蛇と蛙の幸福論
詩章
第1話
ひと月前、僕は大切な人と死別した。
初恋だった。
1つ年の離れた彼女は、とても優しい人だった。
ただし彼女は、不治の病を患っていた。
僕が詳細を知ったのは通夜の日のことだ。彼女の母親から彼女が脳腫瘍を患っていたことを教えてもらったのだ。
摘出の出来ない位置に腫瘍があるため、薬で進行を遅らせながら最期の時を待つしか無かったそうだ。
ひと月という短い期間ではあったが、僕がこれまで関わってきた人々の中で、最も深く最も密な関係を築くことができたのは、彼女が強く優しい人だったからだろう。
そんな彼女のことが、僕は今でも[大好き]だ。
彼女の為にも僕は幸せにならなければならない。
天国の[彼女]がそう願うのなら、僕はその願いを叶えたい。
この物語は、後日談であり、美談ではない。言ってみれば蛇足である。その事を理解した上で、見守ってほしい。僕の苦悩の日々を。
桜井真琴はいつも教室の隅で1人で本を読んでいるような女の子だった。
直接話したことはおそらくない。そんな彼女と接点を持ってしまったことは僕にとって幸か不幸か……
期末テストまであと数日という学生にとっては勉強を強いられる地獄の期間。学校の図書室はテスト勉強に勤しむ生徒で溢れていた。
仕方なく僕は市立図書館へと向かった。
図書館に到着すると、駐輪場にはほとんど自転車がないことから自分の選択が正解だったことを確信した。
館内はやはりガラガラで席は選び放題だった。
僕は無意識に奥へと向かって歩き始めた。すると、最奥の机に1人で座っていた女子が手招きをしていた。
この時、天国の[彼女]はきっとそっちじゃない! 行っちゃダメ! と必死に僕を止めていたんじゃないだろうか?
招かれるままに近づくと、彼女が話しかけてきた。
「あんた、安堂だっけ?」
名前は覚えられていたようだ。
「え、あ、うん。そうですが……」
なんか恐いな桜井さん。
「なんで敬語なの? あんた勉強得意?」
恐いからって言ったら怒るだろうな。
鋭い目付きにたじろぎながら僕は慎重に言葉を紡いだ。
「いや、あんまり話したことないからさ。たぶん桜井さんよりは得意だと思うよ」
彼女の眉がピクリと動いた。
立ち上がり近寄ってくる……うわ、恐い。
「あんた、あたしのことバカにしてんの?」
食いぎみに答えた。
「してないです!」
なんなんだこの人……もう帰って家で勉強しようかな……
「んじゃ、隣に座って。あたし今数学やってるから数学の問題集だして。74ページね」
「え……」
思わず声が漏れてしまった。
「何?」
投げ掛けられた質問。もはや投げつけられたとでも形容した方がいいのではないだろうか?
「なんでもないです」
帰りたい……
そこからは普通に2人で数学の勉強をした。
意外にも他人に教えながらという勉強のスタイルは僕に合っているようだ。いつもより捗ったような気がする。
急に彼女が席を立った。
「どこ行くの?」
問いかけるとキッと睨まれた。
「トイレ。悪い?」
やっちゃった。絶対怒ってるよ桜井さん。
「すみません」
彼女はスタスタと歩いていった。
!?
暫く1人で勉強していると急に首筋に冷たい物が当たり体がビクついた。
振り返ると彼女が冷えた缶コーヒーを僕の首に当ててニヤリと笑っていた。
もうなんなんだこの人……
「ちょっと休憩しない? 中は飲食禁止だから外出ようよ」
「ありがとう」
僕は缶コーヒーを受け取り感謝を告げた。
1人分の間隔を空けソファーに2人で座った。今の気分はブラックなんだけどなーと思いつつ微糖のコーヒーに口をつけた。そこで隣からの熱い視線に気付く。
「よーし飲んだな? 飲んだよな?」
急に距離を詰められる。ちょうどあの日と同じような位置と距離に[彼女]の姿が重なりドキッとした。
「これからテストまで毎日あんたに勉強教えてもらうからな! よろしく頼むよアンドゥー」
肩をペシっと叩かれた。それがあたかも合意のサインかのようにだ。
僕の意思などそこに介在してないかのように話が進んでいく。あれ、僕当事者だよね?
「いや、流石にそれは……」
「飲んだよね? あたしが買ったコーヒー。ねぇ?」
ネコの皮を被った化け物が僕の目の前にいた。
「よ、よろしくお願いします」
蛇と蛙のような構図が綺麗に出来上がってしまった。
「よろしくな♪ アンドゥー」
そのアンドゥーってダサいあだ名、気に入ったのかな?
「そのアンドゥーってのやめてくんない?」
「いいじゃん。どーせ学校じゃ話さないんだしさー。あ、あたしのことばらしたらわかってるよね?」
世界一凶悪な笑顔がそこに咲いていた。戦慄しそうだ。
「恐い……」
本音が漏れてしまう。
「なんか言った?」
またひとつ1輪の花が咲く。
夢に出てきそうだ……
この日僕は、恐怖の中にも確かな居心地の良さを感じていた。
他のクラスメイトではこうはならなかったかもしれない。
だから僕は……
これは、[彼女]とは全く違うタイプの彼女を僕が好きになっていくまでの他愛もない話である。
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