あかい天の川
駅へと続くレンガ張りの街道は、昼間訪れた時よりもずっと広く感じられた。
存在すら気が付かなかった沢山の分岐路は、そのどれもが奥に進んだところで曲がり角になっていてその先がどこに続いているかも判らない。
日光を浴びるために目いっぱいに両手を広げた花壇の植物たちも、今ではすっかり夕日に濡れている。人の流れは穏やかですれ違う存在は皆無だった。
そのまま流れに沿って歩いていると駅に着く、検めて巨大な駅だ。
姿こそ見えないが、中からは大勢の人の気配がする。
踏みしだかれて表面が滑らかになっている入り口から中に入ると。流れる風が耳もとで渦巻いた。体ごと吸い込まれてしまうようだ。
駅に入ると一緒に流されてきた人々は隠していた靴底のバネを急に弾ませて加速して、僕たちを置き去りに散りぢりに人込みに溶け合ってどこかに行ってしまった。
身勝手に感じていた親近感を冷たく否定された気分になる。
休みを利用して里美と動物園へ行った。その帰りだ。
隣で手首を捕まえている里美は、周りの様子に一瞥もせず、まっすぐに目的地を目指しているようだ。
無数の靴音は反響し改札口が開く電子音と電車のブレーキ音が絶えず何処かで鳴り響いている、この巨大な駅は騒がしい。
少し前を足早に進む里美に届く様に少し大きな声を出した。
「・・・・・・・・・」
なんといったかわからない、だが、少し苛ついているような気がした。なぜなのか理由はわからない。
そのまま僕たちは駅をまっすぐ突っ切って反対側の出口に向かった。駅をくぐっただけのはずなのに、既に随分と日が落ちている。そんな印象を受けた。
人口の明かりを頼りに沢山の車が行き交うロータリーの隅を早足に進んだ。
楕円形の道路の末端は、大通りの十字路につながって、そこではすれ違う車のヘッドライトがお互いの姿を一瞬浮かべては流れていった。
目の前に見えていた横断歩道の信号は、急かす気持ちを芽生えさせる瀬戸際で赤に変わってしまう。
立ち止まると周囲の時間が緩やかになる。
周りはみんな、会社帰りの大人たちや学生らで、手をつないでいるのは僕たちだけだった。
昼から夜へとゆっくりと静かに移り変わる世界を拒絶するような、右へ左へ忙しない光に思わず目が行ってしまう。
そのせいなのか、昼間やいつものような羞恥心を欠片も感じることなく。
僕は、里美を捕まえていた。
光の流れが緩やかになり、この場に似つかわしく無い呑気な音楽とともに次は人間が流れ出す。
反対側からもたくさんの人が落ちてくる。出来るだけ里美にくっついて邪魔にならないよう努めたが、それでもせいぜい二人分の幅がわずかに縮まるだけで僕の肩にぶつかった会社員風の中年男性は、すれ違いざまに舌打ちをした。
怖い人を避けるように駅前の大通りから3本目の路地に入るとその通りには古びた宿泊施設が軒を連ねていた。人気はあまりない。
近くの焼き肉屋さんを覗いてみると、奥のテーブルでふくよかなカップルが幸せそうに食事をしていた。
そこから少し離れた電柱のそばで立ち止まった里美は、漸く息継ぎが出来ると言った様子で大きく息を吐いた。
「ふぅ。みんな忙しそだったねぇ」
こちらに振り返った里美の顔には微かな疲労の色が見えている。
立ち止まると焼き肉屋さんの調理場の騒音が微かに聞こえる。
それから、いいにおい。
肉の焼けるこおばしい匂いと。里美の匂い。
一瞬乱れる呼吸を整えて、感づかれないように努める。それでも、僕の思考は彼女に侵略されてゆく。
「もっとゆっくり隅っこを歩いても僕は全然よかったのに」
ポケットに入れておいた持ち物が、きちんとあるべき場所に収まっていることを確認しながら里美を見る。里美の襟足のあたりの肌が少し汗ばんでいて拭いてあげたい気持ちになった。ハンカチはいつも尻のポケットに入れてある。もう一度確かめると動物園のパンフレット2部と共にやはり在った。
「む、のぞき見禁止」
里美はそう言うと両手の人差し指と中指で両眼を塞いだ。
「ご飯、どうしますか?」
肌色の血汐の隙間から見える景色はぼやけている。
「お昼遅かったからねぇ、今日はもう休みたいかな」
里美はそう言って、僕に再び人気のない寂しげな街を与えた。
ホテルの廊下はふかふかとした赤いじゅうたんが引かれていて、人の気配はしなかった。
里美が扉の濁った金属のドアノブに手をかけると自分の手まで冷やされる感覚が伝わってくる。
年季が入った扉は、一般的なものよりも重厚で滑らかに開いた。半分ほど扉が開いたところで後ろから扉を抑えると里美が一足先に部屋の中にぬるりと侵入した。匂いを追うようにあとに続く。
