10.夏休みの終わり
「あっづ……」
「あっついねー」
エアコンの調子が悪い部屋で椅子に座ってパソコンに向かい、昼の暑さに息を吐くと目の前から返事がくる。
目の前、俺の膝の間に座った愛は同じく暑そうで、でもどこか楽しそうにパタパタと団扇を扇ぐ。
「もう八月も終わるってのになあ」
本日は八月三十一日。暦の上ではもうすぐ秋である。
「しかし、なんで水着?」
俺の前に座って背中を預ける愛は、部屋の中なのになぜか水着を着ている。
まあ今の暑い部屋の環境では適切な選択と言えなくもないけど、それでもやっぱり部屋で水着はミスマッチだ。
「だって着る機会なかったんだもん」
言った愛が団扇と逆の手に持っていた棒アイスを咥える。
そのアイスは溶け始めていて油断してるとこぼしそうだ。
「まあずっと家にいたしな」
夏休み中、食料生活必需品買い物以外の外出をしなかった(というかする気がなかった)ので、当たり前といえば当たり前なんだけど。
「海は無理だけど、どっか旅行でも行くか?」
「いいの?」
俺の提案に愛が首を捻ってこちらを見る。
「お前、俺のこと外出するの大嫌いだと思ってるだろ」
「違うの?」
「まあ、否定しないけど」
「しないんだ」
「でも愛と一緒なら嫌ってほどじゃない」
「そっか」
呟いた愛は、こちらに体重をかけてより体を密着させてくる。
安い椅子だとこんなことしてたらすぐに壊れそうなので、買うときに奮発して高いの買っておいてよかった。
まさかこんな状況で活用されることになるとは全く予想してなかったけど。
なんてことを考えていると、体を動かした拍子に溶けたアイスが愛の胸元にこぼれた。
「あっ」
アイスが肌に触れ、少しだけ垂れて細い跡ができる。
「拭いてくれる?」
「自分でやればいいだろ」
「だって両手埋まってるもん」
「じゃあしょうがないな」
諦めて愛の鎖骨の下辺りのアイスをなぞると、その指が愛に咥えられる。
「ありがと」
「感謝するならアイスを一口くれ」
「もーしょうがないなー」
差し出されたアイスの先を齧ると、口の中に冷たい甘さが広がって頭の中で幸福物質が分泌されるのがわかる。
「やっぱ俺も一本食おうかな」
「立ち上がりたくないからダメ」
「えぇー……」
膝の間の愛が立ち上がってくれないと、必然的に俺もここから移動できない。
まったく、愛はわがままだ。
お返しに、というか悪戯で愛のへその周りをくるりと指でなぞると、「ひゃうっ」って変な声が聞こえた。
「急になに!?」
「暇だったからつい」
「ついじゃないでしょ。次やったら怒るからね」
「はいはい。それで、どこ行きたい?」
「なんの話だっけ?」
「何処出掛けるかって話だよ」
「そっかそっか。じゃあ温泉行きたい」
「いいな、温泉。ゆっくりできそうで」
それに観光地を巡るよりは人も少ないだろうし。
「ほんと?じゃあ温泉旅行に決まりね?」
あ、日帰りじゃないんですね。まあいいけど。
というか泊まりだと愛の方が日程的に制約があるな。
もし俺一人で行くなら間違いなく平日に行って平日に帰ってくるけど、愛と一緒だと連休か、もしくは週末じゃないと行けないことになる。
仕事的にも、ネット環境とノートPCがあれば困らないし、こういうところは普通じゃない仕事してるメリットなんだが。
「学校サボるのはナシだぞ」
「えー」
「えー、じゃない」
「一週間くらい温泉旅行したかったのに」
「それは卒業したからな」
「…………、うんっ」
頷く愛に、パソコンを操作して旅行サイトを見せる。
ふたりでああだこうだと言って、最終的に隣の県の温泉地に予約することになった。
◇◇◇
「今日はなに作ろっか」
相変わらず俺の膝の間に座ったままの愛が、マウスを操作しながら呟く。
今の画面には料理のレシピサイトが表示されていて、リンクのいくつかがクリック済みの表示になっていた。
「優、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ今日はなに食べたい?」
「えー、なん……」
「なんでもって言ったら殴るからね」
「えぇー」
急に言われても困ると抗議しても聞いてもらえないのはわかっているので、マウスを持つ愛の手に手を重ねて、カチカチと操作してページを眺める。
最近作ったものは文句を言われそうなのでなにか新しいものを、とリンクを辿っていると、一つ映画で見た料理を思い出した。
「伊勢海老のエビフライ」
「あれって美味しくないんでしょ?」
「作中じゃ微妙な反応だけど実際に作ると美味いらしいぞ」
ってシネマトゥデイのインタビュー記事で読んだ。
「へー、そうなんだ」
思いつきで言ってみたけど案外乗り気そうな反応に、冷静になるとちょっと心配になってきた。
「揚げ物だけど大丈夫か?」
「この前コロッケ作ったし似たようなものでしょ」
そうかな……、そうかな……。
まあ何事も経験だし試してみればいいか。
「それより、近くで伊勢海老売ってるかな?」
「あー……」
確かによく行くスーパーで伊勢海老を売ってるのを見た記憶はない。
とはいえ普段注目しないような棚に置いてある可能性もあるけど。
「とりあえず、行ってみるか」
