男の娘、娼婦に生の術を乞う。
プ口の作家。
プロローグ
暗い部屋の中で男の息遣いが聞こえる。
「お待たせ」
ユキオは女の声で言った。
「お嬢ちゃん、俺は綺麗なお姉さんを希望したはずだが?」
「あら、私だってお姉さんよ」
ふん、と男が鼻を鳴らす。
「俺のプレイに耐え切れるかな?」
ユキオはベッドに寝転がる男の顔を覗き込んだ。暗いおかげで顔のシワがないように見える。目鼻口の凹凸を見て、昔、母と見たミニチュアの街のジオラマを思い出す。
男が何か言ったようだが、聞き逃してしまったので微笑んでおいた。
「君みたいな子がどうしてこんなことをしているの?もっといい道があったろ」
「私の仕事を、誰にだってできると思ってるの?」
「いや、そうじゃないよ」
ユキオが男の頬を軽く叩くと、男がまた、ふん、と鼻を鳴らした。
「私には夢があってね。それの修行をしているの」
ユキオが男の鼻をつまむと、男がユキオに抱きつこうと体を起こす。ユキオはすばやく身を引いた。
「お客様、困りますわ」
「何が困るんだ、俺は客だぞ」
「時間はたっぷりありますわよ」
男は下卑た笑いを浮かべた。
「今日は私とお客さんの初めての夜だから、オプションサービスをつけちゃいます」
ユキオはボストンバッグから太いロープを取り出し、丈夫さを確かめるように引っ張って見せた。パチンと音が鳴る。
「そんな事も知っているのかい。これは本当にお姉さんだな」
ユキオはいつもやっているように男の体を縛り上げた。途中、男が話しかけてきたが、全て無視する。最後に両足を開いた状態で固定し、固く結んだ。
「忘れてた」
男の下着を引きちぎる。男が何やらしゃべっているようだが、耳に入らない。ボストンバッグから一眼レフカメラを取り出した。男の顔が怪訝なものに変わる。
「待て、何をする気だ」
「丸石商社専務、飯島義雄。飯島佳余子、専業主婦。飯島澪、和洋女学院」
閃光が走る。凍りついた飯島義雄の顔がはっきりと浮かんだ。ユキオはレンズを覗き込みピントを合わせる。構図がイマイチな気がしたので、一歩前に出て腰をかがめた。
「お前、やめろ。おい」
「助けでも呼んでみたらどうです?」
シャッターを切るとスライドショーのように画が浮かぶ。先ほどからの変化は飯島義雄の表情のみ。足はM 字にさせられたままだった。
「この写真をある企業に売却します」
「頼む、やめてくれ」
「どこかの企業です。せいぜい怯えて暮らしてください。僕のことを警察や誰かに相談したら最後。どうなるかわかっていますね」
「クソ誰の仕業だ。金ならいくらでも払う、ロープを解いてくれ」
ユキオは角度を変えて何度かシャッターを切った。男は何かを叫び続けていたが、冷蔵庫の音が気にならないのと同じようにユキオの耳には入らなかった。
「はい、チーズ」
カシャ。
ユキオは誰かが席を立つ音で目が覚めた。つまみを回すように周囲の音が耳に入ってくる。聞き取れない声たちがユキオの周りを群れるように流れていた。霞んだままの目で辺りを見ると、自分が取り残されたような気がしてうろたえたが、すぐに気のせいだと気づく。
六時限目である数学の授業が終わり、ユキオ以外の生徒たちは放課後に向けて動き出していた。黒板に書かれた消しかけの数式を見ると、半年前に予習したところだった。
立ち上がって伸びをする。隣の女子がチラチラ見てくるが、ユキオは周りに倣い、机を教室の後ろへ動かす。掃除ロッカーからほうきを取り出し、誰よりも早く掃除に取りかかった。きちんと教室の隅から始める。仮眠をとったおかげで頭が冴えていた。四人の生徒がほうきを持って掃除に加わるが、男子二人は無秩序にほうきを動かすだけで掃除とは言えなかった。女子二人はユキオを真似るように反対側の隅から、きっちりと掃き始めた。女子たちが男子たちを避け、真ん中でユキオとかち合うと、片方の女子が慌ててチリトリを持ってきた。
「ユキオくんはいつも真面目だね」
チリトリを持った女子がユキオに話しかけた。
「そう?」
女子の耳が、暑くもないのに赤くなっているのがユキオの目にとまる。
今日は三者面談があり、掃除を早く終わらせる必要があった。
「早く後ろもやろう」
ユキオは机を前に動かし始めた