「どうぞ、いらっしゃいませ」
里美が余所行き用の声で言いながら、壁に設置されたつまみを操作すると部屋の明かりが一瞬明るくなって、部屋の隅が見えるか見えないか程度の光度に調整された。
そして、扉がわずかな隙間から空気を排出しながら静かに閉まった。
絨毯の廊下と言い、この分厚い扉といい宿泊施設と言うよりもコンサート会場のようだ。
里美は薄暗いテーブルで手慣れた様子でお茶を煎れている。
部屋に一歩踏み込むとお茶とクリーニングしたての衣服の匂いとやはり里美の匂いがした。息が苦しい、心臓の鼓動が肺を圧迫しているからだ。
「いつもありがとうございます」
呼吸を整えて差し出されたお茶をすすると、それはちょうどよくぬるい。
「エアコン26度でいいかな?」
「はい」
部屋の照明が瞬いて天井に張り付いた巨大なエアコンが唸りを上げて酸味の利いた冷たい空気が流れてくる。里美はうんと背伸びをして綺麗に整えられたベッドに倒れこんでそのままゴロゴロと真ん中のあたりまで転がった。
とても気持ちがよさそうだ。
真似して里美の後ろからぴたりとくっついた。ようやく二人きりになれた。ずっとこうしたかった。全身に血が巡って、甘い気持ちになる。
「里美さん」
確かめるように横腹からおへそのあたりをゆっくりとさする。
「好きです」
「ごめん、今日生理」
そんなつもりで言ったんじゃないのに。不思議と僕はそれ以上何も、言えなかった。
「がっかりしちゃった?」
声色にはこちらの様子をうかがうような優しさがあった。
「はい、とても」
子供ではないのだから。ちゃんと伝えないとわからない、自らにそう言い聞かせる。
それでも、気持ちを零さず伝えることができるのかわからない。
「そっかぁ。若いもんねごめんね」
歳なんて少しも関係ない。
「ずっと我慢してたのにごめんね。よしよし・・・」
我慢などしていない。元から何も望んですらいない。そんなつもりは微塵もなかったはずなのに、里美のその言葉を聞いて僕の中の何者かが声を上げた。そして、自分に酷く幻滅する。
「私だって、楽しみにしてたんだから」
感情を抑えようと大きく息を吸うと里美の香りがした。
この香りが今はとても忌まわしく感じてしまう。僕は、最低だ。
気が付けば摩るのをすっかり止めた手に里美の手が重ねられていた。
小さな手はいつもよりも冷たく冷えている。
「エアコン、消しますね」
横顔から、腕をそっと引き抜くと重ねられていた方の手に力が加えられたが、構わず立ち上がりエアコンの電源を消した。部屋の明かりが再び瞬き静寂が訪れる。
「お風呂先に入ります」
風呂場にそそくさと移動して、すぐに鍵をかけた。鍵があるととても安心する。
渋い留め金を下げると、いつもより大きく冷たい音が部屋に響いた。
当然、湯船は空だった。お湯の蛇口をひねってシャワーを浴びることにする。湯を張りながらでも、シャワーには十分な水圧があった。
頭が、ざわつく。
少し歩きたい気分になる、歩いたところで何も変わらない。
入り口のすりガラスには、何も浮かばない。
上がるころには湯船には体が半分浸かるにはちょうどいい程度のお湯がたまっていた。部屋に戻ると里美は、さっきと同じ場所で同じ格好をしていた。高まる感情が何かに急激に冷やされる。お気に入りのカントリーミュージック、ベッドの上で少しだけ揺れる小さな両足、とてもありふれた光景だった。
「里美さん、お湯ためておきましたよ」
寝て居ない。確かめなくても分かった。
「うん。ありがと」
里美は、そのまま風呂場に滑り込んだ。見えたのは他人のような横顔だけだった。
胸がねじれる。
朝までのこの空間の事を考えると憂鬱になる。
吸えないタバコを吸いたくなる。飲めない酒が飲みたくなる。過ぎた出来事や時間の事を考えるだけでもう嫌になる、不安で溺れそうになる。
冷たい雨をしのぐように布団にもぐりこんだ。
この行為も昔から何千回と繰り返してきた動作だった。
そして、効果がないこともすでに知っていた。
やがて、背後で冷蔵庫が開く音がして、眠る寸前だったことに気が付いた。
どうやら里美が風呂から上がってきたようだ。
プシュ
冷蔵庫の中の飲み物は割高だから飲むなと言っておきながら、飲み物をのんでいるらしい、きっと酒だろう。
寒い背中は、風呂上がりの熱を無意識に期待している。
憂鬱が過ぎ去って期待通りのぬくもりがやってくる。背中がとても暖かい。
