#3
#3
目を開けるとそこはいつも徹とデートで来る公園だった。それもいつも待ち合わせ場所にしているベンチ。前回もその前も鏡の世界から戻ってきたら元いた場所に戻っていたから、今回は少し驚いた。
とにかく、今どうなっているのか知らなくちゃ。そう思い、私はスマホを取り出した。
「えっと、今日の予定は……。」
スマホのカレンダーアプリを立ち上げて私は驚いた。そこには「徹と公園。二時。大事な話。」と書かれている。今の時間は一時五十分。もうすぐ徹が来るというところだろうか。
それにしても大事な話って?嫌な予感がする。
「星奈、お待たせ。」
後ろから声をかけられた。私は座っていたベンチから立ち上がって体ごと徹に向けた。
「そんなに待っていないし、時間より早いよ。」
「まあ、うん。」
徹は歯切れ悪く返事するとベンチに座った。私も横に腰を下ろした。それからしばらくは間の悪い沈黙が流れていた。徹は眉間にシワを寄せて、なにか考え事をしているようだった。
「あのさ。」
随分と時が流れてから徹が切り出した。
「なに?」
「話が、あるんだ。」
「うん。」
硬いその口調につられて私も緊張してきた。五月の緑色の風が吹く中、そこだけ違う空間のようだ。
「ごめん。」
唐突な謝罪に私は困った。でも薄々とその先の言葉が予想出来て、そんなの嘘だと自分に言い聞かせ続けた。
「別れよう。」
それはたった五文字に収められた徹から私への判決だった。
声が出なかった。なんていえばいいのか分からなかった。なんて返すのが正解なのか分からなかった。
「な、ん……で?」
絞り出した声はそう言った。
「ほんとうにごめん。ごめん。」
徹はそれだけしか言わなかった。そして下を向いた。私の両の目からは涙が溢れていた。全開にした蛇口みたいにずっとずっと大粒の涙が流れていた。隣にいるはずの徹のことがものすごく遠くに感じられた。
「ごめんじゃ分からないよ。」
泣きながら私は徹に言った。
「なんで。なんで別れるの?」
駄々っ子みたいに私は続けた。徹はバツが悪そうに目をそらした。
「星奈よりも好きな人がいるんだ。」
目の前が真っ暗になった。何かに刺されたような衝撃を受けた。徹の言った言葉が理解出来なかった。理解したくなかった。
「ごめん。星奈のことより、俺は、詩乃が好きみたいなんだ。」
何も言えないでいた。言葉が出なかった。何を聞いているのかさえわからなくなった。何も言えなくなった私とは反対に徹は少しずつ話し始めた。
「元々、星奈と付き合う前から詩乃のことが好きだったんだ。詩乃は俺にそんな気なんて微塵もないようだったけどね。だけど、星奈に告白された時すごく嬉しかった。星奈の想いに応えたかった。付き合ってから星奈だけを好きになろうとした。実際、それは難なくできた。星奈といる時間は大切だし、星奈を知れば知るだけ好きになれたから。」
私の目を見ないで徹はそう言った。
「なのに今は詩乃が好きなの?」
「そう、なんだ。ごめんね。気づいたんだ。詩乃が俺のことが好きってことに。そして、俺は星奈だけって決めたはずなのにまだ心の中で詩乃のことを諦めきれてなかったみたいなんだ。」
二度とこんな話聞きたくなかったのに。聞かないようにするために鏡を通ってきたはずなのに。結局どの世界でも徹の好きな人は詩乃なんだ。そう思うと悔しくて、悲しくて、苦しい。
「それにもう、俺は前みたいに星奈が好きじゃないみたいなんだ。」
一番のショックを受けた。
「すき、じゃない?」
「だからごめん。詩乃のことが好きってわかってから、俺、冷めちゃったのかも。ごめんな。」
そう言うと徹は立ち上がった。
「それじゃ。」
私は帰っていく徹に何も言うことが出来なかった。涙は止まる気配を見せなかった。
結局私は何にも気づけなかったんだ。一番近くに居た人の気持ちに気づけずにいたんだ。好きも嫌いもわからずに、自分の気持ちばかり優先させていた。どれだけ私の“好き”が大きくても、届かないなら何も変わらない。変えることすら出来ない。
だから、もう徹が振り向いてくれることなんてないのだろう。だってどこの世界の徹も好きなのは詩乃だから。
