Remember-躰と心と記憶の世界-
新美
プロローグ
プロローグ
昔の記憶が無い。正確には高校入学より以前の記憶が存在しないのである。
大学病院にて精密検査を行なったが脳細胞にも異常が見られず、原因不明の記憶喪失もしくは記憶消失と診断された。
医者曰く『元から15年間の記憶が存在していないのではないか』とも言われたが実感はまるで無い。
記憶がない代わりに得たモノもあるーー
ふと昔の自分はどんな自分なのか考えてしまう時がある。記憶が無い以上考えても無駄なことではあると理解はしているつもりだが、3年前の自分は何者なのか気になってしまうのもまた事実である。
上の空でぼーっと歩いていた時だ。
突如、ひんやりとした冷却シートの様な冷たくひんやりとした小さな感触が掌を握り締める感覚が走るから慌てて視線を落とした。
手を握った5歳くらいの少女の後ろには20代半ば過ぎのベージュのシャツに濃い藍色のデニムを履いた男性が立っており、こちらの顔をみて一礼したので反射的に此方も一礼した。
『遅いよお兄ちゃん』と少女は呟いた。
雅は「遅くなってごめんね」と謝罪の言葉を挟んで男性の方に顔を向けると
『すいませんが宜しくお願いします』
少女の背後に立つ男性は深々と頭を下げながら言うので「分かりました」そう言い終える頃には、体重が倍の重さになった感覚と共に体が冷気に包みこまれる感覚に襲われる。
この重みと冷気は初期に比べて苦に感じる事はなくなったが慣れはしない。
「じゃあ行きましょう。」
『ママに会えるの楽しみなんだよ!パパもねママに会うのを楽しみにしてたんだよ』
「そっかじゃあお兄ちゃんが責任持ってお母さんの所まで案内するからね。」
『本当にありがとうございます。見ず知らずの私達の為にこんな無茶な事をして下さって…』
直接脳内に声が届く様な感覚にも慣れないまま俺は首を横に振りながら「構いませんコレが今の自分にできる事ですから」そういうと男性はやはり申し訳なさそうな表情が脳に直結して理解できてしまう。
母親に会えるのが楽しそうな少女。
少女は俺の握った手を前後に振るほど嬉しい様子で、愛らしく年相応の子供だと思わせる。
何度も家族でお出掛けした話を繰り返すほど、父親と母親が大好きなのだと伝わる。
だがそんな姿は微笑ましさと共に痛ましさすら感じさせるのだから現実は残酷である。
少女達を連れ、住宅街から少し外れた場所に作られた小さな公園に到着する。
遊具と呼べるモノはブランコと滑り台、砂場というシンプルで陳腐な公園。ブランコ付近に置かれた花束の数々。そこに立ち尽くす女性は少女と父親の姿を見るなり涙を流すし此方へ向けて頭を何度も下げる。
母親はその場からこちらに向けて今すぐにでも走って迎えに来たい気持ちを堪えている様にも見えた。
「やっとお母さんと逢えたね」
『うん…お兄ちゃん…ありが…とう』
少女の瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、握っていた手がスッと離れてゆく。
ひんやりとした冷気の様な感触が消え、徐々に失った熱が返ってくる。
ブランコの前に立つ母親に向けて少女は駆け寄り思いきり抱き付いて喜びと安堵からか声を出し泣き噦る。
母親は屈み込んで娘を優しく受け止め、包み込む様に抱き締めて静かに声を押し殺し泣いていた。
唐突に体から重みが消え『あなたは私家族の恩人です』言葉が脳ではなく、左耳から右耳をすり抜ける様に聞こえると共に家族団欒の図が視界へ飛び込む。
そんな姿を眺めつつ家族の元へ俺も近付いた。
『娘と旦那を連れて来て下さってありがとうございます。感謝の気持ちを伝えてもお礼が出来ないことがとても申し訳ないですーー』
何度も丁寧に頭を下げていた母親の姿に言い様の無い気持ちがこみ上げ続きの言葉を遮る様に言った
「自分にできる事しただけです。なのでお礼なんて言われるのはその…恥ずかしいと言うか、その来世で幸せになって下さい。」
そのままゆっくりと空気に溶け込む様に家族の姿は消えてゆく。少女が手を振ってお別れする姿が印象的だと思った。
2ヶ月前に起きた親子轢き逃げ事件。
買い物帰りの3人家族は閑静な住宅地を歩いていた時だった。背後から居眠り運転をして制限速度を越え暴走した乗用車が3人を容赦無く轢いた。撥ね飛ばされた少女は地面に頭を強く叩きつけた衝撃で即死。
乗用車のフロント部分に巻き込まれたまま壁を突き刺さり、腹部より下の箇所は押し潰され父親は内臓破裂による失血死。
偶然持っていた買い物袋と背負っていた小さなリックが下敷きとなり、衝撃が少なかった母親は幸いなのか最悪なのか一命は取り留めたものの旦那と娘を失った悲しみを受け入れることが出来ず、病室を抜け出し近くの公園のブランコ付近で着ていた衣服を用いて首を吊り命を自ら断つという凄惨な事件。
