神獣ビノ
(何故だか身体が暖かい。絶痛が消えている。手足の感覚がある。世界が眩しい。きな臭い。服を全部脱いだまま柔らかい場所で寝ている。俺は――どうなったんだ)
様々な情報がルイの頭の中へ一気になだれ込んできた。そしていつの間にか自分が瞳を開いている事を認識する。
(あれ、俺は)
薄着で淡い光に照らされた薄暗い一室で寝ていたと認識する勇者。そして、何より驚愕すべき現状。どうした事か、生きているのだ。
今しがたムットに敗北して致命傷を負い、アメリを連れ去られて絶望にまみれたまま死んだはずなのに。また現状をもう少し付け加えると、
「うぁっ?」
先程から抉られた脇腹の上がくすぐったい。どうやら、熱量をもち柔らかくヌメったモノが、ぴちゃぴちゃと音を立てながら何度もその部分を往復しているのだ。
ルイは何事かと頭を上げた。そこには、
「やっと起きたか勇者よ」
青と白が入り混じった鮮やかな髪の少女がいたのだ。それもうつ伏せになり、全裸のルイの脇腹に舌を這わせている状態で。
「わわわわわわ!」
「そこそこの間ずっと魘されていたんだがな、その様子だともう回復したか」
少女はルイの驚いた様子が可笑しくてクスリと笑みをこぼした。そして起き上がり、はだけた桃色の薄い衣装から、雪のように白く透き通った肌色が露となる。
部屋の中央の古いテーブルへ置かれたカンテラが、独特の色気を放つ可憐な顔立ちの少女を、妖しく照らしていた。
「フフフ……」
翡翠色のつぶらな瞳にいたずらっぽく見つめられたルイは、目の前の人物が自分と面識ある者である事にようやく気がつく。
「って、もしや人間形態のビノ様!?」
「おぉさ。聖アルター神の従順なる神獣ビノ、超絶プリティな人間形態で無事勇者の元へ帰還したぞぇ」
神獣ビノ。太古の闘争から現在に至るまで人間達を見守ってきた聖アルター神のしもべが目の前にいる。必要に応じて人間の姿に変わる事ができるビノは現在、見る者の心を奪うまでに氷肌玉骨な少女に変化していた。
(どうなっている。ビノ様はあの時――)
だが彼女はこの場にいるはずがないのだ。自身の油断のせいで息絶えてしまったはずではと、ルイはますます混乱して頭を抱える。
(もしや、ここが輪廻の輪の中!?)
ビノは四つん這いになると、悪戯っぽい表情を浮かべて項垂れるルイの元へ必要以上に接近し、彼の耳に冷たい吐息を吹きかける。
「おほぅッ!?」
ビノは狼狽える勇者の頭をがっしりと掴むと、互いの唇が触れ合う直前の距離感で、優しく呟いた。
「ビノが生きてるのは現実ぞぇ勇者。そして、死んだはずのお前もな」
「なんと。本当に死後じゃないんですか」
「おぉさ。こちらも聞きたい事だらけじゃが、まずビノの方から知っている範囲で説明してやる」
そして顔を赤くして照れるルイの隣に座り込み、続けて経緯を語り始めたのだ。
「勇者もビノが裂かれた瞬間を見ただろ。実際魂は現世から離れ、神のしもべであろうと関係なく世界の理に組み込まれようとしていた。されど、ビノは踏み留まったのだ」
「踏みとどまった?」
「おぉさ。何度もアルター様の声が聴こえた、お前はまだ死んではいないとな。気がついたら魂の形態で宙を浮いておったぞぇ。そこから長い時間をかけて肉体を生成し、現世へ再臨したのだよ。これもビノの魂の強度がずば抜けていたからだろう」
ビノは誇らしげに慎ましやかな胸を張った。ルイは奇跡的生還劇に感嘆の声を出す。
「となると、ビノ様はそこからご自身の能力でずっと私を追ってきたと?」
「ふむ。ビノに感知できぬ魂はないからな」
神獣はそう言ってにんまりと笑んだ。
人間の魂の形は個人によって微妙に異なる。だがビノは広範囲にわたり、人間一人一人の魂を香りを嗅ぎ分けるように探知できる能力を持っているのだ。
