クロ

「あの・・・。どうして、でしょうか?」

 鳥類の飼育檻が立ち並ぶエリアを、ノロノロと二人で歩きながら里美に質問した。レストランで少し遅めの食事を済ませた後、電車の中でそうしていたようにぴたりとくっついているから。さっさと歩くことができないうえに、檻に囲まれ風通しの悪い鳥類エリアは蒸し暑い。

里美が巻き付いている腕は、どこか背徳的な汗がにじみ始めていた。


 鳥類の飼育エリアは全体が大きな鳥かごの様になっている、来場者はその中心に通っている人間用の通路を通り、より自然に近い環境で生活する鳥たちを観察出来る仕組みになっていた。

 僕は、畏敬の念を込めて、真上の鳥達の糞を受け止める透明な天井を見た。

「どうしてって、好きだから」

 僕たちを追い越していくまばらな後姿を眺めながら、白頭鷲の檻の前を通過する。

檻の中で置物のように動かない白頭鷲は、鋭い目つきで僕たちを監視しているような気がした。

 僕たちが通る街道の道幅は広く、その真ん中を歩いていたので檻までは十分に距離があるのだが、それでもなお白頭鷲の眼には僕を威嚇するには十分すぎる迫力をたたえていた。

「僕は、あまり好きではないと、この前里美さんに話したと思うのですが」

 その時、里美は酔っていたかも知れない。

 里美は、酒が好きなのだろうがあまり強くはない、ペースが少し早すぎるのだ。何かから逃げるように酒を煽る里美はすぐに意識が散漫になってしまう。最近はその傾向が顕著だ。

「そんなこと。いったっけぇ?」

 里美は、虚ろに前を向いたまま掴んだ左腕を歩くタイミングに合わせて前後に揺さぶりながら答えた。いつもの様に満腹で眠くなっているのかもしれない。

 つられて、急に睡魔に襲われる。普段なら今頃は休憩時間のはずだから仕方がない。


 正確な時間はわからない、わかりたくもなかった。


 やがて、街道の終点が見えてくる。新鮮な空気が流れ込んできて、清々しい気持ちになった。風に微かに甘い香りが乗っている、これはきっと藤の花の香りだ。

「甘い・・・香りがするね。ご飯食べたせいかな眠くなってきちゃった」

巻き付いている左腕に力が籠められる。

「はい、とてもいい匂いがします。里美さん暑くないですか?」

 里美が藤の花に気が付いていたことに内心歓喜した。

 やはり、里美は侮れない洞察力の持ち主だった。僕がうまく言葉に出来ない事や言いたいけどうまく伝えられない事をいつも的確に言い当ててくれる。

 しかし、近頃はその能力を僕に嫌がらせをすることに発揮している気もしなくはない。


 アーチ状の街道の切れ目は、植木の壁になっていて直角に右に曲がるようになっている、曲がり角には屋根がなく先程まで遮られていたお日様が僕たちを強烈に照らした。

「あちち、眩し、焼けちゃうね」

目をしばしばさせながらやはり眠そうな里美がボソリと言う。

「日焼け止め、塗ってきましたか?」

 瞬きしながら、里美に尋ねる。眩しくて目を開けているのは困難だ。日差しに照らされて、里美の髪の毛がいつもよりはっきりと栗色に発色しているように見えた。


 開いた道を少し進んだところに、爬虫類館が見えた。その周辺の日陰には休憩用のベンチと飲み物の自動販売機が設置されていた。ベンチをちょうど覆うように日陰を作っているのが藤の樹だった。香りは、ここから風に乗り運ばれてきたもののようだ。

 藤の花は、グネグネと曲がりくねった幹を持つ樹の枝から、垂れ下がるように咲く花でとても強くて甘い香りがする。

 花の色は、鮮やかな紫色でブドウの房のような形をしている。特徴的なのは、その実で大きな鞘豆のような見た目の実は鮮やかな花の色からは想像もつかない地味な茶灰色の斑模様をしていて、秋になると乾燥した鞘がひとりでに勢いよく弾け種をまき散らすのだ。       