届かない『好き』。届かなければ意味は無い。だから、私の“好き”なんてきっと意味の無いものなのだろう。想うことで何かができるわけではないのだ。想われていることでできていたんだ。
一方通行じゃダメなんだ。
空は腹立たつほど青かった。太陽が私のことを焼くように嘲笑った。
次の月曜日、学校に行くとやけに教室が騒がしかった。いつも誰かに話しかける私ではないけど、少し気になったからクラスの子に聞いてみた。
「詩乃と徹が付き合いだしたんだってさー。おめでただよね。」
「そうなんだ。」
それだけを言うのが精一杯だった。クラスの中心では詩乃が嬉しそうに話している。幸せ全開のオーラに押されるように私は教室を出た。
信じたくなかった。こんなにもすぐに付き合うなんて思ってなかった。それに、一昨日のことだって悪い夢だと思いたかった。だけど、それは紛れもなく現実だ。私の中で音を立てて崩れていたものが、こんどは木端微塵になってあとかたもなく消えてしまった。ああ、全部全部悪い夢だったらいいのに。目を覚ませばこんな事はなかったことになってしまえばいいのに。
ねえ、お願い。嘘だって、誰か言ってよ。
教室にもどる気にはなれなかった。学校にいるから、と、自分に言い聞かせて涙をこらえた。それでも、食いしばった歯の奥から声にならない声が漏れる。
廊下を早歩きで渡って、屋上へと登る。ドームの中に入ると両手で顔をおおって泣いた。声が大きすぎてバレないように気をつけながら泣いた。幼い子みたいに泣きじゃくった。顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったけど気にせずに泣き続けた。
──キーンコーンカーンコーン
チャイムでふと我に返った。
「もう、一限目始まっちゃった。サボりだなぁ。」
ダメなことだとはわかっていた。だけど、こんな顔でここから出るわけにはいかなかったし、体は力が抜けて動かなかった。教室に戻りたくなかった。いや、正確には、詩乃の幸せオーラでいっぱいな教室に戻りたくなかった。そして、詩乃の顔を見たくなかった。今はただ、そこから
逃げ出したかった。
一通り泣いた後、恐る恐るドームから出た。ドームの外は灰色の世界だった。空は鼠色で、どんよりとしていた。今にも雨が降りそうだ。薄鈍色のコンクリート造りの校舎がやけに薄っぺらく見えた。色のないその寂しい風景はそこにあるはずなのに、写真のようになにかの向こう側にある世界みたいに思えた。重たい、黒っぽい空気が私の周りにあった。どんよりとして、少し湿っている。
そっと校舎へのドアを開ける。一限終了のチャイムがなっていた。何事も無かったかのように教室に戻り、席に座る。一瞬クラスがざわっとしたが気にせずに机に突っ伏して寝た。何も考えたくなかったし、誰とも話したくなかった。
昼休みも、ご飯を食べる気にも、屋上へ上がる気にもなれず、まるで亡者のように校舎の中をうろついた。図書室に入って適当な本をぱらぱらとめくった。とてもつまらなかった。文字が流れていくのを何も考えずに見ていた。教室に戻っても私一人だけどこか違う世界に取り残されているようだった。授業が終われば逃げるように教室を出た。
駅へと続く道はいつもと変わらなかった。大声で楽しそうに話す学生を横目に早歩きで進んだ。そこから一秒でも早く抜け出すため、必死に歩いた。なにか、黒いものが後ろから襲いかかってくるようだった。苦しみと悲しみの足枷が一歩一歩を重たくさせた。車のエンジン音、通りを吹く風の音、行き交う人の足音、知らない人の笑い声、私じゃない誰かへ向けた言葉。その全てが私のことをズタボロになるまで刺した。一つ一つに鈍い痛みが走り、奥歯を食いしばって涙をこらえた。
駅のホームで目の前を特急列車が通過した。ふと、朝読んだ新聞に載っていた記事を思い出した。『中学生女子、列車に跳ねられ死亡。原因はいじめか』そんな文字が感情を全て消したような明朝体で並んでいた。
「ああ、そうか、いっそ死んでしまえばいいんだ。」