轢き殺した乗用車の運転手は高齢ではあるものの認識力や判断力があったにも関わらず誤ってアクセルを踏んでしまい暴走を起こした事件に対して『幸せな命を奪ってしまったことを深く反省しています』と嘆き、謝罪の言葉を漏らしていたと報道されていたが、ネット上では『そのまま運転手も死ねば良かった』『家族の命を奪った罪は重い』『死罪にしろ』色んな声と悪意が溢れていた
そう。俺が記憶を失った代わりに得たモノとは『人とは異なるモノ』が見えてしまう特異体質
この家族の他に何人か『見えてしまったヒト』達を導いて成仏させてきた。
特異体質になったとはいえ『モノやヒト』が見えるだけではなく、会話、接触、憑依をさせる事が出来てしまう
最初は兎に角驚きが勝ったが亡くなった人々の声を聴くたびに心残りを満たしたいという想いが溢れ、空いた時間を使って始めた活動偽善行為や自己満足行為だと理解している。
それでも救われて欲しいという気持ちと理不尽な死や誰かを想う気持ちを見捨てる事が俺には出来なかった。
「よし帰るか…」
独り言を吐き踵を返して公園を後にしようと出入り口に向けて歩きだした時だった。
「面白い事しているのね。」
透き通った穏やかな清流を彷彿させる綺麗な声に思わず振り向く。しかし、そこに人影はなく先程まで見ていた前方から声とはそぐわない程のとてつもなく禍々しい威圧感に身体を握り潰すされてしまう錯覚に襲われる。
恐怖から身動きは取れず、背筋や全身の毛穴から冷や汗が噴き出し呼吸がままならない。
禍々しい根源の方向へ首だけ曲げ、まるでいけないものを覗き込む様な慎重さで徐々に振り向く。
恐怖の根源が眼に映る。
目が奪われるほど整った容姿に加えて幸の薄そうな雰囲気が合わさった女性。此方を見て微笑を洩らして真っ黒な番傘を肩に掛けるように差していた。番傘の色とは対照的な色素をまるで持たないと思えるほどの白い素肌に紅が塗られたハリのある唇。
赤と黒の水玉の着物に黒の半纏を羽織る季節外れの格好。差していた番傘綴じながら此方に向かって一歩、また一歩と歩み寄って来る
真正面まで来ると着物の女性は首を軽く傾げ、此方の顔を隅々迄覗き込み口角を上げる。
「逢魔様とそっくりね。でも、根本の匂いはあの『女』と同じだけれども。」
「何者なんだ」
やっとの思いで吐露した文言に着物の女性は我に返った様子で
「私の名前か…私は
ツタ?つた?植物の名前みたいだな
何より変わった名前だ…
確か英語でアイビーだった気がする
そんな連想と疑問を浮かべながら再度名前を漏らしてしまう。
「蔦…?」
着物の女性に訊き返す様に漏らした言葉に着物の女性は優しそうに笑みを溢し頷く
途端、感触がした。熱を帯び、少し湿り気のある柔らかい感触。
もしかして唇?キスされたのか?
この世に産まれて18年目にして初めての女性とのキスを交わした。それも唇を奪われる形で。雅は酷く混乱したが咄嗟に女性を押し除け手の甲で唇を抑えた。
額や頬から火を噴いたような熱が溢れだし、紅潮しながら女性の顔を直視する
「特別な生気ね…殺すのは忍びないけど吸わせて頂戴そしたら楽に殺してあげるわ」
着物の女性もとい蔦は物欲しそうに吐露すると共に雅の体抱き寄せ、頬を掌でなぞりながらまじまじと顔を覗く。
その姿はまるで物想いにふけているようにとれて…
「坊やの名前は?」
「雅、染崎
緊張の混ざった声音だったが本人が思っている程相手は気にしておらず
「染崎。染める。何色にでも染まってしまう存在。貴方はどんな色に染まるのかしらね」
名前を咀嚼し吟味して吐露した言葉は何を言っているのか理解も出来ず困惑の渦に思考が飲まれていく。
「蔦さんは俺のこと知ってーーー」
疑問を投げ掛けようとした直後ぶすりと鈍い音が胸元から聴こえた。
一瞬の出来事に時が止まったような感覚に襲われ、タイムラグを生じて動き出すような錯覚と違和感を伴う左胸部に視線が落ちる
まるで豆腐を容易く貫く様に手刀が左胸部を貫いており、痛みすら感じさせない一撃。
手刀を抜かれた直後、意思とは関係なく地面に膝を突いて倒れ込んだ。
土の匂いが鼻を通し体を突き抜け、貫かれた胸部から流れ出る血液の生温かさを知覚でにた頃には、先に視界は薄れ始め意識が遠のく
自分が絶命する感覚に只々蝕まれ、走馬灯すらなくこれが死の感覚。
あまりの呆気なさに笑いすらこみ上げる。
思い出を振り返る間も無くあっさりと1度目の死を迎えた。
意識が途絶える間際彼女の漏らす言葉が耳に届く
「逢魔の器は見つけたわ」
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