第2話

 明るく清潔な十五階のオフィスに、仕事机が整然と並んでいる。見渡す限りのデスクや、天井に整然と埋め込まれた蛍光灯の多さは圧巻だ。オフィス内に多くの人が働き、それぞれが各自の仕事に没頭し、他人のことにはまるで無関心である。

「ねえ、後で大切な話があるの。今日仕事が終ってから、外で会えないかしら」

 十年前、康夫の事務机に偽装の書類を届けながら、貞子は小さな声でささやいた。

 その頃の貞子には、まだ恥じらいやら奥ゆかしさがあった。身長百六十五センチにして豊満な体は健康的で、ひいき目に見ればセクシーと呼べなくはなかった。艶も張りもある顔は愛嬌があり、美人とは言えないまでも、それは可愛いと言えなくはなかった。元々の人相は良くないが、普段の凶相と笑ったときに見せるあどけなさとのギャップが、彼女の魅力だったかもしれない。

「え? 改まって何の話?」

 康夫が振り返ると、貞子は真剣な眼差しを真っ直ぐ康夫に向けていた。

「とにかく会って欲しいの。話はそのときに」

 一重の重そうなまぶたが、片方だけ閉じて開いたと思ったら、彼女はその場を去った。それが彼女のウィンクだったと康夫が気付いたのは、しばらくあとのことだった。

 当初二人は、東京田町の本社ビルで同じフロアに働きながら、決して特別な仲ではなかった。

 高校を卒業し事務職をしていた貞子は、入社年次で康夫より二年先輩だった。

 入社後、右も左も分からない新人は、康夫に限らず何かと貞子の世話になった。歳は下でも、そして少しくらい顔が怖くても、彼女は社内で貴重な水先案内人の一人だった。特に人事及び労務関係や業務上の必要書類になると、在り処や書き方が分からないことは腐るほどある。事務職の女性は他にもいたが、新人の面倒見が良かった貞子を、自然とみんなが頼った。

 事件が起きたのは、入社初年度の暮も押し迫った師走のある日だ。康夫にとってそれは、事件というより事故だった。

 職場の忘年会で羽目を外し酔いつぶれた康夫は、不覚にも、一人暮らしの貞子の部屋に泊まってしまったのだ。

 当時の康夫にしてみれば、文字通り一生の不覚というやつだ。康夫の人生は、そこであらかた決まったようなものだった。

 夜中に目を覚ますと、自分を見つめる至近距離の貞子の顔に、康夫は飛び上がって驚いた。

 それは、防衛本能が働いたというべきものだった。実際に彼は、ベッドから転げ落ちたのだ。何がどこでどうなったのかさっぱり分からず、康夫は直ぐに声も出せなかった。

 床に転がり頭をぶつけ、康夫はことの顛末を思い出す。

 宴もたけなわとなり、同期入社の市川が腹芸をしろと指名された。宴会になれば、新人が酒の肴として血祭りにあげられるのはいつものことだ。

 市川の芸はそれまでもうけがよく、宴会での指名は恒例となっている。本人もそれをよく承知し、彼がワイシャツを脱ぐとその腹に、既にオタフクの顔が描かれていた。何とも準備のいい奴だと感心しているところへ、悪酔いした大泉部長が大声を張り上げた。

「同期で仲良く、坂田も一緒にやれえ」

 いきなりの御指名に、康夫はうろたえた。大方の人は、既に腹が満たされ気狂い水に前頭葉が侵されている。悪乗りが波のように会場内へ伝搬し、坂田コールが沸き起こった。

 さぁーかぁーた、さぁーかぁーた。

 都内ホテルの宴会用大広間が揺れる。

 そこに一本のマジックペンを持って康夫に近づいたのが、真っ赤な顔をした貞子だった。なぜそんなペンを持っていたのか不明だが、とにかく彼女が、ワイシャツをめくった康夫の腹にオタフクの顔を書いた。

