第4話 胸元を嗅ぐ少女

 その日、直は第四志望会社を出ていき、とぼとぼと国道沿いの歩道を進んでいた。何度自分で磨いたか分からない靴で、見知らぬ町を一人で行く。


 成果は芳しくなかったが、すでに彼の気分はいくらか晴れていた。


 面接官の威圧的な視線から逃げられたのもあるが、帰りは日帰りの一人旅のようで、直にとっては半ば趣味のようなものになっていたからだ。


新幹線に乗って一時間と少し経った頃、車内アナウンスが彼の馴染みの駅名を告げた。


 外に目をやると、見慣れた町並みを高架から見下ろせる。彼にとっては安らぎすら感じられる光景だ。


 新幹線が止まってから彼は腰を上げ、時間帯のせいかほとんど人のいない駅のホームに降り立つ。


 彼のアパートから十数分で着くこの駅には新幹線が止まる。そのため、この駅は彼にとっては就職活動における拠点であった。


 彼は口寂しくなったのを感じ、駅構内にある喫茶店に目をやる。


 安いとは言えないが、味もサービスもよいので彼は時々そこに来ていた。土地柄かそれとも店内の雰囲気がそうさせるのか、客の殆どは年配の者ばかりだ。そのためいつも静かなので、それを彼は気に入っていた。


 店に入り、恒例のように一番安いコーヒーを頼み、口をつける。


 普段なら何事もないままそれを飲み干し、店を出ていた。


 ところがその日、彼の心臓を跳び上がらせる出来事が起こった。


 ポケットの中で携帯が震えたのだ。


 腿を揺さぶるその振動自体が彼にとっては滅多にない事で、だからこそ彼は心底驚いた。


 心当たりがないので、見知らぬ誰かにつつかれたようで心臓に悪い。


 慌てて携帯を取り出し、液晶に目をやる。表示された名前を見て、彼は安堵し警戒を解いた。


[爺ちゃん]


 祖父の住まいの、卓上電話の番号で登録した名前だ。


 彼は通話ボタンを押した後、手でマイクと口元とを塞ぎ、小声で電話に応じた。


「爺ちゃん?」


『おお、直君。今、大丈夫かい?』


 祖父の声だ。周りを見て、誰も自分を見てないのを確認すると、直は大丈夫と返事を返した。


「いいけど、どうしたの?」


『いやな、大事な話があるんだ。前に言うべきだったが、遅れてしまってなぁ。ええと……』


 祖父は申し訳なさそうに言うと、少し黙った後こう言った。


『……駄目だ、上手く言えん。とにかく、次の日曜に爺ちゃんトコ来てくれ。会わせたい人がいる』


「会わせたい人?」


 直は眉をひそめた。


『ああ、そうだ。ちょっと、その……直君の今後に関わる人達だから、な。挨拶をさせたいと思ったんだ』


「ふぅん……?」


 祖父から持ちかけられたにしては妙な話だと直は思った。


 しかし、断る理由も無い。


「いいよ。何時に会うの?」


『おお、来てくれるか。昼頃にじいちゃん家に来ればいいからな。その人達もいるから』


「何人もいるの?」


『ああ、べっぴんさんが二人だ。嬉しいだろ、ん?』


「いや、別に……?何言ってんのじいちゃん?」


 直は首をひねった。


「どういう知り合いなの?」


『……それは、あれだ。今度説明するよ』


 そこまで良蔵が言ったところで、スーツ姿の中年男性が何人も連れだって喫茶店に入ってきた。


 マナー違反と指摘されるのを危惧し、直は話を切り上げた。


「うん、分かった。それじゃね」


 直は電話を切ると、席を立ちレジに向かった。


「すいません、お勘定」


「はーい、ありがとうございまーす」


 明るい声を返してきた店員に顔を上げかけて、直は慌てて目を伏せた。他人と目が合うことに、彼は慣れていない。


 レジにいたその店員は高校生くらいの少女で、ヘアピンで前髪を分けていた。大きな目とやや短めに切られた髪が、見る者に闊達な印象を与える。名札には[城戸]とあった。


 直は黙って千円札を差し出す。


 明るい笑顔を浮かべる彼女が、直を見るその表情をふと変えた。


「あれ?」


 少女の声に直は顔を上げ、何事かと彼女を見る。


 すん、すん。


 彼女は何かの匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせ、匂いの元を探すように鼻先をさまよわせる。


 その鼻が直を向き、彼へと近づいた。


 レジ台の上にわずかに身を乗り出して、彼女は彼の胸元で匂いを嗅ぐ。


 距離を詰められ、直は動揺した。


「あ、あの……?」


 戸惑う直が彼女の頭を見下ろし、尋ねる。


 少女の鼻先が上を向き、直を見上げる格好になった。


 やがて、彼の匂いを確かめ終えたかのように彼女は嗅ぐのを止め、彼を見上げるその目を細める。


「ははぁん……」


 少女は自分にとって嬉しい何かを確信したかのように、にんまりと笑った。


 直にはその笑顔の意味が分からず、あまりに近い彼女との距離もあって目を白黒させるばかりだった。


 やがて納得したように彼女は直の胸から離れ、居住まいを正す。


「失礼しました。またのお越しを」


 軽く頭を下げる彼女にぽかんとする直だったが、我に返るとすぐに卓上の釣銭を手に取った。


 直がちらりと店内を横目で見ると、二人の様子を何事かと店中の人間が見ているのが分かった。


 途端に恥ずかしい事になっていたのが分かり、直は足早に店を出た。


 店が見えなくなった頃、直はどうにか落ち着きを取り戻し、ふと思い出したように気付く。


 胸元で匂いを嗅がれていた際、彼はつい反射的に彼女の匂いを嗅いでいた。


 その匂いに感じる、違和感。


「あの子……、変わった匂いだったな」


 髪から匂う、シャンプーの清涼な香り。


 それに混じる、いぶしたような香ばしい匂い。


 それはまるで、獣の毛皮から漂うもののようだった。人間の、少女の匂いとは少し違う。


 記憶の匂いを確かめるようにすん、すんと鼻を鳴らし、空気の匂いを確かめると、改めて彼女の匂いの特徴的なのが思い出された。


「……って」


 彼はまた我に返る。


 途端に顔が真っ赤になった。


「女の子の匂いをどうこう思うなんて、変態か僕は!」


 自分が恥ずかしい事をしているのに気付き、彼は熱くなった顔を俯かせ、再び速足で帰路についた。




 直が立ち去った後、店内のレジにいた店員の少女の携帯が振るえた。


 彼女は落とし物を取るふりをして屈み、小声で電話に出る。


「どしたの、良爺?」


『……孫が草食系って奴なんだけど、焦るべき?』


「知らないよ」


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