「少しは機嫌良くなった?」
耳元でアルコールとフルーツの甘い香りがする。
「初めからいつもと同じでしたよ」
とても心地がいい、うとうとしながらかろうじて答える。
「嘘。まだ怒ってる」
やはり何も伝わっていない、今日はこのままこの手触りのいいシーツに身を沈めて寝てしまおう。そう思った。里美も同じ考えなのか楽な体制を探してもそもそと動いた。先ほどの憂鬱はすっかりどこかに失せていた。
「怒って・・・いません」
背中の熱を逃がさないように半身分ほど離れて仰向けになり体で布団を巻き込んだ。もう眠い。
里美が消えさり、睡魔が訪れる。
漸く眠りにつけそうになると体にペタペタと暖かい手足が這った。
「・・・里美さん・・・止めてください・・・・」
既に存在が透明になった里美に文句を述べたが返事はない。
さわさわ・・・・。
「里美さん・・・」
さわさわ・・・・。
「・・・・本当に」
さわさわ・・・・。
「止めてください・・・・・・ぁぅ・・・!」
段々と夜目が利くようになってくる。天井のビロウドには群青のガラスが埋め込まれていて鏤められた白銀が静かな輝きを放っていた。ガラスに混じる気泡は天の川のようだ。里美の顔を覗き込むと目が合った。
「んーふぅ?」
やはり、少しもわからないのだ。
静かな湖畔に横たわり水面に映った星空を眺めている。そんな豊かな気分になる。
「きれい」
・・・おきて。ねぇ、おきて・・・!
ぶちゅう・・・。
「うう・・・」
体の調子がひどく悪い、おまけに朝から顔に何かを塗り付けられたおかげで目覚めは大変不快なものだった。
口内の苦い唾液を飲み込んで、頬に塗りたくられた異臭のする液体をサラサラのシーツに擦り付けた。このシーツの肌触りだけが唯一の救いだ。
「起きた?」
体一つ分ほど離れた場所から里美の声がする。今はこの状態を作り出した張本人の顔など、とても見たい気分ではない。
身じろぐだけで体が痛い、おそらく昨日一日中歩き回ったせいだ。両肩を交互にベットに沈めるだけで体中の筋肉の断面から鋭い痛みが走る。
「今、何時ですか?」
顔をシーツに擦り付けながら訪ねた。
「午後の1時だよ」
ああ。
最悪だ。貴重な休みだったのに、何もしないまま半日以上が過ぎてしまった。
あと15時間したらまた仕事をしないといけないなんて。
しかも、そのことに里美を付き合わせてしまった。彼女にとっても貴重な休みだったはずなのに。筋肉痛と後悔と悲しみが朝から同時に押し寄せる。
「ごめんなさい、里美さん」
目が片方しか開かないうえに開いている方も半分しか開かない目でかろうじて里美を捕らえる。部屋には窓がないので時間の感覚がまるで無い。
「じゃあもう一回」
ぶちゅう・・・・。
「ぁあ・・・・・なにを?」
また、顔面を嘗め回された。舌が通過した場所はすぐにひんやりと冷えてひどく不快な感触がする。
「だって、さっき汚い物でも拭くみたいにされたから。すごく傷付いた」
もう嫌だ、体はとても痛い、休みはもう半分も残されていない、朝から顔を嘗め回されるし里美には僕の気持ちが少しも伝わらない。かといって里美に対して怒りの感情を伝えることだって僕にはできない。
自然と気持ちが再びシーツに回帰した。こんなことをしていないで早く服を着て外に出るべきなのだが、すっかり一日の初めから躓いてしまった。
「ねぇ。嘘だよ」
誤解だ少しも汚いものだなんて思っていない。ちょっと、ひんやりしていて気持ち悪かっただけなのに。
「もういいんです」
放っておいてほしい。
「今。朝の6時だよ」
心臓の鼓動が一瞬止まって、体中に活力がみなぎる。
「本当ですか?」
両眼を開けて里美を中央にとらえたが映像が頭にいまだに入らないでいた。
「本当だよ、お馬鹿さん」
ああ・・・・!腕が空中を彷徨って里美を探してとらえるとそのまま抱き寄せた。今はこの人の事しか考えられない。
ありがとう。里美の頬に頬ずりをすると、まだ少しぬめりが残っていたが少しも気にならない。
「臭・・・・朝から元気ね」
結局その日は、朝から町を徘徊して件の画材道具一式をそろえたのは、帰りの途中で、通過する予定だった駅の内部の巨大な雑貨屋だった。
絵を描こうと決心した時はあんなにも鮮明なビジョンがあったのにいざ、道具を目の前にするとすっかり目標がぼやけてしまい、あれこれ考えるうちに頭が爆発しそうになる。
絵具と色鉛筆のコーナーを何往復かしたのちに、先程からこちらの様子をうかがっていた女性店員に声をかけた。