 

 祖父がこの花を好んでいたのか、生家の敷地内に藤ノ木を2本ほど植えていた。

それらは僕が物心つく頃には、庭いったいを覆いつくすほどの花をつけていた。 見た目も美しく、移り変わる夏の訪れを教えてくれるとても風情のある物だったが、祖父はというと、時期になると花の香りに引き寄せられる大量の毛虫の退治に追われていた。ここに植えてある樹にも、よく見れば木漏れ日の陰で何匹かの毛虫が確認できる。里美が毛虫嫌いかどうかわからないけれど、このことは黙っておいた方がいいだろう。

 

 すぐそこに爬虫類館の入り口が見えていたが僕たちは自然と吸い込まれるように木陰のベンチに座った。

 温かい、とてものんびりとした時間だ。ここから動きたくない、このまま時間が進まなければいいのに。明日が終われば、また朝から仕事に行かなければならない。

 休み明けの仕事はつらいのだ。単純に仕事の量が多いからだ。

洗っていない角バットは山積みになっているし、冷蔵庫は僕のエリアまでぐちゃぐちゃに散らかっているし。親方の包丁も手入れされていないから本来は絶対にやってはいけないのだが朝から包丁の手入れしなければならない。

 床も足跡で汚れていて塩、砂糖、そのほか酒などの調味料もほとんど空に近い状態になっている。さらに酷いときなどは、ゴミ箱の中身がそのままの時もあった。

 朝一番でのゴミの片づけは、とても気持ちのいいものではない。

 加えて、そのうちの一つでもこなせていないと怒鳴られる。

 そして思う、誰も気にならなかったのか?と、しかしそんな疑問の答えなど知ったところでどうしようもない。聞いたところで火に油をそそぐだけ。僕に、これ以外の選択肢など最早無いのだから。少しでも早く、母のもとに帰らないと。

 僕は何をしているのだろう。こんなところで、母のことを思うのだったら休んでいる場合ではないのに。本当は・・・。

 

 ゆっくりとこちらに寄りかかる里美の反対のオリーブ色の肩の上に毛虫が乗っていた。

やあ、毛虫君。

 白昼夢のような感覚に落ちていたのは本当にわずかな時間だったはずなのに、里美は静かに寝息を立てていた。本当によく眠る人だ。

 たばこの吸い殻ほどの毛虫は、頭を持ち上げて次に乗り移るための枝を探すように上下左右に揺れていた。

 僕は里美を起こさないように、逆側の手の指先にそっと毛虫を誘導して。そのままベンチの後ろの植え込みの葉っぱに近づける。

 そして、僕の思惑通りに毛虫が葉っぱに乗り移ってくれた時は面倒な仕事を無事完遂できた時のような晴れやかな達成感を感じた。

 姿勢を戻して、先ほど毛虫が這っていた肩をそっと払う。

それから、そのまま風で微かになびく栗色の襟足を人差し指で弄んで元に戻った。

夏の始まりを早々に感じさせる風にひんやりとした空気が混ざり始めていた。



 このまま、時間が止まってくれればいいのに。

そんな子供のような考えを思い描いてはひたすら消した。

 眠っている里美の太ももにそっと手を乗せる。子猫の脇腹のように温かくてやわらかい。

昔こうして、猫を撫でていたことがある。父の店の裏口の、魚の下処理をする流しの下で子猫が必死に鳴いていた。声だけで姿は見えない。家族にそのことを相談すると、親猫が忘れていったただけでそのうち迎えに来るから放っておきなさいと言われた。

