文明退廃論者

おはよう、人類。

　膨らんでいたのは、物言わぬ肢体だった。

　触ってみても、人間とは思えぬ冷たさしか伝わってこない。撫でて、叩いて、叫んでも。目の前の物体は動こうとしない。それ以外は、まるで眠っているだけのように見える。昨日の美しさを保っているように思えた。彼女はまだ眠っているだけなのではないだろうか。わからない。わからない。わかりたくない。

　わたしは力の入っていない小夜子を抱えて、ゆっくりと階段を降りて、洋館を出る。

　日の光に照らされた彼女は、やっぱりただ眠っているようにしか見えなくて。腐っているような感じもなくて、彼女の甘い香りはまだ残っていて、やっぱりまだ生きているんじゃないかと錯覚してしまうほど。わたしは信じたくない。きっと、これは何かの間違いだと。

　わたしは時間をかけて、彼女の家から、自分の家へと、小夜子を運んだ。

　小夜子を自分のベッドに寝かすとなんだか背徳的なことをしているかのように感じた。今ならなんでもできるぞと悪魔がささやくようで。

　絹のように細い髪をすくう。色素が薄い彼女の髪は、手に取ると余計に色が薄く見えて、消えていくようだ。パッと手を離して、髪を整えた。

「……目を覚ましてよ」

　わたしは、昔聞いたおとぎ話のように、眠る小夜子にキスをした。

「…………」

　小夜子は、ゆっくりと目を開いた。やっぱり生きていた、と思う前に、さっきの自分の行いを思い出す。バッと小夜子から離れて、言い訳を連ねる。

　その様子を彼女はじっと見ている。小夜子は目を開けたまま、ただ、こちらを見ていることに気づいた。

「小夜子？」

「…………」

「喋れないの？大丈夫？」

「…………」

　彼女は、ただ目を開けて、じっとわたしを見ているだけだ。わたしからの問いに動きもしなければ、喋りもしない。どうして。

　体温だって、まだ冷たい。スカートをめくりあげて、太ももを触ってみても、心臓付近を触ってみても、冷たさ以外の温度を感じることができない。心臓に耳を近づけてみても、脈打つ音が聞こえなかった。なんで、どうして。目を開けたというのに。

　日が落ちて、陰りが見えてくる。

　考えるのは放棄して、小夜子と共に眠ることにした。横にいるのは本当に小夜子なのか、わたしの知っている彼女なのかを考えずに。

　目を閉じた。

　□□□

　開け放ったカーテンのせいで、目に直接日の光が直撃して、目が覚める。最悪の目覚めだ。窓を開けて、外を見る。景色は昨日と変わらず。朽ち果てた建築物が建ち並び、その建物らに寄り添うように大きな木が生えてきている。

「世界、終わってんな……」

　ぽつり、人ごとのようにつぶやく。紛れもなく自分に訪れている出来事だというのに。世界は、たった一晩で、退廃してしまったというのに。自覚が足りない。

　夢のように終わってしまったことに対して、いまいち実感がわかないというせいもあるのだろう。一晩で、世界が終わったことにどうにも適応できないのだ。

「おはよう」

　彼女に話しかける。

　小夜子は、ゆっくりと目を開いた。そうして口も開かないし、動かない。昨日と一緒だ。本当に彼女と二人でこの世界に残されたのだろうか。彼女は本当に生きている？　わたしは気づいてないだけで、死んでいるのではないか？　疑問はつきないが、わたしにわかるものはひとつとしてなかった。

「小夜子、ちょっと出かけてくる。ここで寝ててね」

　彼女はわたしをじっと見つめて、それからゆっくりと目を閉じた。

「誰かいないのかな」

　独り言をつぶやきながら、家を出る。

　いつも通る道も、今はもう違うもののように見えた。

　お隣の家は、崩れてしまって、残骸だけが存在していたりするし。路上に駐車してあっただろう車は、天井部分が剥げてしまって、ガラスは車内に飛び散っているし、タイヤは潰れてしまっていて、もう走れそうにない。

　かつて通っていたはずの学校だって、鉄骨がむき出しになって崩れて、修復しないと近づくのだって危なそうな雰囲気へと変わっている。校庭に植えていたはずの木は、尋常じゃないくらいに大きく育っていて、学校を突き抜けて、空へと伸びていた。

　幼い頃に行った遊園地は、観覧車が軸から外れて斜めに横たわっている。錆びてぼろぼろになっている。あの頃の記憶のままに残っていない。メリーゴーランドも錆びて、白馬は黒く変色してしまっていた。電気も一切ついておらず、日はあるというのに暗いジメジメとした雰囲気で、気味が悪くて、足早にその場を去った。

　よく通っていた図書館は、入り口付近が崩れ落ちて、ずいぶんと風通しがよくなっている。むき出しの本棚が見えた。手に取ってみると、パラパラとめくるだけで、紙はバラバラとばらけて風に流されていく。表紙部分だけが残った本を、床に落として、歩き出す。

毎日のように行っていたデパートは、何かにばくりと食べられたようにコンクリートを抉られている。お行儀悪くケーキをそのままかじったようなそんな痕。

「…………」

どこもかしこも人の気配がしない。あるのは壊れて歪んであるものだけで。

文明が確かにここにあったという現状しかなくて。これからも続いていくはずだったわたしたちの道はもうどこにもない。どこにもないのだ。

ああ、さよなら人類。おはよう、人類。

わたしと、彼女の二人だけが世界に残されている。きっと、わたしたちだけ。

絶望とほんの僅かな希望だけがわたしの中にある。