「成績はいいんですけど、生活態度に問題があるんですよ」
ユキオは目の前で喋っている教師を見つめていた。隣に座る詠美と見比べて、これが同じ大人か、と思うと感慨深かった。
「申し訳ありません。具体的にどういった問題があるのでしょうか。きちんと言いつけますので、教えていただけますか」
「具体的ねえ」と大黒屋がため息をつく。「まず、教師に対して反抗的なんです」
ユキオは二人のやりとりを聞きながら、こういう話を本人の前でするのはまずいのではないか、と思っていた。
「授業中も居眠りしてばかりです」
「まあ。夜はたっぷり寝ているはずなんですが」
ユキオは思わず詠美を見る。ユキオの睡眠時間が少ない理由は、詠美が一番わかっているはずだ。
「でも、テストはいい点をとっていますよね」ユキオは三者面談が始まってから初めて口を開いた。「授業ってテストでいい点をとるために一手段ですよね」
「今は君の態度の話をしているんだ。テストの点数の話はしていない。ほら、お母さん、こうやって屁理屈ばかりで我々は困っているんですよ」
「まあ。しつけはたっぷりしているはずなんですが」
ユキオは笑いそうになるのを堪える。大黒屋に顔を見られないよう下を向いた。
「お母さん。片親が大変なのは十分理解できます。ですが、だからといって、ユキオくんの教育が半分になっていいわけではありませんよ。お父さんがいなくても立派に育つ子供はたくさんいます。ユキオくんだって、正しく導くことができれば立派な大人になります。ね、ユキオくん」
大黒屋はユキオに笑いかけた。嘘が下手な詐欺師が笑えばこんな顔になるのではないか、とユキオは思う。まだ本物の詐欺師にあったことはないけれど。
「まあ。それはそれは」
ユキオには、詠美が話を聞いていないことがわかる。
「じゃあ、母さんの教育は半分不足している、先生はそう言いたいのですね」
「そうは言っていない」
大黒屋の視線は、ユキオと詠美のあいだをせわしなく行き来していた。
「でも今の僕は、正しく導かれていないと暗におっしゃっています」
「こら。先生に口答えしてはいけません」
詠美の言い方は芝居がかっていた。
「俺はお父さんがいないっていうのは大変なんだろうなと思って…」
「まあ。ご心配ありがとうございます」
詠美はゆっくりと頭を下げる。
「あ…いえ」
大黒屋は尻をモゾモゾさせて居住まいを正す。
「僕はこのままじゃ立派な大人になれないのか。残念だなあ」
「まあ。それは残念ね」
「とにかく、我々教育機関は家庭環境に問題がある…いや失礼…、生徒だけでなく親御さんを最大限サポートをする意向です。そのために我々教師と親御さんとは密なコミュニケーションを図り、ユキオ君のような子供たちのために連携していかなければいけないんです」
大黒屋は眉間に皺を寄せて、慇懃な表情を作っていたが、額に汗がにじんでいる。
「今の学校って、そんなところまで心配りいただけるんですね。助かりますう」
詠美は語尾をのばし、母親のステレオタイプのような口調で言う。ユキオは詠美がそんな風にしゃべっているところなど聞いたことがない。
大黒屋はポケットからメモ用紙を取り出し、「これは私の LINE ID です。何かあればいつでもご相談下さい」と詠美に差し出した。
詠美は「おそれ入りますう」と語尾を伸ばし、受け取る。
以前、ユキオが職員室に呼び出されたとき、大黒屋は「子が子なら親も親です。常識がないっていうか、会話がずれてるんですよ。勘弁してほしいです」と他の教師に話すのを聞いた。一度目の三者面談の次の日だ。あんなことを言ったくせに、間髪入れずに二度目の三者面談が行われた理由をユキオは今悟った。
「すみません、会議が控えてますので、今日はこれで。わざわざお呼び立てして申し訳ありませんでした」
大黒屋は立ち上がり礼をする。
「いえ、うちの子がご迷惑をおかけているようで申し訳ありません」
詠美も恐縮したようにお辞儀をした。
大黒屋は「ユキオ、俺はお前のことが嫌いなわけじゃない。むしろ好きなんだ。だからこうやって気にかけているんだぞ」と詐欺師スマイルを残し、教室を出て行った。
「あの先生って何歳?」
「お母さんよりは若いんじゃないの」
「あれは女にモテないね」
