第58話 約束

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 ニーダルが全身全霊を込めた右拳は、ルートガー・ギーゼギングの顎を真っ向から撃ち抜いた。


「熱止拳!」


 ニーダルの拳が輝き、あたかも罪人に入れ墨を施すように、ルートガーの肉体を魔術文字が覆ってゆく。

 一〇〇〇年前、神剣の勇者と呼ばれた男が遺した必滅の奥義だ。一文字一文字が、炎獄ムスペルの熱量となって標的を焼き尽くす。

 ルートガーも、断頭台に上がったことを自覚したのだろう。

 

「に、ニーダル・ゲレーゲンハイト、考えなおせっ。第一位級契約神器ギャラルホルンは、盟約者の望む地獄ゆめ顕現けんげんさせる。私が先ほど角笛を吹き鳴らしたのを見ただろう?」


 ニーダルはルートガーの訴えを聞いて、胸が痛むのを感じた。

 世界を変える七つの鍵のひとつ、終焉を告げる角笛ギャラルホルン。

 本来のあり方は、淀んだ溜水池を破壊して大河の流れに戻すような、そんな役割であったに違いない。


「一〇余年前の、聖王国の惨状は知っているだろう? このままでは地下遺跡の要石が壊れ、封じられていた怪物が地上に侵攻することになる」


 ニーダルはルートガーの恥知らずな弁明に、理性が焼かれて血が燃え上がった。


(忘れた日などあるものか。あの日、タカシロ・ユウキは死に、ニーダル・ゲレーゲンハイトが生まれたのだから)


 先代の盟約者であるケヴィン・エンフォードが、聖王国中のダンジョンの封印を解いたことにより、彼の家族や仲間、平穏に暮らしていた人々、数えきれない犠牲が出た。


「私を生かせ。たとえギャラルホルンを失っても、ギーゼギングの家長たる私ならば、私兵を動かせる。このままでは多くの罪なき民草が犠牲になってしまう」


 ニーダルは、自ら爆弾を仕掛けてスイッチを押しながら、命乞いの交渉を持ちかけるルートガーを心底嫌悪した。

 自らの手で消滅させたギャラルホルンに、憐みさえ感じるほどだ。


(ギャラルホルンよ。もしもお前を使いこなせる者がいたとしたら、自称悪徳貴族クロードのように自制心を持った改革者だったんだろう。だけど、実際にお前と巡り合ったのは、こいつやケヴィンのように、欲望にまみれたクサレ外道だった。縁が悪かったな……)


 ニーダルは、ルートガーに向き直った。

 仇敵の青ざめた頬に、わずかな笑みと血の色が戻った。


「ニーダル・ゲレーゲンハイトよ、お前が望むものなら、何だってくれてやる。今すぐこの術を解くんだ!」

「地獄へ落ちろ」


 ニーダルは吐き捨てると同時に、拳を握りしめた。

 ルートガーに刻まれた魔術文字が、太陽の如き光を発して灼熱の業火となった。


「うわアアアアアアーっ」


 邪悪の限りを尽くした咎人は、炎の柱にくべられて、断末魔の絶叫をあげながらチリとなった。


「……」


 ニーダルは、タカシロ・ユウキがこの世界で巡り合った、母であり姉でもあった家族の名を呟こうとして、止めた。

 ニーダル・ゲレーゲンハイトは、タカシロ・ユウキではない。

 けれど、戦勝報告くらいは許されるだろうか?


「技術試験隊の皆、街の皆、……ヨゼフィーヌ。仇は討ったぞ」


 ニーダルは万感の想いをこめて小さな勝どきをあげ、歩き出そうとして盛大に転んだ。

 なぜだろう。石だらけの荒野に顔面からぶつかったのに、痛みが感じられなかった。

 ニーダルはうつ伏せのまま、赤い夕暮れの空を見上げようとして、真っ暗なことに気がついた。

 風の音も聞こえず、肌の感覚すらない。

 

(ああ)


 目が見えない。

 耳が聞こえない。

 手足が動かない。


(もう、いい、か)


 タカシロ・ユウキの残り滓にしては、充分な働きだったろう。

 仇たる神器は破壊し、背後で糸を引いていた黒幕も討ち果たした。


(イスカも姉弟の元へ返した。ルートガー、俺にはもう望むものなんて無いんだよ)


 全力で呪いの翼を振り回した代償は重く、肉腫が守ってくれたといえ、融合体の爆発で負った傷も浅くなかった。

 呼吸が止まる。心臓の鼓動も消える。

 ニーダルがまさに黄泉路をくだろうとしたその瞬間。

 彼の脳裏に、ありし日の光景が浮かび上がった。


『ロゼット。お前、いい女になったら俺を殺しに来い』

『はい。必ずもう一度、貴方に会いに来ますわ』


 約束を破るのはいけないよ。

 そう娘に教え諭したのは、いったいどこのどいつだったか?

 ここで死んだら、イスカとロゼットを裏切ることになる。それは、許せなかった。


「けはっ、ごはっ、くはっ」


 ニーダルは、咳き込みながら意識を取り戻した。

 彼の背に取り憑いた呪いが、立てとか契約違反だとか、頭の中で怒鳴り散らしている。

 最悪の目覚めだった。


「わかっているさ。デートの約束があるんだ。こんなところで終わりはしない」

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