もし置いてなかったら、他の店に電話でもかけて扱ってる所を探そう。
「それじゃシャツ借りるね」
「もしかしてそのまま買い物行く気か?」
「大丈夫、下もちゃんと履くから」
それは大丈夫って言うんだろうか。
まあ水着なら下着よりセーフ側だから問題はないんだろうけど、非日常的な違和感に若干納得しづらい。
とはいえ気分の問題で別に実害があるわけでもないので、スルーしてそのまま買い物に出掛けた。
◇◇◇
「ただいまー」
食事を終えて風呂に入っていた愛が、またシャツ一枚で部屋に戻ってくる。
この部屋に来た頃は深夜の寝る前に風呂に入る生活リズムだった愛だが、しばらく前から俺と同じ時間に寝るようになっていて、風呂の時間もそれに合わせた昼過ぎになっていた。
「髪拭いてー」
「はいはい」
タオルを持ってソファーに座った愛の後ろにまわって、髪を拭く。
これもいつの間にか日課になっていた行動で、自分でやれと言ってみても聞く気配がない。
まあ髪短いからそんなに労力もかからないし、別にいいんだけど。
手を動かすあいだに視線を正面に向けると、画面が消えたテレビに反射して俺と愛の姿が見える。
しかし、こうしていると愛はかわいくて、その後ろに映る俺がかなり見劣りして見えた。
柔らかい髪を傷つけないように優しく拭きながら、気持ちよさそうにしている愛にふと尋ねる。
「愛は俺でいいのか?」
「どうしたの?急に」
「愛ならもっと他に良い男が選べると思うぞ、世の中に俺より良い男なんていくらでもいるからな」
髪を拭く手を止めて答えを待つと、愛がしっかりとした口調で話す。
「もし世界に最高の相手がいるとしても、その相手と出会える可能性はほぼゼロに近い。だから身近な結婚相手で妥協しましょうって言うでしょ」
「聞いたことあるな」
「でもそんなの私は知らない。だから、私の決めた相手が世界で最高の相手なの」
その物言いはとても愛らしくて、思わず小さく笑ってしまう。
「ねえ、優」
「ん?」
「優は、あたしでいいの?」
質問に少しだけ考えて、愛の髪を撫でる。
「俺は、愛のこと好きだよ」
「…………、うれしい」
髪を撫でる俺の手に、愛が手を重ねてゆっくりと引く。
そのまま体が密着して、意図を察して両腕に力を込める。
ぎゅっと抱きしめた愛の体は風呂上がりで温かく、良い香りがした。
その感触に幸せを覚えていると、愛が首を曲げて顔をこちらに向ける。
お互いに視線が合って、どちらともなく顔を近づけ、唇が触れた。
◇◇◇
お昼を過ぎてから映画を一本見終えてそろそろ寝る時間になり、ソファーから腰を上げると愛がこちらへ視線を向ける。
「今日はどうする?」
「ベッド」
短く答えた俺に、愛が先にベッドに入って半分だけ布団をめくる。
「じゃあ寝よっか」
「はいよ」
その隣に横になると、愛が楽しそうにこちらを見つめた。
ベッドの中で向かい合いながら、前髪が触れそうな距離でお互いを見て、寝ると言ったのに寝る気がなさそうな愛に話しかける。
「明日から学校か」
夏休みはこれで終了。
明日から愛は普通の高校生活に戻ることになる。
つまりこうやって一日の大半を一緒に過ごすことは出来なくなる。
「夏休み終わったらどうするんだ?」
「どうしてほしい?」
「とりあえず、今みたいな生活は無理だろ?」
「そうだね」
「でも、ずっと一緒にいてほしい。一生」
「うん……、うんっ……!」
その嬉しそうな反応に気恥ずかしさを感じて、誤魔化すように愛の髪を撫でる。
感触に気持ちよさそうに身を委ねて、ゆっくりと目を細めた愛を見ながら指を引くと、耳元のピアスに指が触れた。
「ピアスとらなくて大丈夫か?」
「ベッドが血の海になるかも」
「オイオイ」
笑っていいのか判断に困る冗談に指を止めると、その指に愛が手を重ねて呟く。
「外してくれる?」
「はいよ」
なぜか楽しそうな愛の耳に指を回して外そうとすると、留め金が上手く掴めなくて若干苦戦する。
「んっ……、くすぐったい……」
首をすくめながら声を漏らす愛を無視して、そのまま指を引っ掛けてやっと外せたピアスを指に摘む。
「外れたぞ」
「……、ヘンタイ」
「不可抗力だ」
抗議の視線をスルーしてピアスをベッドの棚に置き、再び愛と視線を合わせる。
むくれていた愛は、しばらく視線を合わせているとぷっとおかしそうに息をふき出した。
それに合わせて俺も小さくふき出して、ひとしきり笑ったところで愛が言う。
「優とこうしてるの好き」
「よく眠れるから?」
「そうだけど、それだけじゃないよ?」
悪戯に笑うその視線に思わずドキリとしてしまう。
それに気付いたのかはわからないが、愛が囁くように呟いた。
「もうちょっと起きてよっか」
「明日起きられなくなるぞ」
「まだお昼過ぎだもん、全然平気」
「そういえば、それもそうか」
学校に行くなら明日の朝までに起きればいいんだもんな。
一日の始まりが日没後の夜型生活してるとこういうときに感覚が狂ってちょっと困る。
「それじゃあもうちょっと」
「うん」
頷く愛とおでこがくっつく。
それがなんだか可笑しくて、また二人で笑い合った。
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