ユキオと詠美は校舎を出た。グラウンドの横の道を親子で並んで歩く。遠くでうみねこが鳴くように、ショーイと野球部が叫んでいる。世界が平和であることを感じた。
「あなた、そんなに居眠りしているの。お手伝い減らそうか」
「目をつぶっているだけだよ、眠ってるわけじゃない」
「もったいない。机の下で本でも読んだら」
「一番前の席なんだ」
「読書はできなくても、居眠りはするのね」
「ついつい眠っちゃうんですって方が、可愛げない?」
詠美は「ふーん」と言ったきり、答えなかった。それから黙って歩いていると、ユキオをよりも背の高い、制服を着た男女を見かけるようになる。近くに高校があるのだ。道行く学生たち、特に男子学生は、詠美のほうをチラチラと伺いながら通り過ぎて行く。
「そういえば大黒屋先生がね、前に『子が子なら、親も親だ』って言ってたんだよ」
「なんか、気に障るようなことしたっけ」
「会話が噛み合わないって」
「聞いてないもの」
ユキオは笑った。
「子が子なら、親も親」
詠美はゆっくりとその言葉を口にした。そしてクスクスと笑い出す。まるで悪戯を成功させた少女のように。
ユキオも、してやったり、という顔で、詠美を真似てクスクスと笑い出した。
いま、自分たちは幸せな親子に見えるだろう。
そう思うと、ユキオはもっと嬉しくなった
「ユキオー、どこー?」
小石を打ち付けるような音を立て、大粒の雪が窓を叩く。
それは、十年に一度と言われた、猛吹雪の夜の出来事だった。その日はユキオの三歳の誕生日でもあった。
夕食は母の手作りビーフシチューとグラタン。ユキオのために、久しぶりに仕事を早く終えた父と、三人で食卓を囲んだ。家族三人では食べきれないほどのホールケーキを食べ、いつになくはしゃいでいたユキオは、かくれんぼを繰り返していた。
一軒家の中では隠れる場所も限られている。まともにやればすぐに見つけてしまうが、ユキオの両親はわざとユキオが隠れているところを避け、ユキオをドキドキさせた。
父が「どこだー」とユキオが隠れる押入れの隣のクローゼットを開ける。ユキオは笑いをこらえ、暗闇でじっとしていた。「ユキオー」と遠くで母が呼ぶのが聞こえる。ユキオは「ここだよー」と小声で答えた。すると、さっと目の前が明るくなり、父に抱きかかえられる。
「見つけたー」
「あー見つかったー。もう一回、もう一回」
ユキオは父の腕の中で笑った。
「もう五回もやったんだぞ、母さんも父さんも疲れちゃったよ」
「だってお父さんが家にいるから、楽しいんだもん」
すると父は一瞬黙ったあと、ユキオをくすぐり始めた。
「次で最後だぞ」そう言ってユキオを降ろす。「じゃあ父さんと母さんは、台所で数を数えているから、まだどっかに隠れておいで」
ユキオは父が台所歩いていく背中を見ていた。
「尚子、俺、残業減らそうかな」という父の声が聞こえる。それに母が応えていた。ユキオには何の話か分からない。次に隠れる場所を考える。足音を立てないよう動き、ふすまを開け、階段をそっと登る。
寝室の大きなベッドの下に隠れる。しかし、ここでは難しすぎて見つけられないのではないか、と思う。ここはウラをかいて、もう一度同じ場所に隠れよう。移動する時間は残されているだろうか。寝室を出て階段を降りると「十四、十五」という父の声が聞こえたので、慌てて押入れに隠れる。埃が舞い、咳き込んだ。
「十九…」と数えたところで父の声が途絶えた。
「おい、なんだよ」
父の叫び声。
「誰!?」と母が叫んでいた。父の雄叫びが聞こえる。母が泣き叫んでいる。ユキオには外で何が起きているのかわからない。口を開けなければ、息ができないほど心臓が拍動していた。
また咳が出そうになる。両手で口をふさいだ。
母は泣き続けていた。
「やめてください、助けてください」
嗚咽を漏らし泣く母の元に駆けつけたかった。
どうしたの。何が起きているの。お父さんは大丈夫なの。
玄関が開く音が聞こえた。誰かが異変に気づいてくれたのだ、とユキオは思った。
「助けて」
いつもユキオの名を優しく呼ぶ母から発せられたとは思えない、獣のような叫び声だった。
「せめて靴を脱げ、スリッパ使えよ。何にも触るな」
数人が上がり込んでくる音。母が異常な叫び声を出しているのに、慌てている様子もない。
