鏡の向こう側で

天野蒼空

#0

どうにもこうにも上手くいかない。

いや、なににおいても上手くいった試しなんてないのだけれども。


私はベッドの上で仰向けに寝転がったまま泣いていた。声を上げてワンワン泣いているのではない。ただ、涙が止まらない。

どうしてこうなったのか。


一言じゃとても言えないけど、簡単に言ってしまえば、失恋だ。破局だ。もうおしまいだ。

目を閉じると、そこに見えるのはあの人の顔。笑っている顔、真面目な顔、拗ねている顔、困っている顔……。


さて、これからどうしたものかともう一度目を開けて考える。だけれども、どれだけ考えても何も出てこない。空っぽになってしまった胸には冷たい通り風が吹いて、ヒューヒューとさみしい音を立てている。もう、なにも考えることも出来ない。もっと言ってしまえば、なにもする気になれない。


「お姉ちゃーん、ご飯だよ!」


妹が部屋のドアを叩くけど、答える気にもなれず、寝たフリをした。


「ご飯だってばー。」


なんどもしつこく言ってくるので、頭から布団をかぶってやり過ごす。



やがて、寝たフリは完全な睡眠になってしまっていた。





気がつくと真っ暗闇の中にいた。前も後ろも何も見えないただの闇。その中から唐突に声が聞こえた。ツンと尖った女の声だ。


「ねえ、困っているのでしょう。」


やけに上から目線な言い方だ。


「誰?」


聞いたことの無いその声に私は返事した。


「私のことはいいの。それより、困っているのでしょう。」


その声の主はもう一度同じことを言った。


「困っていたらなんだって言うのよ。」


「助けてあげなくもない。」


なんだか微妙な表現だ。


「でも、どうせ何も出来ない。できることなんてないのよ。」


私は投げやりにそう言った。


「さあね、それはやってみなきゃわからないでしょう。」


「だって無理だもの。」


「頑固だね。」


「事実だもの。」


からかうような相手の口調。それに返す私の声は少しずつ黒い色が混ざっていく。



しばらく暗闇の中で沈黙が続く。



「セキュア。」


突然彼女は呪文かなにかのように短い言葉を発した。


「は?」


「だからセキュア」


語気を強めてその声の主は同じことを言う。


「いや、何語?」


「何語とかじゃないんだけど。」


さっきまでとは違うムッとした声。


「名前。」


「いや、単語で話さないでよ。」


相手が不機嫌になるほど、なぜか私は冷静になれた。


「セキュアって私の名前なの!」


どうやらこの呪文みたいな言葉は名前だったようだ。


「それで、セキュア。私は定番のセリフを言えばいいのかな?」


こんなよくわからないところに来ているのだから、言うべきフレーズは決まっている。


「定番?定番がなんなのかは知らないけど質問なら受け付ける。」


セキュアは元のツンとした声で答えた。だから私は定番のセリフを口にした。


「ここはどこ?私は誰?あなたは何をしに来たの?」


「ここは鏡の世界。あなたが誰かというのはわかっていて言っているでしょ。ほら、名乗りなさい。」


「鏡の世界?」


アリスかなにかだろうか?


「名前、言わないの?私には言わせたくせに。それともショックで自分がどこの誰で、どんな人なのかということも忘れちゃった?」


言わせたのではなく、自分から名乗ったのではなかっただろうか。


「宮川星奈。」


「それがあなたの名前?それで、年はいくつで、何をしているの?」


「17歳。もうすぐ18歳だけど。高校3年生よ。あとは、高校では天文部に入っている。」


「なんだ。ちゃんと忘れていないじゃない。でも、まあ、全部知っているのだけどね。」


それならなぜ聞いたのだろうか。という疑問は胸の中に仕舞い込んで、最初に気になったことを聞くことにした。


「それで、鏡の世界って?」


突然、視界が明るくなった。

そして現れたのは一面の青空だった。それは少し妙だった。上も下も右も左も全て青空なのだ。そして、いくつかの小さな雲が浮かぶその青空には、太陽が存在していなかった。


目の前にはスラリとしたモデル体型の女性。黒のジャケットに、黒のタイトスカート、黒のパンプス。長い黒髪をポニーテールにしている。まるで就活生のような姿格好だが、一つだけ違う。それは、顔につけられた仮面だ。顔全体を覆うものではなく、目元だけを隠す、まるで仮面舞踏会で使われるような丁寧な装飾が施されたそれは、仮面と言うよりマスカレードマスクやベネチアンマスク、といったほうが合っている気がする。この仮面のせいであまり表情は読めないが、凛としたオーラが体全体からにじみ出ている。


