1章 美徳の不幸を蛇蝎は笑う

1-1 日常

 スマホのアラームの音で、俺は我に返った。

 …………最悪の目覚めだった。経緯も結果も何もかも、俺の人生で一番のトラウマ。もう随分前のことなのに、記憶は忌々しいほど鮮明に焼き付いている。

 だからといって夢にまで出なくてもいいのに。自らの夢見を呪いながらアラームを止める。現在時刻は朝の五時、いつも通りの起床時間だ。のろのろと布団から身を起こし、寒さに悪態をつきながらカーテンを開け、ついでに窓を開ける。昨日の雨は止んでいるようだったが、気が重いことに変わりはない。

 電気ポッドのスイッチを入れ、顔を洗いに洗面台に向かう。鏡に映った顔は、寝起きなのと寒いのとを除いても酷いものだった。目には光がなく、どう見ても無愛想で、表情筋だって死んでいるに等しい。最近切りにいけてない髪はボサボサで、不本意なことに多くの人に呼ばれている『カラス』というあだ名が、不本意なことにぴったりだった。それでもどうにか見苦しくない程度に整えてやろうと悪戦苦闘しているうちに、台所の方から電気ポットのスイッチが落ちる音が聞こえた。もう一度鏡を見て、大して改善しなかった自分の姿に諦めをつけて台所に向かう。

 インスタントの味噌汁に、昨日のうちに作っておいたおにぎりが二つ。仕事のある日の朝食はいつも簡素だ。というか、これ以上の物を用意する余裕なんてない。火傷しそうな味噌汁と冷え切った米をかっこむように胃の中に収め、眠気を振り払いながら歯を磨く。着替えは朝食よりもさらに簡素だ、スウェットを脱いで、微妙な青色をした作業着を着込むだけ。財布とスマホ、あとはこの小さな部屋の鍵をつっこめばもう出掛けられる。昼食のおにぎりをいれた布袋を左手に下げながらいつもの靴に足をつっこみ、部屋を出る。

 住んでいるボロアパートで、この時間から起きているのは俺だけだ。どうしても軋むサビだらけの階段を静かに降りて、ちらりとアパートのゴミ集積場を見る。

 ぱっと見ではダンボールと雑誌類以外を捨てている不届き物はいなさそうだな、と一人満足して、俺は清掃事務所へと足を向けた。


「おうカラス、今日はよろしくな!」

「よろっしゃーす」

「よろしくおねがいします……」

 よくゴミ清掃で一緒になるドライバー、木村さんと、入ったばかりの新人――名前はあとで思い出そう――に軽く頭を下げる。

 ゴミ収集車に乗り込むと、重たい音を立ててトラックが動き出す。木村さんが好きなラジオ番組が流れる中、木村さんと新人(関というらしい)は競馬の話で盛り上がっている。俺はギャンブルをやらないので、話題には乗らずぼんやりと外を眺める。ゴミ収集のアルバイトを初めて早一年。流石に窓の外の景色の新鮮さはない。

「あれ、カラスさんって名字なんっしたっけ」

 関に話しかけられ、慌てて我に返る。

「あ……えっと、烏山です」

「だから上から三文字取ってカラスだな」

 木村さんが笑いながら解説に混じる。

「……なんでですかね、木村さんだけじゃなくて周りみんなそう呼ぶんですよ」

「カラスヤマと、カラス。二文字も違うだろ? 短いし呼びやすいんだよ。それにお前、下の名前で呼ぶのも妙に嫌がるし」

「そりゃ嫌ですよ」

 なんせ由来が俺が生まれたばかりの頃の大人気アイドルだ。そんなよく知りもしないキラキラしいイケメンにあやかられてもどう期待に答えればいいのやら。

「下の名前っすか……あっ言わないでください当ててみるんで! 翔! 将暉! 鉄弥!」

「はいお手つき三回でアウトー。正解は瑛二でしたー」

「勝手に俺の個人情報ガンガン開示しないでください木村さん」

「はっはっは、じゃあ次関ちゃんな、最初に買ったCDって何よ」

「いや、俺ユーチューブとニコニコで聞けないやつ聞かない主義なんすよ」

「えっマジで? マジでCD買わないの?」

「マジで買わないっす」

「うわージェネレーションギャップ……」

 そりゃ二十も離れていればギャップが発生しないはずもないだろう。俺も、多分関も、まだ成人したてくらいの年齢だ。

「カラスはー?」

「Mスタ見る以外で聞かないです」

「そっちかー!」

 最初の集積場に到着すると、俺と関さんは手袋を嵌めて車から降りる。今日は紙類ゴミの日。集積所にあるダンボールを収集車の中に放り込んでいくだけの単純な仕事。俺と関がトラックまで運び、回転板の中に放り込む。上手く巻き込まれていかないものは、木村さんが奥に押しやってちゃんと潰す。

 その単純な肉体労働を、集積所の数だけ繰り返す。今日は雨上がり。足元は悪いし、なにより地面に置かれたダンボールが水を吸って重くなっている。一つ二つならまだしもこの量だ、増える労力は度し難い。

