2

 ギィ、ギィと不気味な音が響く。


 目の前の鉄でできた十字架にぶら下がった手枷や足枷が、風に揺られて嫌な音を立てていた。


 絶壁の下はどこまでも青い海が広がっている。


 空は、厭味なくらい澄んでいた。


 アリシア・フォンターニア、十七歳。


 今日が、彼女の最後の日だ。


 アリシアは真っ白なドレスの裾を風にはためかせながら、ただ、静かな目で十字架を見ていた。


 その目に、怒りや絶望の色はない。


 ただ、諦めだけを宿している。


 アリシアは今から、あの十字架に張り付けられ、数日かけて死を迎える。


 リニア王国で一番残酷だと言われる処刑方法である。


 十字架に張り付けられ、水も食べ物も与えられず、徐々に息絶えていく。死後、死体は見せしめとしてそのまま野ざらしにされ、野鳥に少しずつついばまれながら骨になっていくのだ。


 いっそ早く殺してくれと思うだろう。


 いっそ、反り立つ岸壁から身を投げさせてくれと思うに違いない。


 そんな残酷な死が、これからアリシアの身に訪れる。


(猿ぐつわはないっていうから、舌を噛んでさっさと死にましょうか)


 アリシアは、鉄の十字架を見ながら静かに、そんなことを考えていた。


 今まで絶望は腐るほどしてきたのだ。もうそんな感情すら残っていない。


 できるだけ早く死んで、転生して、今度こそ幸せになりたい。


 貧乏でもいいから、大好きだと思える人と結婚して、静かに一生をおくりたかった。


 アリシアは、風になびくまばゆい金髪をおさえながら、ゆっくりと振り返った。


 そこには頑丈そうな甲冑に身を包んだ、背の高い一人の男が立っている。


 騎士団長、フリーデリック。


 確か、年はアリシアより八歳年上の二十五歳だったはずだ。


 若くして才能を認められ、第三騎士団の団長を任されている男である。


 伯爵家の三男で、爵位が継げないかわりに騎士団での名誉を手に入れた。


 王からの勲章を手に入れた。


 自分の力だけで今の地位を手に入れた。


 そんな男だ。


 アリシアは、この男のことがそれほど嫌いではなかった。


 悪人だと追い回され、何度この男に捕えられたかわからない。


 けれども、アリシアに蔑みの目を向け、乱暴に細腕を掴み上げ、無理やりアリシアを連行したこの男を、彼女は憎めなかった。


 小説の中で、彼がユミリーナに密かに恋をして、報われないながらも必死に守ろうとする姿を知っていたからかもしれない。


 そう、アリシアは前世で、小説の中のヒーローである王子より彼のことが気に入っていた。


 アリシアはただ黙ってフリーデリックの青い目を見つめる。


 今日の空のように澄んだ青い目。真っ黒でまっすぐな髪は襟足にかかるほどの長さ。アリシアより頭一つ分は背が高く、重い剣を振り回すからか腕は太い。


 彼が、アリシアの刑の執行人だった。


 愛する王女に害をなす悪徳令嬢をその手で刑に処せて、彼は今喜んでいるのだろうか。


 まっすぐアリシアを見つめ返す目は驚くほど静かで、彼が何を考えているのかはアリシアにはさっぱりわからない。


(……今まで本当に、面倒だったでしょうね)


 アリシアが王都から離れたカントリーハウスにいるから、捕えに来る彼はそのたびに長い距離を移動しなくてはならず、大変だったに違いない。


(今までごくろうさまでした)


 アリシアはそんな気持ちを込めて、小さく微笑んだ。


 ハッとフリーデリックが目を見開く。


 悪徳令嬢が笑うとは思わなかったのだろうか。それとも、何か企んでいると警戒されたのだろうか。


 そんなことはもうどうでもよくて、アリシアは彼にくるりと背を向けると、静かに鉄の十字架に向かって歩き出した。


 フリーデリックも、アリシアの歩調に合わせて後ろをついてくる。


 アリシアは十字架の下で足を止めて、高くそびえたつ十字架を見上げた。


 一人では、ここに上ることはできない。


 アリシアはフリーデリックを振り返り、無言でその青い瞳を見た。


 もう疲れたの、早くしてよ――、そんな思いを込めて見つめたつもりだった。


 フリーデリックも長旅で疲れているだろう。


 さっさとアリシアをはりつけにして、仕事を終わらせたいに違いない。


 そう思ったのだが――


(え?)


 アリシアは小さく首をひねった。


 フリーデリックの顔が、突然赤く染まったのだ。


(……な、なに?)


 アリシアは戸惑った。


 フリーデリックのこんな顔ははじめて見る。まるで、何かに照れているような、そんな妙な表情。


 そして、フリーデリックはなおも驚く行動に出た。


「……え?」


 アリシアの口から、今度は言葉として狼狽がこぼれる。


 だって、驚くだろう。フリーデリックが、その場に膝をついたのである。


 それから、躊躇いがちに腕を伸ばすと、アリシアのほっそりとした左手を取る。


 今まで手首をつかみ、アリシアを乱暴に引きずった彼の武骨な手が、まるで壊れ物を扱うかのようにそっとアリシアの手を握った。


 アリシアはポカンとして、ひざまずいて低い位置に来たフリーデリックの顔を見下ろした。


 フリーデリックはアリシアの左手の甲に、そっと額をつけ――


「アリシア・フォンターニア嬢。俺と結婚してください」


「―――」


 アリシアはぴしっと硬直した。


 だってそうだろう。聞き間違いでなければ、フリーデリックは今、求婚しなかっただろうか。


 求婚――、つまり、結婚を申し込むこと。


(なに……、言っているのかしら?)


 あまりに想定外の出来事に、脳が考えることを拒否しはじめる。


 アリシアが無反応のまま凍りついていたからだろうか。フリーデリックがアリシアの左手の甲から額を話し、心配そう彼女を見上げる。


 その、青い目で見上げられたとき――、アリシアの中で、何かがブツンと切れた。


 沸々と、胃の奥の方から怒りがわいてくる。


 絶望すら遠のいたアリシアにとって、久しぶりの強い感情だった。


(何を、言っているのかしら?)


 この男は。


 何を。


 ふざけているのか。


 今までさんざん追いかけまわしたくせに。


 魔女と呼んだくせに。


 性悪だと言ったくせに。


 蔑んだ目で見て、乱暴に突き飛ばして。


 王女を狙ったという証拠もないのに冷たい地下牢に閉じ込めたりもしたくせに。


 頬を染めて。


 愛おしそうにアリシアを見つめて。


 まるで今まで何もなかったかのように。


 ――手のひら返しで求婚なんて、ふざけているにもほどがある。


「触らないで!」


 アリシアはフリーデリックの手から自分の左手を取り戻した。


 フリーデリックを睨み据えて、今まで掴まれていた左手を大きく振りかぶって、彼の頬を思い切り叩く。


 パン!


 乾いた音がして、フリーデリックの右の頬が赤く染まったが、跪いたまま微動だにしないのがとても悔しかった。


「今まで――、今まで人をさんざん疑って罵って追いかけまわして……! 何を言い出すのか、理解に苦しみますわ!」


 フリーデリックが跪いたまま悲しそうに目を伏せる。だが、アリシアはほだされなかった。


「あなたとの結婚なんて、死んでもお断りですわ……!」


 まるでアリシアの怒りを表すかのように、びゅっと一際強い風が、二人の間を通りすぎた。

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