第12話 怪物と怪物
言葉の意味が理解できず、直が呆然とする。
「バーミッシュが近くにいるの。分からない?」
言われて、直は辺りを見回した。
平和な店内に不穏なものなど見つからず、困惑する直に、あずさは困ったように首を傾げる。
「違う違う。鼻ででしょ?探すのは」
あずさは自分の鼻を指し、鼻の穴をひくつかせて見せた。
「あいつらは臭いの。死体の皮をかぶっているから。私等みたいな鼻のいいストレンジャーズ・チルドレンにしか分からないけどね」
「えぇ!?」
驚いた後、彼は少し前にここで嗅ぎ取った臭いを思い出す。そして合点がいった。
あの臭いは、腐った肉のものだったのだ。
そして、昨日読んだ資料の内容をもすぐに思い出すことができた。
バーミッシュ。
直達の住む空坂の町に潜む、人類に敵対するストレンジャーの一種だ。
髑髏そのものの顔は様々な獣のものであり、首から下は獣の毛皮や肉を人の骨格にまとった、人型の異形だ。
うつろな頭部であるにも関わらず五感を持ち、ヒトに匹敵する高度な知能を有している。
人間を超える身体能力を有し、その特徴は頭部によって様々である。
バーミッシュはむき出しの頭蓋骨を覆うための、人間の顔の皮を狙っている。
顔を得るためなら、その顔の人間を殺し、それになり替わる事も珍しくはない。
つまり、バーミッシュという怪物は、人間に成りすましているのだ。
そんな恐ろしい怪物がここにいるとは信じられず、直は戸惑いながらも、言われた通り臭いに集中した。
鼻ですこしずつ息を吸い、鼻孔をわずかに冷やす。
それまで気にしなかった辺りの空気の質が、次第に鮮明に感じ取れるようになってきた。
焼き菓子のバターの匂いやコーヒーの香り、すぐ傍に並ぶ喫煙席に染みついた煙草のヤニの臭いなど。
その中で彼女の言う「臭い」を思い出しながら、それを探るように店内の空気を嗅ぎ続けた。
目当ての臭いはすぐに嗅ぎ取れた。
しかし、臭いのする先は追えない。
「ありゃ、分かんないか」
あずさは立ち上がると、喫煙席の方へと踏み込んでいった。直も慌てて彼女の後を追う。
あずさは煙を吸い上げるためのエアコンのちょうど真下へ行くと、そこでコーヒーを飲んでいるスーツ姿の男の前に立った。
男が傍に立った彼女に気付き、顔を上げる。
中肉中背の、これといった特徴のない中年の男だ。仕事疲れなのか、顔色はあまり良くない。
怪訝な顔を向ける彼に、あずさは笑って声をかけた。
「どうもー」
「ど、どうも……?」
男が戸惑ったように挨拶を返す。
直も彼女の隣に立ち、男を見た。
「……ん?」
腐臭が分かった。
鼻の奥が訴える、不快な腐肉の臭い。
これがそれだ、とはっきり察せられるほど、臭いが強くなったのだ。
直がそれに気付いた瞬間、あずさが口を開いた。
「臭うよ、バーミッシュ」
男が急に立ち上がった。椅子が倒れ、床に転がる音が店内の注目を集める。
男の表情が険しくなった。
「貴様……!」
「工夫したね。この席だったらばれないと思った?残念でした」
直は事態が飲み込みきれず、男とあずさとを交互に見比べた。
怯える男に、勝ち誇るあずさ。
接点の見えない二人の睨み合いに、思わず引け腰になる。
男が悩むように、額に手を乗せる。
手を強く押し付けるようにして顔を撫でたその瞬間、男の顔は大きく表情を変えた。
表情どころではない。
面の皮が手のひらに貼りついたかのように顔中に皺がより、張り詰めた部分から大きく皮膚が裂けた。
血は出ず、広がる裂け目から骨の色が露出される。
男の顔から剥がれ落ちた皮が、べちゃ、と音を立てて床に落ちた。
男の顔の下から現れたものに、直は息を呑む。
直はそれに見覚えがあった。
高校生の頃美術の授業で見せられた、牛の頭蓋骨そのものだ。
むき出しになった石灰質の表面では、赤いものが膜のように薄く広がり光沢を帯びている。
こびりついた血や腐肉の臭いが一層濃いものとなり、直は気付く。
