール瓶を取った。萎縮した鬼瓦組の若い衆は、刃物を持っていながら動けない。先頭の一人が受けた顔面への攻撃に、彼らの足がすくんでいる。このよそ者は、相手が死ぬことに対しまるで躊躇がないことを、彼らは肌身で感じているのだ。

 そこで不意に、店のドアが開いた。鬼瓦組の一人が客の来店と勘違いし、「今日はもう店じまいだ」と叫ぶ。しかしそこに立っていたのは、桐島だった。たまたま界隈に居合わせた桐島は、鬼瓦組の連中が慌ててビルへ駆け込むのを見掛けたため、様子を見にきたのだ。

 鬼瓦組の若い衆は慌てた。ここは客人の出る幕ではない。

「客人はどうか、引っ込んでいてください」

 若い衆は、桐島など助っ人にもならないと思っている。しかし桐島は構わずゆっくり進み、血だらけの顔をさらす若い衆の前でしゃがみ込んで怪我の具合を見た。

「こりゃひでえ。頬骨陥没にひでえ裂傷、全治三ヶ月の重症じゃねえか。いってえ誰がこんなむごいことをしたんだ?」

 それを聞いて、よそ者が笑った。

「おめえ、この状況が飲み込めねえらしいな。大人しく下がっていりゃあ、命だけは助けてやるぜ」

 桐島は、その首をゆっくりとよそ者に回して言った。

「ほう……。ということは、あんたらがこの若いもんに重症を負わせた張本人か。それはちょいと、おいたが過ぎるんじゃねえのか?」

 そこへ桐島をめがけ、ビール瓶が飛んだ。しかし桐島は、プロボクサーが対戦相手のパンチを見切るようにそれをかわす。栓の開いた瓶から中身が飛び散りし、それが桐島の顔と上着を汚した。桐島にかわされたビール瓶が、音を立てて床の上を転がる。桐島はゆっくりと立ち上がり、冷静に上着の汚れを払い落としながらよそ者との距離を詰めた。初めて相手の顔に、緊張の色が浮かんだ。よそ者は、着ているスーツの内ポケットに右手を入れる。

 しかし桐島は、よそ者に背中を見せる格好で、カウンターの側を向いた。

「店長はどちらですか?」

 黒服を着てポマードできっちりと髪を固めた男が、カウンター越しに、恐る恐る桐島の前に出た。

「この騒動の原因は何ですか?」

 そう言った桐島の背中に、「シカトしてんじゃねえぞ、こらぁ」と怒声が上がり、よそ者が内ポケットから取り出した短刀を振りかざす。しかし桐島は振り向きざまに、よそ者が短刀を振り下ろす手を、素早くカウンターの中から取ったアイスピックで突いた。

 気付いたら、アイスピックが相手の掌を、見事に貫通していた。

 うめき声と同時に、短刀が床の上にこぼれ落ちる。よそ者の左手で支えた右手から、したたかに鮮血が流れ出した。

 ほとんど同時にもう一人の男も、桐島に短刀を持って襲いかかった。桐島はぎらつく刃を紙一重でかわし男の後ろへ回り込むと、相手の襟首を掴んで血のついたアイスピックを喉元に突き付けた。尖った先端が、僅かに首の皮に食い込んでいる。男の動きがぴたりと止まった。

「少しでも動いたら、あんたの喉元に風穴が開きますぜ」

 あっけに取られる店長に、桐島は首だけを動かし、再び言った。

「原因は?」

「あっ、はい。こちらのお客様が、料金が高過ぎると言いまして」

「いくら請求したんですか?」

 店長は慌てるように伝票を掴み、桐島の前に突き出した。桐島は、じっとそれを見る。

「このお客さんは、どのくらいの時間、ここで飲み食いしたんですか?」

「さっ、三時間です」

 桐島の顔に、わずかな変化が見て取れた。それまでの、まるで寝起きのような茫洋とした表情に、僅かな険しさが現れたのだ。

「お客さん、三時間も女を侍らせ飲み食いして、しかもボトルまで入れて四万と少しじゃ、こりゃ相場通りってもんですぜ。それで腹を立てるのは、筋違いじゃねえですか?」

「こっ、この状況じゃ、話もできねえ。先ずはそれをどけてくれ」

 桐島は素直にアイスピックを降ろし、男を突き放した。それで彼が、床の上につんのめる。無様な格好だった。手を刺された方は、腹の虫が収まらないといったふうに、手首を圧迫しながら桐島に鋭い視線を投げている。相変わらず桐島は、平坦な口調で言った。

