天使の君と、ひとりの僕。~恩返し同居生活、始めました~
白石 幸知
第1章
第1話 薄明光線
札幌の初雪は例年十月末くらいには訪れる。どんなに遅くても十一月の頭になれば空からの手紙が平野部でもあちらこちらと降りしきる。
今年も御多分に漏れず傾向通り十月中にヒラヒラと舞い落ちる雪が報せを届けた。
東京から札幌に引っ越して二年目の冬、去年の冬は早すぎるそれに驚いて、何度も何度も凍った冬道に足を取られていたけど、二度目となればある程度慣れるもので。
ただ、冬道には慣れてもどうしたって寒さには勝てないもので。
「……っくしゅ……ずず……うう……」
「はい、服一回脱いでくださいねー。体拭きましょうね」
どうしてひとり暮らしをしている僕が、銀髪の美少女に看病されているのだろうか。僕の知り合いにこんな可愛い子はいない。クラスにも、学校にも。勿論近所にも。
「よしよし、えらいですねー、はい、ばんざいしてくださいー。ゴシゴシしますからねー」
一体何があってこんなことになっているのか。
僕の日頃の行いのせいなのか、それとも単に運の問題なのか。
はたまた、運の問題も突き抜けて、運命ってやつなのか。
これを考えている現在において、僕はまだ答えを理解していない。
ただ、過去を遡ることは可能だ。というか、もう意識が朦朧としてきて……。
*
事の発端は、僕が学校の帰り道で雪の山に突っ込んだことだろうか。
その日は札幌の街に雪が降って、積雪が膝の高さまで一気に上がった日だった。東京でこれだけの雪が降ったら電車が止まるだけの騒ぎじゃ済まないだろうけど、北海道じゃこれでもまだ「大雪」の範疇のようで、人々は平気な顔をして街を歩いている。
放課後、ひとりで帰り道を歩いていると、すぐ脇にある学校のグラウンドに植えてある木の上から猫の鳴き声が聞こえてきた。
「ニャーオ」
……木の上から猫?
僕は反射的に視線を上げ、声の主を探す。そいつはすぐの僕の視界のなかに収まった。
猫だ。間違いない。木の枝に猫が座って降りられなくなっている。
「ニャッ」
しかも枝にも少しばかりの雪が積っていて、地面には誰も立ち入っていないからそのまま積もったふんわりと柔らかい雪が残っている。立ち往生している猫は自分の上にも下にも気を使わないといけない状況になっている。
「……しょうがないなあ……」
猫の悲鳴を聞いていたたまれなくなった僕は踵を返して学校へと引き返す。数分して、件の猫がいる木の下にたどり着いた。
「うっ……やっぱり誰も歩いていないから足元が柔らかくてしんどいな……」
雪が積もった道の歩きにくさをわかりやすく例えるなら、砂浜だろうか。しかもかなり深いやつ。微妙に感触は違うかもしれないけど、歩きにくさを伝えるにはちょうどいいと思う。大雪が降った次の日の朝は、「人が歩く道を作る」という概念が存在することからも想像できると思う。足が雪にいちいちはまって歩きにくいんだ。だから「雪かき」という作業もあるのだけど。
「ほら、ここに降りてこーい。腕のなかなら安全だぞー」
僕は猫を見上げ、両手を目一杯広げそう呼び掛ける。
しかし、猫は降りてこない。
「おーい、猫―。ずーっと木の上いるつもりかー?」
「ニャーオ」
……何言っているんだか。僕も猫も。今は誰も近くを通っていないからいいけど、クラスの誰かにこんなシーン見られたらただでさえ浮いているのにもっと浮いてしまう。あと、そろそろ野球部がグラウンドに出てきて練習を始めるだろう。
はやいところ決着つけないと。
仕方ない。……登るか。
僕は意を決して背負っていたバッグを雪の上に置き、人間の体と同じくらいの太さの木を登り始める。幸い、小学生のときに外で色々遊びまわっていたから、苦労はしない。
「……にゃー(ほらー、腕につかまれー)」
さすがに猫が乗っている枝は細くて僕が掴むと折れそうだ。幹から手を伸ばすしかない。
「ニャニャッ」
「っておい──」
すると、猫はいきなり伸びてきた僕の腕にびっくりしたのか、枝の上からバランスを崩して落下した。僕は落ちたそいつをキャッチしようと体を伸ばして──
ズドンッ!
