7.8

 ニックはロベルトと同じように、水面に突っ伏した。

 ニーナは瞳孔の開いた眼で虚空を見つめたまま、呼吸を止めていた。


 ジルは現実から目を背けるように、三人に背を向け歩き出す。

 そして自分を断罪するように、血が出るほど唇を噛み締める。


 陸へと上がり、膝をつくと、ジルは叫んだ。


 仲間を失った悲しみ、心の痛み、後悔。

 己の無力さ、無能さ、欲深さ。

 それらすべてが怒りとなり、ジルは絶叫を上げる。


 ――しかし、その絶叫は地面に映ったにより、罵声へと変わった。


「クソッ!」


 ジルはセリカを抱えたまま、膝をついていた体勢を生かし前方へ跳躍する。直後、裂け目から飛び降りてきた巨猿の拳が、先程までジルの居た地面を陥没させた。


 ジルは転倒しそうになるのをギリギリ堪え、巨猿へと向き直る。


 遂に訪れたチャンスに、巨猿は喜びに震え、鼻息荒く興奮していた。


 銃を持っていた三人は動かなくなった。

 もう一人もまともに動ける様子ではない。


 これなら狭い裂け目でも戦える。圧倒的有利に、戦える。


 人間的な造形の顔を笑みで歪ませる巨猿からは、そんな考えが透けて見えた。


 セリカを抱えている状態では戦えない。だがセリカを切り捨てるという選択だけは、絶対にできない。ではどうすればいいのだと、ジルの心は再び絶望に支配される。


 そんなジルの元に、もう何度命を救われたか分からない、いつの間にか肩から降りていたトンテの声が届いた。


「ジル! コッチダ! コノ中ニ、入ルゾ!」


 声は左、その五メートル後方から。巨猿と対峙しながら一瞬だけそちらに目をやると、そこには最初に通った時にはマナに気を取られて気が付かなかった洞窟が、ツルの幕の奥から顔を覗かせていた。


 幅一メートル。

 高さ一.五メートル。

 深さはそれなり。

 中は暗く、昏獣の有無は不明。


 躊躇している暇はない。ジルは意を決し、巨猿に背を向けると走り出した。


 直後、背後から怒りの籠った怒号。

 そして背嚢を何かが凄まじい勢いで掠める。


 たった五メートルの距離が、数一〇メートルにも感じられた。

 ようやく洞窟の入り口に辿り着き、ジルはトンテと共にそこへ飛び込んだ。


 しかし、まだだ。奴の腕は三メートル近くある。もっと奥に行かなければ、引きずり出される。


 天井から突き出した岩に頭を強打するのも気にせず、ジルは突き進んだ。

 すると、その時。突然洞窟内が、一瞬で暗闇に包まれた。


 それは即ち、恐れていた通り奴が手を突っ込んできたということ。

 まだ深さが足りない。このままでは掴まれる。


 ジルはセリカを奥へ放り投げ、右手でナイフを引き抜くと確認もせず、振り向きざまに横へ一閃した。


 機械の腕越しに伝わる、確かな手ごたえ。

 同時に響き渡る、巨猿の絶叫。


 眼前にまで迫っていた巨大な手はのた打ち回りながら後退し、洞窟内に再び明かりが差し込んだ。ジルは入り口を睨みつけながら、セリカの元へとゆっくり後退る。


 またすぐに手を突っ込んでくる様子はない。だが尚も、止むことなく巨猿の怒り狂った怒号が聞こえてくる。見れば、地面にどこかの指の第一関節から先が落ちていた。これだけのダメージを与えたのであれば、怒りは増しただろうが容易に手を出せはしないだろう。


 そう判断し、ジルは再びセリカを抱えて走りだした。

 すると行き止まりへは、すぐに至った。


 入り口からの距離は約一〇メートル。距離は十分だ。そして、他の昏獣の姿もない。


 ――とりあえずは、安全を確保できたようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る