「きちんと払っていただけますか? もし御納得頂けない場合は、店の外でじっくり話し合うことになります」

 よそ者は、床につばを吐いて、スラックスの後ろから長い札入れを取り出す。

「けったくそわりい」

 どうにか体面を保つように鼓舞しているが、心なしか声が震えていた。桐島の迫力が、よそ者を怯えさせているのだ。

 男は五万円をカウンターの上に放り投げ、怪我を負った仲間に行くぞと顎をしゃくった。

 次の瞬間桐島は、五万円を放り投げたその腕を掴んだ。男はぎょっとした目を桐島に向け、その手を振り払おうとしたが、それがびくとも動かない。よそ者の力を込めた腕が、小刻みに震え出す。

「おい、勘違いすんなよ。店への迷惑料とうちの若いもんの治療代はどうした」

 桐島の低く感情のこもらない声は、身内でさえ鳥肌が立つほど不気味だ。

 そこでよそ者が、恐怖に抗うように見境なく切れた。

「てめえ、調子こいてんじゃねえぞ」

 言うと同時に空いている腕を桐島に振り上げたが、怒りの拳は宙を切り、代わりに桐島は、掴んだ相手の腕をぐいっとカウンター上に引き寄せる。店中の全ての人間があっと思うと同時に、アイスピックは男の手の甲に突き刺さっていた。おそらくその先は、掌を突き抜け石のカウンターテーブルで止まっている。

 よそ者の短い悲鳴が上がった。彼は顔をしかめ、アイスピックの刺さった手を庇うように、もう一方の手を被せている。桐島が、アイスピックをカウンターテーブルに押し付けたまま言った。

「迷惑料と治療代、払う気になったか」

 男の顔からは、既に血の気が引いている。

「わっ、分かった。払う……、払うから、その手を離してくれ」

「支払いが先だ」

 男は桐島に、自分の財布を丸ごと渡した。渡す仕草に迷いはない。もはや見栄も外聞もなかった。桐島との関わりから、今すぐ解放されたいという気持ちがありありと伺えた。

 桐島は片手で中身を確かめ、それからアイスピックを持つ手をようやく離した。男は震える手でアイスピックを抜き、負け犬のごとく痛む手を押さえて店を出ていった。

 相変わらず店内は、恐怖に包まれ静まり返っている。

「店長、これでお客さんに何かサービスでも」

 そう言って桐島は、取り上げた財布から十万円を抜いて、カウンターの上に置くと、店内の一部からぱらぱらと拍手が始まり、それが全体に広まった。

 店長は桐島に、深々と頭を下げた。彼は奪った金を財布ごと鬼瓦組の若いもんに渡し、「治療代だ」と言って店を後にした。

 翌日から、鬼瓦組員の桐島を見る目が変わった。前夜の噂が、またたく間に組内に浸透したからだ。変わらなかったのは、桐島の態度だった。彼は相変わらず早起きし、掃除をするところから一日を始めたのである。

 その後、厄介な揉め事があると桐島に依頼が入り、彼がそれを前と同様に解決するということが度々起こった。噂は単なる噂ではなくなり、桐島は誰からも下に置かれぬ、絶対的な存在となりつつあった。

 当然鬼瓦組長の耳にも、その話は入っていた。それほど使える男であれば、きちんと盃を交わし重要な役目を担ってもらいたいと思ったが、肝心の桐島が中々首を縦に振らない。

「自分の親父がまだごたついているときですから、それだけは御勘弁下さい。その代わり、手を貸せることがあればいくらでもやらせて頂きやす」

 盃を貰った親父に義理立てする桐島を、鬼瓦は益々気に入った。こんな人間を配下に置けば、これほど心強いことはない。もし本部に猪股がいたら、桐島のような男を人に預けることはしなかっただろう。鬼瓦は、桐島を客人として迎えることができた幸運を思い、何としてでも彼を自分の子分にしたいと思うのだった。

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