その時の久しぶりの家族との会話は、とてもぎこちなかった。

 それから猫は、二日間泣き続けた。既に潰れた喉から出る声は悲鳴に近く、すっかり掠れていた。


 その日は土砂降りだった。元大工でもあった祖父が急ごしらえした。施設の古い区画は、いたるところで雨漏りがする。ここもその例外ではない。

 助けようと思ったわけではなかったと思う、いつもよりひときわ大きなかすれ声がきこえる場所から離れたところにしゃがむと鳴き声がピタリと止んだ。

 雨漏りに容赦なく打たれたが、流しの下の暗がりの向こう側がどうしても気になったのでしばらくその場で目を凝らしていた。

 すると、ヨタヨタと左右に揺れながら一歩また一歩と子猫がこちらに近づいてきた。

小さくて真っ黒な猫だ。

 まだ目が開いたばかりなのか、それとも蛍光灯の灯りが眩しかったからなのか。口を大きくあけて鳴くたびに丸い緑色の眼をしっかりと閉じた。かすれ切った鳴き声にすでに音は無い。ヨタヨタと一歩、また一歩。そして僕の影の中に入ると甘えたような声で一鳴きした。

 良かったこれで助かった。そう、言った気がした。

 

 僕は、両手で子猫を包み込むように抱き上げる。教室を掃除した後の雑巾の様に濡れていたが、小刻み震える体はこんなにも暖かい。こんなに小さな体で、あんなにも大きな声で・・・。

 手の平に乗ってしまうほどの小さな子猫を両手でゆっくり撫でまわした。やがてずぶ濡れだった毛並みが渇き始めると子猫はそのまま眠ってしまった。

せめて雨が止むまで、こうしていたい。


「瑞樹!御飯も食べねぇでこんなことろで何してるんだ」

雨漏りもする綺麗とも言えないこの場所に、場違いな着物姿で現れたのは祖母だった。

「おばあちゃん。何でもないんです。あの。お腹が痛くて」

僕は、慌てて子猫を隠した。僕は、祖母がどんな人物なのかを知っていた。

「お姉ちゃんたちはもうご飯食べてるからオイも早く一緒に食べろ。手間だろ」

祖母は当時70近かったにもかかわらず、背筋の伸びた女傑のような人物だった。

「もうちょっとしたら食べに行きますから・・・」

「オイは、男なんだろ?違うのか?え?そうだろう?弱いなぁ。ちゃんと食べないから勉強もできないんだよ。従兄の勝則なんてこの間部活の大会で優勝したっていうのに。オイはそんなんで中学校あがれるんかい?この店継ぐんだから、もっとちゃんとしないとダメだろ。いつまでたっても、おなか痛ーい。勉強できなーい。学校行きたくなーい。大人になったら全部通用しねぇんだから。・・・だいたいオイのお母さんが甘やかしすぎたんだろうねぇ」