この人がセキュアか。


「あなたを違う世界へ送り出すためのゲートである世界のことよ。」


セキュアは胸を張って答えた。


「違う世界?ゲート?どういうこと?」


「あなたが今いた世界はいくつもある世界のひとつなの。あなたが何かを選択するたび、違う選択肢の世界へと別れていく。そうして木の枝のように世界は別れていく。」


「つまり、平行世界?」


アニメや漫画でよく見る類のものだ。自分が選択した以外の世界があるというもの。まさか本当にあったとは。


「そう呼ぶ人もいるね。そしてこの鏡の世界が違う世界へ行くためのゲートとなる世界なのよ。」


つまり、この鏡の世界とやらをとおして違う平行世界へ行ける、という仕組みなのだろう。信じ難いけど。


「それで、なんでそんなところに私は来ちゃっているわけ?」


「それは簡単。あなたが困っているからよ。」


「困っている?」


「困ってないの?後悔はないの?この選択をするんじゃなかったみたいなの、ないの?」


すぐに頭に浮かんだことがひとつ。


「あるんでしょ。まずは落ち着いてそれを話して。」


セキュアに促されて私はぽつりぽつりと話し始めた。後悔だらけの失恋話を。




私には彼氏がいた。そう、いた、のだ。過去形なのだ。今はもういない。まずはその彼氏についてから話始めようと思う。


彼氏の名前は徹といった。同じ天文部に所属していて、一年と少し前に私から告白して付き合い始めた。

勿論かっこいいのだが、それだけではなく、彼の優しいところとか話していて楽しいところが好きで、なにより一緒に過ごすことが楽しかった。だから告白した。「付き合ってほしい。」と。なんの捻りもない告白だ。それはすぐに了承され、私たちは付き合うことになった。


夏祭り、友達の文化祭、プラネタリウム、ゲームセンター、ショッピングモール、本屋。いろんなところに二人で行った。どこに行くのも徹がいるから楽しかった。出かけるのはどこだってよかった。徹といられるのが、ただそれだけが幸せだった。週末の予定を二人で考えるのが退屈な平日の唯一の楽しみだった。手を繋いで街を歩くだけ。たったそれだけで今までモノクロに見えていた世界に色がついた。


楽しかったのだ。幸せだったのだ。なにをするのも徹が一緒だから。


しかし、いつの頃からだっただろうか。私は疑問を持ち始めた。徹が私をとおして別の誰かを見ているような気がするのだ。徹が私だけを見ているわけじゃない。そう気づいたとき、私はたまらなく寂しくなった。


決して徹がどこかに行ってしまうとか、私のことを嫌いになってしまったとか、そういうわけじゃないのに、それ以上に悲しかった。そして、その『誰か』というのが、詩乃──私の同じ部活の親友──だとわかった時、暗闇に突き落とされたような感覚に襲われた。でも、それを裏付けるなにかがあるわけでもなく、彼の口から聞かされるわけでも無いから、もやもやとした煙のようなものが心の奥底に溜まっていくのだった。


それでも、そのもやもやとした気持ちをどうにかしたくて、ある日、私は徹に聞くことにした。



忘れもしない、あの四月三十日の午後だ。

その日は公園に遊びに行っていた。遊びに行くと言っても日陰のベンチでずっと喋っているだけだった。いつも通りの休日がゆっくりと過ぎていった。


そして私は徹に聞いた。



「徹って詩乃のこと、どう、思っているの?」



「詩乃のこと、かぁ」


話を濁さそうになったので、思い切って聞いてみる。


「好き、なの?」


刺されたような表情をしていた。言ってしまってから思った。こんなこと言うんじゃなかった。



「ごめんね。」


そこから徹は詩乃と私に対する想いを話し始めた。


「星奈のことは好きだよ。大好きだし。愛しているんだよ。でも、俺は詩乃も好きなんだ。星奈が告白してきてくれた時、俺はまだ詩乃が好きだった。だけど、好きって言ってくれたのが嬉しくて、星奈の想いに応えたいって思ったんだ。それまで全くもって星奈が好きじゃないってわけじゃなかったんだけど、付き合うとかそういうふうに思う程じゃなかったんだ。それよりも俺は詩乃が好きだった。それに、星奈を振ってしまって詩乃と距離ができてしまうのかもしれない、とか、その時の俺はそんなことまで考えていたんだ。」


食いしばっていたはずの歯が緩んで目から雫がこぼれ落ちた。


「ちゃんと諦めようと思ったんだ。星奈だけを愛していたいって思ったんだ。それでも、詩乃をみていると俺がついていてあげなくちゃって、思うんだ。そばにいたいと思うんだ。星奈が嫌いとかそんなのは全くないんだ。」


こんなにも私を愛していてくれるのに、それなのに、そんなにもあの娘を愛しているというその想いを語るその言葉。言い訳のようなその言葉一つ一つが、私に鉄の塊で殴るような衝撃を与え続けた。