一度言ってしまえばそれが正しいような気がしてきた。ちがう、これが正解なんだ。何度鏡を通り抜けて、何度違う世界に行っても私が求めるような幸せはそこになくて、絶望することしか出来ないのなら、もういっそ死んでしまえばいいんだ。死んでなくなってしまえばいいんだ。消えてしまえばいいんだ。私がいない世界になっても、誰も悲しまない。だって私の代わりなんていくらでもいる。私の必要とされている意味なんてない。存在する意味なんてない。いらないものはゴミ箱へ行くんだ。そうすれば、私の存在で迷惑する人もいなくなる。
つまり、私がいないこの『日常』という舞台はハッピーエンドを迎えるのだ。
「ふふふ。あははははは。あははははは。」
大団円。ハッピーエンド。それも私がいない場所で!なんて素敵な響きだろう。
「あははははっ。あはははははははははっ。」
狂ったように笑い続ける。周りの白い目なんて気にせずに笑い続ける。
ああ、なんでこんなこと今日の今まで気づかなかったのだろう。気づかなかった自分が馬鹿らしく思える。叶いもしない夢を見続けるのはやめよう。そう決めていたんだ。それなのに生きることに固執するなんて、そんな必要なかったのだ。そう、これでなにもかもうまく。何もかも丸く収まる。そう思うと笑いがこみ上げてきて仕方がなかった。
電車に乗ったま普段降りる駅を通り過ぎて、ベッドタウン化している隣の市まで来る。ここには高いマンションが空を突くようににょきにょきと建っている。駅から少し歩いて高そうなマンションのひとつに入る。何かに操られているかのように、足は屋上へと向かう。
誰もいない屋上から見る空は夕暮れの赤に染まり始めていた。空に浮かぶ雲は夕焼け色に変わっていく。あったかくて、優しい夕焼け色。
「さすが二十七階。空が広い。」
フェンスにもたれて私はしばらく空を見ていた。いつ落ちようか、なんて考えながら。
「あ、やること忘れていたや。」
私はカバンからスマホを取り出しメッセージを入力する。
何度か文を捻ったり削ったり付け足したりしながら完成させた文は私の最後にふさわしいような気もした。
『私は一人落ちていく。何も無いところへ落ちていく。そこにあなたはいなくて、あなたの元へは二度と戻れない。これが最善策なんだ。さよなら。私のいない舞台の上であなたは幸福を噛み締める。さよなら。私の知らないハッピーエンド。どうかお幸せに。』
送信ボタンを押してスマホの電源を切った。
フェンスを乗り越え、あと三十センチメートルで足元がなくなるところまで来た。
あと一歩。この一歩で私は終わることが出来る。この最悪な世界からさよならできる。私を必要としない世界から、私が必要としない世界から、もう、さよならなんだ。
地面は見ないようにした。ここまで来て落ちることが出来ないなんてことになったら嫌だから。
風がスカートを舞わせる。空に浮かぶ雲に夕焼けが映って、優しい色に変わる。
さあ、いこうか。
「さよなら。」
私は小さくそう呟くと一歩踏み出した。
───落ちる。
体の重さがなくなったかのような感覚がした。コマ送りのように風景がゆっくりと流れる。
ああ、夕焼けだ。西の端っこが真っ赤に染まる。赤々と燃える太陽が地平線に吸い込まれていくのが見える。紅から赤へ。そして名前すらついていないその赤のグラデーションは、やがて夜へ飲み込まれていく。東から近づくその夜の色はなぜか悲しそうに見えた。世界はこんなにも醜いのに、その景色はとても美しくて、『この世界は美しくなんかない、それゆえに美しい』と言ったどこかの誰かの言葉を思い出した。夕焼けに照らされている私の影がマンションに映る。スカートが風でバサバサと舞い、髪の毛は重力に逆らう。
何かが私の胸ポケットから滑り落ちた。きらり、とそれは光を反射して輝いた。
「鏡?」
セキュアがくれたやつだ。キラキラとひかるその面に醜く美しい世界が映り込む。その逆さまに映る世界が綺麗で、私は手を伸ばした。
指が鏡の表面に触れる。ひんやりとしたいつもの感覚。それと同時に強い力に引き込まれるように、私は鏡の中へと入っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます