応援コメント

世界は何もくれないから 好きに生きていい」への応援コメント

  •  興味深く読ませていただきました。
     1年近く前に投稿なさった記事ですから解決済みかもしれませんし、そうでなくても余計なお世話かもしれませんが、この記事を読んで僕なりに考えたことを書かせていただきます。

    「そんなに大事なアイテムなら……命に関わるものならくれたっていいのに、くれるわけじゃないんだよね。タダでもらえるのは情報ばかり」
     言われてみればそうですね。
     口では「お客様の健康と安全を守るため」「お客様にご安心いただくため」と言っておきながら、そうやって得た利益の一部さえタダでは社会に還元してくれないんですよね。結局のところ私利私欲です。金銭というご褒美がないと動かないくせに善人ぶっている訳なので、自分にも「お客様」にも嘘をついていると言えます。月澄狸さんが挙げていらっしゃるストレス社会の話がまさに良い例ですが、ストレス回復の商品を売っておきながらストレスフルな社会のあり方を問題視しないのは、自分たちの利益しか考えていないからにほかなりません。社会全体がストレスフリーになってしまっては自分たちの商品が売れなくなる、と戦々恐々としている可能性さえ考えられます。「俺たちだって商売だから」と言って反論した気になっている人もいますが、商売のためなら人道や倫理に反してよいという理屈は(人道や倫理の中身を改めて定義しない限り)何も言っていないに等しいので、身勝手な開き直りでしかないでしょう。仮に資本主義社会がそういうものだから仕方ないと言う人がいたとしても、だからといってその現状を肯定したり倫理的に擁護したりする理由にはなりません。麻薬のような思考停止に溺れているという意味では、グロテスクで醜悪と言ってしまって良いかもしれません。

    「私の今の願いは、やっぱり大金持ちになることだと思う」「小さい頃は「お金がすべて」みたいな意見を言う大人を見て「大人ってなんでこんなに心狭いんだろう」と思っていたけれど、ようやく分かった。/私もそっちの人間だ。/大金持ちになってしがらみから解放されたい」
     この部分は、おそらく月澄狸さんがご自身で醜悪だと思っている感情と向き合ったが故の記述なのだろうと思いましたが、失礼ながらちょっと理屈がおかしいようにも感じました。
     経営学のフレーズを借りれば、「ドリルを買いに来た客が求めている物は(ドリルという商品ではなく)穴」です。願いというのはその言葉の定義上、個人が最終的に達成したい(あるいは誰かに実現してほしい)と強く思う目的であるはずで、手段ではありません。そして、本文を見る限り、月澄狸さんにとって大金持ちになることは手段(通過点)であって最終的な目的ではなく、最終的な目標はむしろ「しがらみから解放されること」の方だと読めました。
     もちろん、目的や欲望が複数あってそれらがどれも金銭で実現できることならば、「自分の願いは大金持ちになること」という話になるかもしれません。ですが、月澄狸さんの場合はそういう訳でもなさそうですよね。人間関係や社会のあり方、ヒト以外の命たちとの付き合い方などに対する違和感や不信感が根っこのところにあって、それらとの折り合いがつかない限り悩みが尽きることはないのではないかと思います。仮にそうだとすると金銭で解決できる問題ではないかな、と。

     ちょっと主語の大きい話をさせていただきますと、現代日本の社会は資本主義に侵食されつつあるので、我々は自分自身に対して目を凝らさなければ、資本主義の理屈に飲み込まれてしまいます。資本主義社会、特に戦後の日本社会においては、道徳的な共通認識が良くも悪くも崩壊し、欲望を満たす(快楽をもたらす)ものが善とされがちです。「人間はどう生きるべきか」、「個人は社会の中でどのような役割を担うべきか」、「自分はどのような人間になりたいか」といったことを真剣に考える人は少なくなりました。現代の日本社会においては、「自分は何をすべきか」の代わりに、「自分は何をしたいのか」を考えることが正直で、誠実で、人間として真っ当な態度だと思われるようになってきています。その証拠に、いまどき、「人間はただ漠然と生きるのではなく、人として正しい道に沿って生きなければならない」、「自分の能力をこの社会のために役立てたいと思って入社を希望しました」などと言っても美辞麗句を並べているだけだと思われて相手にされませんが、「世間が決めた枠組みなんかぶっ壊して自分らしく(=自分のしたいように)生きようぜ」というメッセージは世に溢れていて、そういう楽曲はよく聞かれています。しかし、道徳的な共通認識を失ったからといって私たちは中学や高校できちんと哲学や倫理学を勉強する訳ではないので、「自分とは何か」、「自分はこれからどう生きるのか」ということを真剣に考えないまま社会人になってしまいます。そのため、「自分は何をしたいのか」を考える際、我々のアプローチは2つに分かれます。ひとつは「『みんな』なら何を求めるのか」、もうひとつは「自分はどんな即物的な欲望を満たしたいのか」です。
     個々人が好きなように生きる時代と言いながら「『みんな』なら何を求めるのか」を気にするのは矛盾に見えるかもしれませんが、大学受験も就活も、大半の人はこれです。中学・高校では進路指導ということでアリバイ作りのように「あなたは何をしたいの」「将来どうなりたいの」ということを聞かれますが、大半の学生はまともに考えない(考える術を教わらない)まま、得意科目で文理を決めて、偏差値で入学先の大学と学部を決めます。「みんな」がそうしているからです。就活にしてもそうで、自分が働きたい職種や自分が勤めたい職場についていちいち吟味することはなく、なるべく給料の良いところ、なるべく大きな企業を選ぶ人が多いと思います。給料が良くてもその分サービス残業が多ければ趣味に使える時間や体力はなくなってしまいますし、大企業でも自分の適性に合わない職種に入社すれば苦労するだけですが、「みんな」がその指標で動いているので何となく自分もそうしてしまうのです。このとき、自分の欲望は「みんな」に取り込まれて、「みんな」が求めるものを自分も求めているかのように錯覚してしまうのです。
     また、「自分はどのような人間になりたいか」という問いには、「自分がどのような人間になれば自分で自分を肯定できるか(自分自身について胸を張れるか)」という道徳的な側面が含まれているはずなのですが、現代日本人はこの問いを「自分はどんな即物的な欲望を満たしたいのか」という問いと混同しがちです。これは先述の通り、戦後の日本社会が(良くも悪くも)道徳的な共通認識を失ったからでしょう。
     で、やっと本題に戻ってくるのですが、失礼ながら、月澄狸さんもこの罠にハマっていらっしゃると僕は感じました。「大金持ちになりたい」というのは「みんな」の欲望であり、即物的な欲望でもあって、だから月澄狸さんもご自身の中にある最も分かりやすい願いとしてそれに言及なさったのだろうと思います。しかし、同時に、月澄狸さんはそれだけでは納得していらっしゃらないはずです。というのも、このエッセイを見る限りでも、「みんな」が蔑ろにしているヒト以外の命も大切に扱われるべきだと考えていらっしゃるようですし、ご自身の即物的な欲望よりも小さな命を慈しみ敬意を払うという「道徳」を優先して生きていらっしゃるからです。その意味で、月澄狸さんの究極的な願いはやっぱり「大金持ちになること」などというつまらないものではないのでしょうし、「『お金がすべて』みたいな意見を言う大人」たちとは違うんだろうな、と僕は思います。
     青臭い話を長々と、すみません。

     蛇足かもしれませんが、上に述べたことは僕自身の思考から出たものではなく元ネタがあるので、出典について述べておきます。「大金持ちになること」という願いに違和感を持ったのはミヒャエル・エンデの児童文学『モモ』があったからであり、それを取り上げた『100分de名著』というNHKの番組を最近見たからです。現代社会が資本主義に侵食されているという話は哲学者ハーバーマスの学説が元ネタですが、彼自身の本はどうにもふわっとしている印象を受けたので、僕は簡単な解説書や短い論文しか読破していません。「みんな」の欲望云々の話は上田紀行という人の『生きる意味』(岩波新書)に書いてあったことが念頭にあります。
     また、今回の応援コメントとは別の話ですが、月澄狸さんのエッセイを拝読していると、藤子・F・不二雄のSF短編『ミノタウロスの皿』が何度となく思い出されました。月澄狸さんが投げかけていらっしゃる問いは、まさにこの作品で藤子・F・不二雄先生が読者に投げかけた問いと共通していると感じます。未読なら一度読んでみていただければと思います。もう既に書かれているかもしれませんが、月澄狸さんがレビューやオマージュ作品を書かれるなら、ぜひ読んでみたいです。

     長文失礼しました。

    作者からの返信

    >あじさいさん
    とても丁寧なコメントをありがとうございます。頭が悪くて学のない私にとっては、こういった貴重なご意見をいただけることが新鮮です(この発言が何かの差別に当たったらすみません)。

    「社会全体がストレスフリーになってしまっては自分たちの商品が売れなくなる、と戦々恐々としている可能性さえ考えられます。」というお言葉にはたしかにと思いました。商品の多くは、それを売って世界を良くしたいという考えより、何でも良いから売り続けなければならない、生き残らなければならない、食って行かなくてはならない、成功したい(勝ち組になりたい)などという意志が先行しているように思えます。本当はもっと全員が幸せになれる道があるとしても、「そんなことをしたら『自分たち』の商品が売れなくなる」というところが行き止まりになり、それ以上の発想が育たなくなってしまいますね。

    また恐ろしいのは、人間は人間からしかお金を得られないのだから、誰も本当の意味で地球環境や他の生物の立場に立って考えられないだろうということです。
    殺虫剤とかでも売れる限りは売り続けるでしょう。世論が変われば売る側も変わらざるを得ないでしょうが、逆に言うと世論が変わるまでは売る側自ら変わることはないと思われます。創作においても「売れたいなら需要に合わせろ」「自分が書きたいものではなく人気のものを書くべし」といった意見がありますが、それと同じですね(?)。
    「こんなに次々と虫を殺していて、何か環境に与える悪影響はないのか?」とか、「人間以外の生物にも尊い命があるのに、殺虫や駆除の宣伝をすること自体が虫に対する悪いイメージを強く植え付け、人々に『虫は殺して当然だ』『虫は気持ち悪いものだ』と思わせ、命を軽んじる思想の原因になっている。虫を恐れたり嫌ったり殺したりする以外に方法はないのか?」という発想を持っている人は少ないように思います。
    こういった認識すらされない生物差別意識が人間社会での差別や多数決・排他的考えにも繋がっているような。世界は洗脳で溢れています。

    そして私自分も狭い範囲の思考に囚われていますね。「大金持ちになりたい」という願いは、この世界からの「逃げ」のように思えます。もう何もしたくない、考えたくない、自分に降りかかる大抵のことを解決・選択できて、残金や時間や人の目を気にせず心から遊べるだけの金銭的余裕が欲しいと……要するに現実逃避です。
    そして私が小さい頃から目にしてきた大人の願いや夢もそれであるような気がしています。命を左右する医療的なことですら、貧しくては受けられない世の中ですが、お金があればある程度自由に生きられるでしょう。
    また、お金があって、それを募金したりすれば、多少「問題に対して何かをしている」気持ちになれますね。(募金を否定する意図で書いていません。しかしもっと根本的に解決する方法はないのだろうかと思ってしまいます。世界から武器がなくなれば良いのにとか)

    お金持ちになりたいのは「みんな」の意見に染まったからというのはそうかもしれません。そして最終目標が「しがらみから解放されること」だというのも。
    どうせ願うなら「みんなが豊かになる」ことで良いはずですね。「自分だけ豊かになりたい」と願うようでは、「自分の商品を売り続けられればそれでいい」と言うのと同じです。

    私は小さい頃から何をやってものろく、人とコミュニケーションをとることも苦手な落ちこぼれでした。故に自信がなく、「自分に生かせる能力などない」という結論に達してしまったために、「この世界の中でこうしたい」という熱意よりも、「お金を得て、人に迷惑をかけず、指図されることもなく、一生好きにしたい」という枠に収まってしまったものだと思われます。本当は小さなことからでも、「自分のやりたいことを実現化する努力」をすべきだったんですけどね。

    また、私の詩集「良くも悪くも、星の回転は止まらない」の中の1ページで、「たとえ差別も戦争もいじめも 動物虐待も貧困も格差も すべて無くなったとしても 終わらない 止まらない 人の頭は星と共に回り続ける」と書いておりますが、そのような思考で「ゴールを見失った」というところもあります。命というのは微生物にもありますし、「かけがえのない命」「命は平等」といった理想(あるいは綺麗事)をどこまでも追求すると、ゴールや目標が見えなくなります。すべてに対して疑り深くなったりもします。少し前は「コロナをやっつけろ!」とか「見えない敵との戦い」みたいな戦闘的意見が多く感じましたが、コロナも平等な命であり「地球の声」であるという捉え方もあります。

    しかし現実的な概念は重く、一歩間違えば差別を助長したり誰かを傷つけたりします。とりあえず、思考の迷路にはまった今は、それを言語化し、文章として表す作業がやりたいというところです。(これも行動しない言い訳かもしれませんが……。)


    せっかく丁寧にコメントを書いてくださったのに、ちゃんとした返信になっていなかったらすみません。話が飛び飛びになってしまいました。うまく書けず申し訳ないです。
    そして今回書いてくださったご意見の出典について教えてくださってありがとうございます。ミヒャエル・エンデの児童文学『モモ』は読んだことはありませんが、よく作品名を耳にしますね。

    藤子・F・不二雄先生の『ミノタウロスの皿』は私も読みました。テレビ番組でこの作品を知ったときは衝撃を受けました。エッセイやブログに書いたことはありませんが、影響を受けていると思います。あのような素晴らしい作品と、このエッセイに共通するものがあると言ってくださって嬉しいです。

    ミノタウロスの皿では主人公が「ズン類」に「ウス」を食べることをやめるよう説得しようとしますが、「ズン類」とは話が噛み合わず、誰も聞き入れませんね。人間(ウス)視点で話が進むのでゾッとします。しかし主人公自身も、自分が牛を食べていることは棚に上げ、人間のみの視点で考えています。お互い何かがズレているような奇妙さ、そして私たちの行いや性質を再認識させられる作品だと思います。

    「人間と動物が逆だったら」で検索したこともありますが、出てくる画像が興味深いです。私の作品では「せいじん親子」がこれらのテーマに近いように思います(食べる・食べないの話ではないですが)。
    https://kakuyomu.jp/works/1177354054912716588


    エッセイを最終更新話まで読んでいただいて嬉しいです。応援コメントもいただけて、勉強になりました。本当にありがとうございました。