「ねぇ、星奈。星奈と詩乃を二人とも好きでいることは出来ないのかな。」


「やめてよ。」


反射的に私は答えていた。


「どっちかに絞れないの?」


しばらく考えたあと、徹は首を横に振った。


「そんなこと、出来ないよ。」


「どちらかと言えば?」


「どっちも。」


「それは答えじゃないでしょ。」


望んだ答えはただ一つ。その言葉を言って欲しくて、私は徹に問い続けた。

ねぇ、どっちなの?選べないの?早く選んでよ。どっちつかずなんて、私、嫌なの。だから、選んで。お願い。


ずっと徹は「ごめんね」と「選べない」を繰り返していた。それなのに私はこどものように聞き続けた。暫くして、徹は涙をこらえるようにしてこういった。



「ごめんね、俺は、詩乃が好きだ。」



刺されたような痛みがした。目の前が真っ暗になった。うまく声が出なかった。言いたいことはいっぱいあるはずなのに、何一つとして出てこなかった。開けたままの口から空気のような掠れた声にならない声が、言葉になってない言葉を発した。私が聞きたかったのは、こんな言葉じゃなかったのに。


「選んであげられなくて、ごめんね。嫌いじゃないんだよ。むしろ好きなんだよ。だけど、だけど、ごめんね。ごめんね。好きなんだよ。ごめんね。」


徹は謝りながら泣いていた。涙は頬に線を作り、止まることなく流れていた。


「そっか、詩乃か。」


ふつり、と、何かがどこかで切れてしまったようだった。


「じゃあ詩乃のこと、迎えに行ってあげなきゃ。」

「でも星奈……。」

「徹が選んだんでしょ。だから、ね。」


そう言って私は徹に笑いかけた。泣いている顔で無理やり笑った。そう言ってしまったら、もう止まらなくなってしまった。涙も言葉も、全てが。


「それに最初から好きだったら振ってくれてもよかったんだよ。」


軽い口調で言うが、そんなことはない。付き合えて嬉しかったんだ。


「それに、横取り魔女は罰せられるのです。」


劇のナレーションのようにたんたんとした口調で言った。心の中はその正反対だけれども今は苦手な演技をするしかない。

最初から詩乃が好きだなんて知らなかった。知っていれば変わっていたのかもしれないけれど、私は今までを否定したくない。これからも一緒にいたいのに。


「横取りって……。」


「んー、徹のこと誑かした化けた魔女の婆さんってとこ?」


「星奈はそんなんじゃないよ。」


そうだよ。横取りなんて知らないもん。私はただ徹が好きなだけだもの。


「だから、王子様はさ。」


ああ、涙でうまく言えないよ。だけど笑って言わなくちゃ。だって、最後になるから。


「お姫様を迎えに行かなくちゃ。」


そのお姫様が私だったらよかったのに!

何を心で思っても、もうそれを口にすることは出来なかった。渋る徹の背中を押した。


こんなにも好きなのに。こんなにも愛しているのに。


一度素直に出てこなかったその言葉は、もう二度と口まで出てきてくれなかった。




そして今日、徹は詩乃に告白したらしい。




「つまりは、好きな人に素直に言えなかったと?」


「それもそうだけど他にも……。」


セキュアはさっきと声のトーンも表情も変えずに言った。一方私は顔が涙でぐちゃぐちゃになってしまっていた。


「まあ、いいわ。それじゃ、これをあげる。」


「これは、手鏡?」


セキュアが出してきたのは手のひらサイズの小さなケース付きの手鏡だった。布でできたケースは黒い巾着タイプのもの。鏡は綺麗に磨かれていて、木製の枠に嵌っていた。全体を黒い漆で塗られている、シンプルなものだった。


「そう、手鏡。でもね、ただの手鏡じゃないよ。この鏡の世界に来るための鏡。この鏡に自分を映して触れたらこの世界に来れるの。また違う世界に来たいと思ったならこれを使ってくるといいよ。」


「違う世界?」


平行世界のことだろう。


しかし、『また』ということは何度も行き来できるようなものなのか?


「今からその後悔を無くすために違う選択肢の世界に行くの。そこでは何か一つが大きく変わっている。」


「何か一つが大きく変わっている……。」


「そこでもう一度やり直せばいい。鏡の世界に来れるなんて運が良くなきゃ来られないのよ!」


そのセリフを偉そうにいうセキュア。でも、探していれば出てくるのかもしれない。私が徹のことを離さなかったという世界が。


「やる。やってやる。見つけるんだから。」

胸の奥で小さな灯りが灯る。


「その意気よ。じゃ、鏡に触って。」


私の周りをたくさんの鏡が取り囲む。大勢の私が私を見る。恐る恐る鏡のひとつに触れた。




ひんやりとした氷のような冷たさ。そして、触れた指先から吸い込まれるような感覚に襲われた。

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