 やけっぱちの康夫は、宴席の正面で市川と並び立つ。

 康夫は身長だけは立派で、痩せ型でもどこかひょうひょうとした雰囲気を持っていた。対する市川は小柄で、宴会場の正面に即席のデコボココンビが誕生する。そして二人で腹芸披露。市川が上手な分、大柄な康夫の間抜けさが際立ち、それが滑稽で思いの外うけた。

 それで気分が高揚した康夫は調子に乗り、腹芸の最中、次々届けられる酒を飲み干し、自分の席に戻ってからも同じ調子でぐいぐいやっていたのだが、あるところから記憶が飛んでいる。

 気付いたら、康夫は一つのベッドを貞子と仲良く共有していた。

 気を取り直して貞子を見ると、彼女はシミーズ姿で胸の谷間があらわになっていた。裾から出ている素足は、健康的な色気を漂わせている。密室の薄明かりで、彼の目にそれは、妙に艶めかしく映った。

 康夫は慌てて目をそらし、彼女と反対の、ピンクのカーテンのかかる窓側を向いて体育座りした。そこで、自分もトランクス一丁であることに気付いた康夫の心臓が跳ね上がった。

「ごっ、ごめん、何がどうなっているのかさっぱり分からないんだけど。ここはどこ?」

「わたしの部屋よ」

「僕のズボンは?」

「しわになっちゃうから、私が脱がせたの。余計なことをしたかしら?」

 貞子が恥じらうように言った。

「いっ、いや。助かるよ」

 康夫は自然とどもり気味になる。嫌な沈黙が二人の間を流れた。

「床になんか座ってないで、とにかくこっちにいらっしゃいよ。遠慮することはないのよ」

 この怪しげな雰囲気は、一体どうしたことだろうか。康夫にしてみれば、大勢の社員を飲み込む明るい大広間で乱痴気騒ぎをしていたはずが、突然薄暗く静まり返る密室にワープしたようなものだ。そして下着姿の先輩事務職員と二人きり。康夫は存分に戸惑った。

「いや、僕は直ぐに帰るからお構いなく」

 そう言いながら、偶然目に入ってしまった彼女の胸の谷間が、まだ康夫の目の中でチカチカしている。身体全体がふくよかなせいもあるが、随分パンチの利いたバストだ。普段見る制服の下に、こんな凄いものが存在していたのかという新鮮な驚きもあった。

 触ってみたい……、と悪魔がささやく。

 康夫は貞子の再度の勧めに従い、ベッドの上で彼女と並んだ。トランクスの前が盛り上がっていたのには、当の康夫も戸惑った。その頂きへ貞子の手がさり気なく伸びる。ギョッとする康夫に、貞子は虚ろな目を伏せ気味にして言った。

「ねえ、私は別にいいのよ」

 貞子の体がくねくねと揺れた。その顔が薄っすらと上気している。罪作りな薄明かりが、彼女の顔をいつもの十倍は美しく見せた。

 康夫の頭の中で、何かが弾ける。こうなるとまだ若い彼に、前後の見境などつくわけもない。若気の至りとは、まさにこうしたことを言うという見本のように、康夫は貞子の誘惑に負けた。

 彼にとって、貞子の体は美しかった。弾力のある肌にはシミ一つない。そしてたるみもない。完璧な曲線美が、薄暗い部屋に溶け込む影となり、康夫の手の中でうごめく。

 こうなってしまうと、女性が未経験だった康夫には、溜まるものは十分溜まっていたがひとたまりもなかった。

 貞子の積極的な行為が、彼をますます迷路へと導びく。顔に似合わず、彼女はそういったことに随分慣れているようだった。貞子は玄人顔負けのテクニックを存分に発揮し、康夫は何度も海老反りになって喘いだ。

 それ以降、康夫は貞子の体に溺れた。彼は会社を引けたあと、度々彼女の部屋へ通うことになったのだ。

 そういった関係になってみると、へちゃむくれの中にも美があるように思えてくるから不思議だった。

 誰も気付けないものに自分だけが気付き、それを独り占めしているという優越感。どうだ、羨ましいだろうという勘違い。あいつの見た目は今一つか二つかもしれないが、あっちは最高なんだと辺り構わず言いふらしたくなる衝動をこらえるのもしばしばだった。

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