雪山に体ごと突っ込んだ。
「いって……雪積もっていて助かった……」
これが地面むき出しだったらただじゃすまなかっただろう。背中と首のあたりに雪の冷たい感触を味わいながら、僕は空中で捕まえた猫を手から離す。
「もう降りられない木には登るんじゃないぞ」
「ニャーオ」
……猫はやはりマイペースだ。僕のことなんか気にもしないというふうにそっぽを向いてそいつはスタスタとどこかに歩いて行った。別にいいんだけどさ。
「……っていうか靴のなかに雪入って冷たいし……背中にも入ったなこれ……」
薄いクリーム色のダッフルコートもさすがにこんな用途に使われるとは想定しないはずで、思い切りぶつかった雪を目一杯被っている。そりゃあ冷たくもなる。
「うう……とにかく早く帰ってお風呂入ろう……このままだと風邪を引いちゃう」
で、ものの見事にフラグを回収したわけだ。
その翌朝。起きた瞬間覚えたのは激しい倦怠感。ベッドから立ち上がろうとすると足元がふらついてまともに歩けない。熱を測れば三十八度二分。咳も少し出る。
文句なしの風邪だ。
すぐに枕元にあるスマホで学校に電話を掛け、担任に休むことを伝える。家には僕しか住んでいないから、この電話も僕がしないといけない。
「じゃ、お大事にな、北郷」
その一言を最後に、僕は再び意識を深い闇の底に落とした。眠ればよくなる、きっとそうに違いないという淡い期待を抱いて。
それから四日が経過した。火曜日朝から発症して、迎えた金曜日早朝。
「……ごほっ、ごほっ……まだよくならない……」
ここまで長引くと病院に行ったほうがいいのだろうけど、あいにくそんな体力もなければ気力もない。ここ数日、ベッドから出られたのはトイレと水を取りに行った数回だけだ。病院に行けないにしろ、何か食べるなりしないとまずいのだろうけど、それすらままならない。
「はぁ……はぁ……」
息も荒いし、起きているとそれだけでしんどいのでまた眠る、たまにトイレに立って水を飲む。それの繰り返し。
そんな最中。僕の部屋と庭を繋ぐ窓が、カタコトと揺れる。
「……ん?」
微かに残る意識を振り絞り、視線をそっちに向けると、週に二・三回僕の家の庭にやって来てエサを食べている白い毛の野良猫がちょこんと座っていた。僕は
真白は窓を手でカタカタと叩いている。
「……エサ……欲しいのかな……?」
このままあげれずにカタコトされるのも辛いものがあるので、僕はなんとかベッドから這いつくばって窓の側に行く。棚に置いている猫のカリカリを掴んで窓を開けると。
「ニャー」
「……え? え?」
真白は僕がエサを開ける前に家のなかへと入ってきてしまった。
「あ……ちょっ……」
真白は野良猫であって飼い猫じゃない。さすがに家のなかに入れるのはまずいから、またのろのろと真白を追いかけようとしたんだけど──
「……っ、眩しい?」
途端、窓からオレンジ色の光が差し込んできた。景色を眺めると、雲の切れ目から光の柱が放射状に雪の積もる庭へと降り注いでいる。キャッチボールもできないくらいの広さで、桜の木が一本植えてあるだけの何の変哲のない庭が、光のカーテンにくるまれ揺れて、幻想的に映る。
こ、これって……
なんてことを思っていると、僕の後ろで何やら「人の気配」がする。おかしい、何度でも言うけど家には僕しかいないはずなのに。
「え? だ、だれ……ぶっ──」
僕の背中にいたはずの「猫の真白」は、気づかないうちに銀髪で、目がくりっとした可愛い人間の女の子に変わっていて……そして、何も服を着ていない、生まれたままの姿をしていた。
北郷優太、十六年間生きてきて女性の裸なんて見たことなかったうえに、現在進行形で風邪を引いている。そんな僕にこんな……R指定がかかるような刺激物を見せられて、無事でいられるはずがない。
視界がどんどん遠くにぼやけるなか、後頭部にコツンとフローリングの感触を味わってから、再び僕は意識を飛ばした。最後に抱いた感想は──
──女性ってほんとについてないんだ。
*
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