「あの・・・絵を描きたいんですけど」
漠然とした僕の要望に店員は少しも迷うことなく愛想よく振舞うと、水彩絵の具と色鉛筆そしてデザイン用の油性ペンを勧めてくれた。
実を言うと、美術館で見るような油絵を描きたいと画策していたが、結局、一番手ごろだという色鉛筆を選ぶことにした。
子供のころに学校で使っていたものと全く同じ物もあったが。女性店員は、数種類ある色鉛筆の中から、木製のケースのセットを進めてくれたので、迷わずそれを購入する事にした。早くこのケースの中が見たくて仕方がない。
「なんかしょぼいねぇ」
入店してからずうっと黙っていた里美が大変つまらなそうにつぶやいた。
「ダヴィンチとかミケランジェロとか書くかと思ってたのに。岩窟の聖母とか」
美術館に飾られるような絵画をイメージしていたのは僕だけではなかったようだ、気持ちが同調したことが少しだけ嬉しい。
「里美さん帰りはバスにしましょうか。あと少しで出るみたいですよ」
色鉛筆を手にしただけで、僕は生まれ変わったような気になる。
駅へと続く地上から3階くらいの高さにある遊歩道から。次々にターミナルに侵入してくるバスが見えた。
「あそこに止まってるバスそうかな?」
まさしくそのバスだった。増えつつある人込みを、ずかずか歩いて進撃する。
念のため運転手さんに停車駅を確認してから乗り込むと、他の乗客はまだ一人も乗っていなかった。
急な段差の搭乗口で里美を引き上げて。一番奥まで進んで最後尾から一つ手前の窓際に里美を座らせた。つい半日前まで二人きりの時間を過ごしていたばかりだというのに、ずいぶんと久しぶり二人きりになった気分だ。
「ねぇ、開けてみてよ!」
窓から、沈む太陽を眺めていると、こちらに里美が身を乗り出してきた。
こんなところで開けてしまって、せっかくの鉛筆を落としてしまっては大変だ。断ってしまおうとも思ったが。ろくな計画も立てずに連れ回してしまった申し訳なさとで天秤にかけ、僕の中で秤の皿が傾いたのは後者だった。
紙袋をがさつかせて買ったばかりの色鉛筆を膝の上に乗せた。
「近くで見ると結構高級感あるね」
乗り出した里美の頭のせいで僕からはちっとも色鉛筆が見えない。そのことに里美は気づいているのだろうか?
木製のケースは、フィルムでの包装などは一切されておらず、側面に小さな3角形の出っ張りがありそれを回転させると出っ張りがケース内部に収まり蓋が自由に開封できるようになるという一風変わったものだった。3角形を収納溝に合わせて回転させ押し込むとしっかりとした抵抗があった。
それは、指でボタンを押し込むような、ボールペンをノックした時のような気味の良い感触で、さらに奥まで押し込むと三角形のストッパーは固定され確かに溝に収まった。
緊張で、指先に汗がにじむ。視界のほとんどは里美の後頭部で肝心のケースは少しも見えずじまいだったが、この瞬間は僕一人でたどり着いたものではない、この人に一番よく見えるこの場所で見届けてもらいたい。
精密に作られた木製のケースは、音もなく静かに開いた。
「わぁ!すごい!」
里美が覗き込んでいるおかげで全貌を確認することができなかったが、木製のケースの中に黒色の鉛筆がきれいに整列しているのが見えた。不思議なことに、色鉛筆でありながらすべてが黒色をしていて、先端には金色の帯があしらわれていた。
「みんな真っ黒だね!なんかプロみたい」
そっと、ケースの位置を動かして他の場所も改めると、黒色の鉛筆はどれも削られておらず。世界を彩る時をただ粛々と待っているかのようだった。
ケースの上部には見たことないデザインをした乳白色のシャープナーが埋め込まれていて、この道具の役目を考えると神聖さすら感じてしまう。
「ねえみて!これなぁに?」
・・・・もう十分だ。よどみのない動きで蓋を戻して、先ほどの留め具をかけなおした。
「むぅ・・・けち」
束の間。バスのドアが閉まり、先ほど聞いた運転手が出発の音頭を取った。
僕は、それが落ち着くまで待つ。
「里美さん」
バスが唸りを上げて動き出すと里美と目が合った。横顔は夕日に彩られていた。
彼女の手をいつもよりずっと強い力で握るとその背後で、景色がゆっくりと回転し始める。
「今日は、昨日もですけど。ありがとうございました」
「いいんでちゅよ、お気に入りの鉛筆が買えてよかったでちゅね」
「はい」
そう。何も変わらない。
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