月と朝焼け
文月 螢
1.
一年生の物理基礎授業を担当している古川先生は、基本的に緩くて楽な授業だけれど、少し気分屋だということが生徒の間では共通認識になっている。
木曜の昼休み明けの五限、さほど好きではない物理の授業を聞くには、天気が良すぎたと思う。
一週間前、席替えのクジで引いた窓際の最後尾は、晴天の日の午後になると太陽に目を付けられる。加えて、一月も下旬に差し掛かった教室では、暖房の調整権利はクラスで一番偉い女子のグループが握っていた。スカートを三回も折り曲げて、寒い寒いと騒ぐ彼女たちと、私はほとんど喋ったこともない。設定温度の交渉なんて、出来るわけがなかった。
とにかく私は、そんな木曜午後の陽だまりの中で、いつの間にか眠ってしまっていた。
目を覚ましたのは、机をトントンと叩かれる小さな音を聞いた時で、顔を上げると私の机の横には古川先生が立っていた。机上には知らないあいだに置かれた計算プリント。
視線だけで教室を見回すと、どうやらこの計算プリントを解く時間で、古川先生は席を巡回している最中に居眠りをした私のところで足を止めたらしい。
古川先生は、この高校の教師の中では一番年配だと思う。皺が刻まれた顔は、いつも微笑んでいるように見える。口調は穏やかで、声を荒げて生徒を叱ったりはしない。たとえば授業中に寝ている生徒がいても、基本的には何も言わない。
だけど本当に時々、例外がある。
「明日の授業後、化学教室で補習をやるから来てくださいね」
古川先生の臨時補習が開かれる条件は、誰にも分からない。相変わらず微笑んでいるような表情の先生はこちらを真っ直ぐに見ていて、私は慌てて頷いた。
それから古川先生は、私の隣の席に座る男子にも同じように声をかけた。彼の名前を思い出している間に目が合って、反射的に逸らす。
それが昨日の話だ。
「ねぇってば」
昼休み、クラスメイトで私の唯一の友人、佳菜子の声で我に返る。
「あ、ごめん。何?」
「今日の帰り、買い物付き合ってくれない?」
「補習終わるの待っててくれるなら」
佳菜子は「補習?」と言ったあと、すぐに思い出したように笑った。
「あんた呼ばれたんだったね、古川おじいちゃんの気まぐれお勉強会」
「佳菜子は呼ばれたことある?」
「何回かあるよ。行ったのは最初の一回だけだけど」
「怒られない?」
「あの先生が怒ると思う?」
「まぁ、そうか」
食堂の端の席は、教室の自席と同じくらいに太陽が当たる。お弁当を食べ終わった佳菜子が眠そうに欠伸をした。
「眠たい……。あんたの席、羨ましいよね。こんな気持ちいい陽射し浴びて寝られるなんて。あたし最前引いたせいで数学とかめっちゃ当てられるし最悪」
好きで居眠りをしたわけじゃない、と言い返しそうになるのを飲み込んで、笑って誤魔化す。佳菜子は一瞬だけ眉を寄せて、けれど次の瞬間には机に両手を伸ばして駄々をこねるようにもう一度私を買い物に誘う。
「補習、行かなきゃ」
「真面目だね」
そう言われる時は、大抵ほめられていない。
「どうせ誰も行かないよ。他に誰か呼ばれてた?」
「瀬川君は呼ばれてたみたいだけど。他は知らない」
佳菜子は少し考えたあとで、「あー」と言った。
「なんかあの、影薄い奴ね。っていうか、瀬川君、って。仲良いの?」
私は首を横に振る。
「ほとんど喋ったこともない」
「真面目同士、気が合うんじゃない」
「瀬川くんって真面目なの?」
「や。知らないよそんなこと」
買い物はまた今度ね、と言った私に、佳菜子は「他の子誘うからいいや」と言った。
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