「勇者が生きて再会できたのはアルター様が下さった奇跡だ。いざ会ったら死に体で驚いたが。ビノはこの廃村まで勇者を運び、長い時間舐めて癒してやったのだぞ」
二つ目の能力。ビノの舌は大抵の傷ならば長時間舐めあげる事で全快させる力がある。
生死の淵を彷徨っていたルイは間一髪で助けられたのだ。
「なんと感謝したらいいのか。情けない限りです。世界の命運を懸けた戦いで敗北した俺をこうして追ってきてくださって、命まで助けて下さっていたとは」
深く頭を下げた勇者へ、ビノは面をあげよと柔らかく言った。
「勇者は悪ぅない。ビノがジーナに憑りついとる邪神の加護の強さを見誤ったのがそもそもの失敗。栗色髪の聖霊術士とて、ジーナへ身体を乗っ取られず済んだんだ」
神獣も後悔しているのか歯ぎしりをして、少女の見た目にして不釣り合いな鋭い牙を見せる。自身の魂を辿ったなら、無論フランクの現状も把握してるだろうとルイは思った。
ビノと同様、思い出すだすだけで悔しい場面なのだ。今もフランクの魂は無理やり封じ込められて苦しんでいると考えるだけで、やりきれない。
「ビノ様の責任は一切ありません。ただただ俺が不甲斐ないばかりです」
ルイは悔しさのあまりぎゅっと両方の拳を握りしめる。
そしてビノと話している最中もずっと頭の片隅に浮かんでは消えるアメリの事も思い出し、ますます暗鬱の色を顔に漂わせた。
「すまぬ、押し付け合いになってしまったな。今度は勇者の番ぞぇ。危機を脱してから死する直前までの話をビノへ教えておくれ」
ビノは泣く子供をあやすようにルイの銀髪を撫でると、囁くように語りかけた。
「はい。俺は――」
ルイは自身が運よく生き残ってからフランクの妹である一人の少女と偶然再会してから様々な場面を経てジーナの手先に敗北するまでを簡潔に説明する。ビノは両眼を閉じたまま要所要所で頷き、真剣な様子で話を聞き終える。
そして胡坐をかいて腕を組み、少々考え込んだ後に琥珀色の瞳をぱっちりと開いた。
「葬民の強化体、そんな奴は昔にはいなかったが……やっかいだな。邪神が言っておった力を蓄えるとはこの事であったかもしれぬ」
「かもしれません。ジーナに劣らず恐るべき実力です」
「ふーむ。そいで勇者はフランクの妹に助けられここまで来れたと」
「えぇ。けどあの娘は苦しみを分かち合い支えると言ってくれたんです。フランクを救い邪神を打倒しようと誓い合ったんだ。なのに……ッ」
勇者は左拳を部屋の壁へ思いっきり叩きつけて貫通させた。粉塵と埃が舞う。
「何が平和なメネスを絶対に取り戻してみせるだ! 一人じゃ何もできなかった癖に。俺が弱いからメリは奴らの根城に連れ去られてしまった! 彼女はもう、この世にいないかもしれないッ」
ルイはやりきれない想いを吐き出すと自責の念に駆られて身を震わせ、大粒の涙を流す。
だが、悲しみの懺悔はここで経たれたのである。ビノは息を吐くと、あっけらかんとした様子で一言告げた。
「勇者よ、その娘は生きているぞ」
聞き間違いだろうか。ルイはばっと顔を上げると、眼前にはビノのしっぺが迫っていた。
「てい」
「あたッ。え、え?」
細指から繰り出される容赦ない攻撃が勇者の額を襲った。ルイはビノの発言と行動の真意が理解できず、泣きっ面をぽかんとさせる。
少女の姿をした神獣はやれやれと肩をすくめながら答えた。
「ビノの力を忘れたか。安心しろ、勇者の隣にいた者の魂は敵の隠れ家があるという森から感じられるぞぇ」
「え?」
勇者の闇色の世界に微かな光が差した。沸きあがった高揚を抑えきれず立ち上がる。
「本当にアメリが生きているんですか?」
「神獣が嘘をつくか。どんな意図があって生かしておるかまでは予測できんがな」
「そうか。アメリ、良かった」
ルイは悲哀の涙ではなく嬉し涙を流した。予断を許さぬ状況だろうが、ひとまずは仲間が生存している事実に安堵する。