 最初は余裕そうな顔をしていた関も、段々表情に疲れが滲んでくる。収集車が住宅街の細い道の入り口に止まった時、その顔がひくりと引きつった。

「これ、引っ張ってくる奴っすよね……」

「引っ張ってくるやつだな」

「マジかぁ……」

 引っ張ってくる。つまり、車が入れないような細い道の向こうまでいって、出されたゴミを人力で収集車まで運んでこなければならない。

 電信柱の林立する、車一台が通るのでやっとの道にじっとりとした視線を向ける関にため息をつく。

「俺が奥からやるから近い所頼んだ」

「えっ……いいんすか!? 絶対そっちのが大変じゃないですか!」

「疲れてない奴が行った方がいいだろ」

「あざっす!」

 正直疲れているのは俺も同じだが……入ったばかりの頃、散々木村さんに助けてもらったのだ。俺だって大変な奴を助けなきゃ筋が通らないだろう。

 ノロノロやっても終了時間が遅くなるだけなので、奥まで走る。そうして見つけたのが濡れて踏まれてぐっちゃぐちゃのダンボールだったので心が折れそうになったが、見栄を張った以上やらないわけにはいかない。意を決して、一つ目を拾い上げた。


 一回目の収集は一時間程度で滞りなく終わり、ゴミ処理施設へ。それを四回繰り返し、昼休憩。

「カラスさーん、ラーメン行くっすか?」

「いや、俺弁当持ってきてるんで」

「りょーかいっす! じゃ、午後もよろしくっす!」

 昼飯を前に一気に元気になった現金な関を見送り、事務所の休憩室で弁当を広げる。手提げ袋の中身は朝と同じくおにぎり。味噌汁はないが、スーパーで運良く手に入れることの出来た見切り品の惣菜がある。そう、これで十分。ラーメンなんてのは最低でも六〇〇円はするブルジョアの食べ物だ。勝手に置かせてもらっているカップに粉末の緑茶を作り、昼のバラエティー番組が流れる中黙々と弁当を食べる。

 俺みたいな昼食スタイルは珍しくない。休憩室にいる人達はカップ麺だったり手作り弁当だったりを各々広げて、談笑したりテレビを見たり思い思いに過ごしている。

「だからさ、ついてきさえすれば損はしないわけ。今の手取りなんか目じゃないくらいに稼げるんだけどさ――」

 言葉が聞こえた方をそれとなく見る。顔に見覚えはあるけれども名前の全く思い出せない二人組が、もう一人に絡んでいる。彼らの説明を聞けば聞くほど眉間に皺が寄る。わかり易すぎる程にローリスク・ハイリターンな勧誘。……どう考えても碌な勧誘ではなさそうだった。

「うーん……俺バンドの練習とかミーティングとかあるからさ、そういう時間取られそうなのはちょっと難しいかな」

「それならバンドと両立出来るやつだって――」

「悪い、ただでさえ仲間に心配かけてるから」

 穏やかな却下をどうすることも出来ず、もごもご言いながら二人組が退散していく。勧誘が不発に終わったのを見届けて、俺は視線をテレビに戻した。

 ……俺にはああいう風に悪いことを跳ね除ける勇気はなかった。先輩たちが赤信号を悠々と渡っていくのにどうにかついていこうとして、歩道に文字通り蹴り出されただけだ。

 あるいは、バンド仲間という居場所が存在するあの同僚のように、他に信頼できる奴が近くにいれば――――いや。

 そもそも居場所を作ろう、仲間を作ろうと躍起になるからおかしなことになるわけであって。一人でもちゃんと真っ当に生きていけるなら、それ以上のことは求めなくていいわけで。

 熱く語り合えるような同僚はいない。特別趣味があるわけじゃないし、この職場では鉄板の話題であるパチスロや競馬の話には全くノレない。音楽を聞く趣味も漫画を読む趣味もなく、ついていけるとしたら最近のバラエティー番組くらいでも、ちゃんと真っ当に生きていけるならそれでいいわけで。

 今の仕事は理想的だ。必要なものは健康な肉体と真面目な勤務態度だけ。大抵の場合一七時には仕事が終わり、給料は暮らすのに困らないだけ手に入る。ド健全でまっとうだ。そしてなにより、いろんなバイトを転々として、一時は半グレに片足を突っ込みそうになったことすらある俺が一年も続けられている。

 真っ直ぐに真っ当に生きていく。それ以上は何も望まない。それでいいはずだ。

 ……けれども、なんだろう。遠い夢や目の前の楽しい事を追いかけて生きている群れの中で、まるで俺一人だけが幽霊みたいな――――

「カラスー! ちょっと来てくれー!」

 遠くから呼ばれる声で我に返った。マイナス思考に引きずられ過ぎだ。今自分の手元にある仕事くらいは、しっかりやらなければ。

「今いきます!」

 急いで弁当のゴミをひとまとめにして、俺は木村さんの声のする方に急ぎ足で向かった。

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