顔を奪うとは、こういう事か。
反射的に床に落ちた人の顔面の皮に目を落としてしまい、直は込み上がった吐き気に口を押さえた。
直とあずさの前で、男の変化は更に続く。
男の着ていたスーツが内側から押し上げられ、あちこちから生えた突起に突き破られる。
身体の各部から突き出たカルシウムの角に、茶色い獣毛に包まれた肉体。
中肉中背の男だったものは今や大きく膨れ上がり、牛の頭蓋を頭部に据えた巨体の怪物へと変貌した。
その肉体から放たれる圧迫感と、むせかえるような獣臭とが、居合わせた者にさらなる驚きを与え、恐怖をあおった。
「……!?」
間近で全容をさらした怪物に、直は声も上げられず、たたらを踏んで背中から壁にぶつかった。
性質の悪い手品を見せられたような気分だった。
男のすぐそばにいた数人の男女が、飛び上がってその場から逃げ出した。
店内の至る所からも、どよめきや悲鳴が上がる。
だがただ一人、あずさだけは動じず直に言った。
「これがバーミッシュだよ」
猛牛の髑髏を首に据えた怪物、オックスバーミッシュとでも呼ぶべきものが、応じるように雄叫びを上げた。
喫煙席にいた他の客が、悲鳴を上げて次々と立ち上がり外へとなだれ込む。
禁煙席にいた他の客は、むしろ何事かと中を見るためにアクリル板の間際へと殺到していった。
怪物は悲鳴を意に介さず、正面に立つあずさに向かって一気に飛びかかった。
しかし彼女はそれを見て、こともなげに左に避けた。
店内にならぶいくつもの机や椅子が怪物に巨体に蹴散らされ、ガラスより頑丈なアクリル板にぶつかって割れるようにばらばらになった。
衝撃と轟音で、一層大きな悲鳴が上がる。
怪物は足を止めてゆっくりと振り返り、突き出た前歯の先をあずさに向ける。
目玉のはまっていない眼窩でじっと彼女を睨むと、舌や唇のない口で、奥歯をカチカチ言わせながら流暢に話し出す。
「ハウル、か?」
怪物を前にして、あずさは気楽な姿勢を崩さなかった。
「残念、外れ。あたしはなんとヴィオキン」
そう言って、彼女は口角をつり上げた。
「もっと性質悪いよ」
瞬間、彼女の色が変わった。肌も、髪も、元の色から変異した。
この場にいた人間で、直ほど驚いた者はいなかっただろう。
姿を変えた彼女から、かつて嗅いだ香ばしい匂いが一層強く香ってきたのだ。
店内に残っていたどよめきが更に大きくなるが、直は言葉も出なかった。
袖口やスカートから覗いていた素肌がわずかに盛り上がり、赤い鎧に似た外殻に変わる。
短めな頭髪は急速に伸びていき、色も白く変わっていく。
変化を終えたあずさの姿は、今や人間とは大きくかけ離れたものになっていた。
鬼、と呼べばその姿が容易に伝わるだろう。
白い髪をした、赤鬼だ。
額から目元までには、仮面に似た分厚い赤い外殻が被さっている。
額から生えた二本の角が、鬼という印象を一層強めている。
口元はむき出しで人の肌のままだったが、唇からは長さを増した牙がちらりと覗いていた。
元があずさだとは思えない、凶悪な面構えだ。
これが、ヴィオキンか。
直は間近で見るその風体から目が離せず、静かに息を呑んだ。
オックスがその姿を前にして低く唸り、腰を落とし、軽く開いた手に力を込める。
ヴィオキンは自分の襟元に結んでいた制服の赤いリボンをほどくと、顔も見ずに直に突き出した。
「なっち、これ持っといて!」
直はその声に我に返ると、戸惑いながらもそれを受け取り、数歩後ろへ後ずさった。
姿を変えたあずさが首元を緩めると大きく首を回し、大きく肩を回す。
「フゥウッ、んじゃま、やっちゃうかぁ!」
言うや否や、彼女の身体は前へと傾ぐ。
直が瞬きした次の瞬間には、赤鬼となったあずさは牛に掴みかかっていた。
速い。
二体の異形がぶつかり合い、机や椅子がいくつもなぎ倒されて派手な音を立てた。
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