祖母は、事在るごとに僕の前で母をけなした。今回も初めてではないむしろ物心つく頃からこうだった気がする。

 いつもなら、なんとも思わないはずなのにその時は、子猫の生命力にすっかりあてられてしまっていた。思わず、余計なことを言ってしまう。

「お母さんは、関係・・・ないです」

言いながら後悔する、出来れば雨音でかき消されてくれればよかったのに。

「なんだって?!」

祖母は、烈火のごとくキレた。

「ボコがおじょここいでんでねぇ!何だ?結果も残さん怠けもんが一丁前な口きいてなんどつもりだ?ええ!オイのせいでオヤジがどれだけ苦労してると思ってんだ?」

早口でまくし立てるように祖母が言う。あの時、逃げ出していればあるいは。

「オイ!聞いてんのか!?」

しゃがんだ状態で頭をしたたかに被かれる。その場で倒れこんでしまってたが慌ててうずくまり必死で子猫を隠したが。

「なんだそれ、猫か?!」

「違います!乾かしてあげてただけなんです!」

「かせッぃ!」

僕は、抵抗した。でもクロの体にかけられるあらぬ方向への強い力を感じ。思わず手を放してしまった。

祖母は、クロを片手でむしり取った。

「おばあちゃん待って!雨降ってるから!お願い!待ってよ!」

土砂降りの中僕の言葉は届かない。

祖母は、店のすぐ裏の用水路に。クロを放り込んだ。

クロは、濁流にドボンと落ちた。あの音を僕はいまだに忘れることができない。


さわさわ・・・。さわさわ・・・・。

クロは、いったい何のために生まれて来たんだろう。

さわさわ・・・。さわさわ・・・・。

クロはいったい何のために鳴いたんだろう。

さわさわ・・・。さわさわ・・・・。

クロは、いったい何のために生きたんだろう。


里美の太ももは、子猫の脇腹の様に温かくてやわらかい。

「君は、ほんとうに。やさしいんだね」

里美は、いつの間にか目覚めていたようだ、全く気が付かなかった。

「・・・起きていたんですか?」

太ももを撫でていた手をゆっくりとひっこめると里美は両手を伸ばして「うん」と背伸びをした。見ているこちらも気持ちがよくなってきてしまう。

「ずっと、起きてたよ」

 里美は伸ばした両手を素早く降ろしてから一呼吸おいてそう答えた。

 黄昏が近づいた今日の陽気が心地いい。

 少し離れたところで聞こえる鳥たちのさえずりも相まって、ふりではなく本当に眠くなってきてしまう。

「本当に寝たのかと思いました」

息を吐きながら両肘を両膝に乗せ、すっかりまばらになった人通りを眺めながら呟く。

「起こせばよかったのに」

ぴたりと擦り付けられた腕は、柔らかい。

「・・・疲れてるかと思って。今日は電車の中で僕が寝てましたし」

一瞬乱れる呼吸を整えて答える。

「ううん・・・確かにちょっと疲れたかも」

「爬虫類館どうします?」

生ぬるい風がそよそよと吹く。

「また明日こよっか、ちょっと休憩したくなっちゃったし」

里美は、すっと立ち上がってまた伸びをした。

「行こ!」

「待ってください」

 僕は目の焦点て合わないまま植え込みと園内の施設から覗く遠くの景色が、徐々に黄金に染められているを眺めていた。

 その隙間を縫うようにアスファルトと生命力がみなぎる春先の植物の濃い香りが風に乗って運ばれてくる。

なんだかとても気持ちがいい。

「もう少しだけ、お願いします」

里美は、一瞬不思議そうな顔をして、近くにあった自動販売機でジュースを2本買ってきた。

「ありがとうございます。蓋開けますよ」

 手渡された缶をいったん返して、缶の封を切った。

そこまで力のいる作業ではないが、里美の爪に薄く塗られた塗料がはがれてしまいそうで心配だった。

「いいのに、うん。ありがと」

 再度僕に手渡された缶を開けると甘い香りが漂った。どうやら里美のものとは中身が違うようだ。一口飲むと甘さの後に強烈な炭酸が口内で弾けた。独特な香りを放つその飲み物は、薬品のような印象を僕に与えた。

「里美さん」

隣で缶が歪む音がする。

「何?」

 いつの間にか缶の溝にたまったジュースが、飲み口より遠いところまで伝ってしまっている。こうならないように普段から気を付けて飲んでいるのに。

 すっかり内側に押し込められた蓋だった部分が、完全に見えなくなるまでプルタブ押してまた戻す。

 中をのぞくと斜めに刺した光に気泡を含んだ黄色の液体が見えた。

「せっかく一緒にいるのに、あまりしゃべらなくて・・・ごめんなさい」

僕の考えはつまらない。だから僕の話すこともきっとつまらない。

「なんでもいいからもっとしゃべってほしいな・・・」

足を投げ出しながら少しだけ嬉しそうに答えた里美は、笑っていた。

そして、この里美も僕と同じく口下手だった。

「はい」

立ち上がると足先に血が巡りむずがゆくなる。

体を反転させて里美の手をとり立ち上がらせた。

「さっき、里美さんの太ももを撫でていたんですけど・・・。その時思い出したんです」

「なにを?」

ひと呼吸の沈黙を挟んで里美が答えた。

「あまり、楽しい話ではないんですけど。聞きますか?」

「うーん、どうしよ・・・」

「聞かない方がいいかもしれません」

「じゃやめとこうかな」

「はい。それがいいと思いますよ」


僕たちは黄昏の中を歩いて、動物園を後にした。

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