「勇者よ、簡単に感情を揺さぶられてはならんぞぇ」
少しばかり厳しい表情のビノは腕を組みながら言った。
「厳しい事を言うぞ。いいか、どんな状況になろうが決して己を見失うな。お前はメネス最後の希望なのだ」
と、ビノは勇者を激励するように厚い胸板をごつんと叩く。
「すみません。つい取り乱してしまって」
自身の背負っているものの重さを今一度考えさせられた勇者は涙を拭い、琥珀色の双眸を見つめる。
「大切な人を失う。人間が生きていくうえで一番辛い感情ぞぇ。されどお前は勇者という人々を守護する存在となったのだ。いかな激情にかられようが冷静に対処せねばならん。厳しかろう、しかしこれもまたフェンブルの血を受け継ぎし者の運命よ」
「フェンブルの末裔の運命、ですか」
「昔の二人も同じだったぞぇ。古代の闘争では愛する人間を大勢失ったが、それでも人間の未来を守ろうと、最後まで感情を押し殺して邪神を追い払ったのだ」
心なしか在りし日を懐かしむようにビノが言った。
(過去の英雄だって運命の苦しみを乗り越えているんだ。ならば俺だって!)
重い言葉である。予め定められ、逃げられはしないのだから。だが今のルイは受け止める事ができた。勇者の責務を一心に背負う覚悟はとうにできているのだから。
ビノはごほんと咳払いをしてから暖かな眼差しを勇者に向けた。
「されどその呪縛も此度で終いだ。このビノ、どれだけ時が経とうが現世に留まるのは、アルター様から命じられた邪神討伐を完遂していないからだ」
「ビノ様……」
「同じ轍は踏まん。ビノはお前たち人間と共にアルター様が創造した世界の秩序を取り戻す。最後まで付き合ってやるから安心しろ、現代の勇者よ」
それだけ言うとビノは片目を瞑り、にやりと笑う。勇者の涙は晴れていた。後悔ではなく己を奮い立たせるために、今一度自身の胸の前で拳を握る。
「えぇ。今度こそ太古からの闘争へ終止符を打ちましょう」
「おぉさ。大陸の平穏を乱す邪神には聖なるアルター神に代わって天誅を下そうぞ!」
ビノはルイに向かって親指を立てて見せた。お前もやれと促されルイは戸惑ったが、自身も余裕ある笑みをつくり、同様のポーズをして返す。ビノとも使命を誓い直し、勇者の決意は完全に強固なものとなった。揺らぐ事は二度とないだろう。
そして――
「なら話は終わりだな。今日はもう寝るぞ、もう夜中だからな」
唐突な出来事にルイは呆気にとられた。会話が終了して欠伸を漏らし始めたビノは、そそくさとベッドへ潜り込んできたのだ。
「へ、ビノ様?」
「勇者を回復させたり村まで運んだりして疲れたのだ。さ、このまま一緒に寝よう」
純粋な表情で想定外の要求をしてきたので、勇者は頬を羞恥に染めた。
「なななな、御戯れを。神獣であるビノ様と床を共にするなどそれ以前に婚約もしていない男女が密着しては危険です!」
手を振って全力で否定。ルイの常識では考えられない行為であった。すぐさまベッドから出ようとしたが、ビノの細腕が恐るべき力でルイの大柄な体躯をがっちりと掴み食い止めた。
「馬鹿か。まだ体力が戻りきっていないのだ。そんな状態で寝てみろ、風邪を引くぞぇ」
「ですが」
「一緒に寝るのだ。ビノが暖めてやる、これは命令だ!」
「はいッ!」
凄みをきかせた声で言われば抵抗する余地はない。ルイは恐る恐るベッドへ入リ直した瞬間、宣言通りビノが抱き着いてきた。ルイは緊張のあまり硬直したのだが、
「え? もう寝てる……」
ビノは五本の指を数える間に寝てしまった。ルイは自身でも何故だかわからないが、ほっとしたのだった。そして安らかに寝息を立てる愛らしい姿を見て頬を緩めたルイは、ランプの灯りを消すと毛布の中へ入り、泥のような眠りについたのだった。
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