まだ外に出てはいけない。そう思った。
「おやおや、やってくれちゃったね。後始末どうすんだよ」心底呆れているという声。「あとお前、次に声をあげたら殺す」
母が静かになる。
「これだけ叫んでいたら警察も来るだろう。目撃者は?」
間が開いた。
「目撃者は?」
一度目よりも強く言う。
「大丈夫だ」
しわがれた声が答えた。
「なんてことしてくれたんだ、クズ野郎」
男が怒鳴る。
キーンと耳鳴りがして、静寂がうるさい。身体全体が震えるように心臓が暴れている。
「ウチの者が失礼なことをしました。旦那さんは…、ああ、もう手遅れだ。本当に悪いことしました」
「赤土さん、ガキがいるはずだ。おもちゃがある」
別の男の声。
「お子さんはご無事ですか?」
「むす…息子は…」凍えるように震えた母の声。「今はいません。私の…実家に預けています」
「嘘だな、探せ。見られたかもしれない」
「本当で――」
「しっ」
母は叫びかけたが、押し黙る。
「なら、慌てる必要はありませんよね」
ユキオは今すぐ母の元へ駆け寄りたかった。母に抱きしめてほしかった。
家中のドアを開ける音。その音が、ユキオを追い詰めていく。
隠れなければと思ったが、これ以上隠れようがない。ベッドの下であれば見つからなかったかもしれない、と後悔した。
しかし、不思議なことに、ユキオか隠れている和室には誰も足を踏み入れなかった。
「奥さん、お名前は?」
「…尚子です」
「尚子さん、本当にお子さんはいないのですか」
「……はい」
「やれ」
ユキオには、サクッという音と、液体が溢れる音が聞こえた。
和室の襖がすっと開いた。
誰かが来る。
ユキオは押入れの奥へ身を寄せる。
隙間から見える部屋の様子から目が離せなかった。
隙間から漏れる光の線が途切れた。静かに襖が開けられた。髪の長い女性だった。逆光でユキオにはシルエットしか見えない。
顔が影で見えないが、目が合っている。
「詠美、ガキはいい。帰るぞ、撤収だ。なるべく足跡を消せ。おい、何か触ったか」
「いや…」
しわがれた声が聞こえる。
襖が開いているせいで、さっきよりも声がよく聞こえる。
「なるべく証拠を残すな、時間がない、なるべくでいい。家から出るときは目立つなよ、10分以内」
襖がゆっくりと閉まる。
ユキオには何が起きたのかわからなかった。
しかし脅威はユキオの存在を認めず、去っていこうとしている。自分は助かったのだ。
何人かの大人たちが、何かの作業をしているのを聞きながら、押入れの中で体育座りのままじっとしていた。
膝に歯を立てて、その痛みを感じた。よだれが垂れて太ももに伝う。いつしかすっかり静かになっていたが、ユキオは動くことができない。
早く父と母に見つけてほしかった。
ユキオはそのまま眠り込んでいた。目が覚めると真っ暗で、カビ臭かった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。自分はここから外に出てもいいのだろうか。父と母が来るまで待っていようか。
涙が出てきた。必死に口を閉じ、泣いた。
すると右から左へ、幕があくように明るくなる。
見覚えのあるシルエットが立っていた。
「くる?」
大人が大人に話しかけているような言い方だ、とユキオは思う。
「お父さんとお母さんは?」
「死んだよ」
「嘘だ」
「見る?おすすめはしないけど」
ユキオは何と答えていいのかわからなかった。
「一緒に来るの?来ないの?」
ユキオは声を上げ、泣き出した。目の前のシルエットは、ユキオを慰めることも見捨てることもせず、じっとしていた。そしてユキオが泣き止んだ頃、「行くよ」と言って離れていった。
「うん」
ユキオは押入れから出る。家の中が生臭い。女の人の背中だけを見て、家を出た。女の人はユキオの手を引くことはなかったが、歩くペースを合わせ前を歩いていた。
男の娘、娼婦に生の術を乞う。 プ口の作家。 @minaoto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。男の娘、娼婦に生の術を乞う。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます