5:来た
モニタに写ったのは見たことのない女で、郵便局や運送会社の制服でもないし、通販も何も到着待ちのものはない。このまま居留守を使おう、と答えずモニタを切ろうとした時、後ろから愕然としたような呟き声が聞こえた。
「
「おい」
即で振り返って私は
「あれがご主人様? 何でここにいるって分かるんだよ。あ、あんた連絡、」
「してませんよ、そんなこと。スマホも持ってないし、俺は逃げてきたんですから」
「不自然だろうよ。何? こういうタイプの詐欺? 組んでやるやつ?」
「違いますって! 俺の
「だからって家特定できるのはおかしいだろ、あともう朝だわ」
「
「から?」
「
俺は惟佐子さんを魔物にしたくないんです。あの人は俺に執着して邪悪に傾き過ぎてる。魔物になった瞬間、理性を失ってきっと酷いことになる」
ぴんぽん。
ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
「ううう、うるせえ!」
「
がごん!
玄関から大きな音がして、振り返るとモニタの中で女が何かを大きく振りかぶっている。
ごがごん!
野球用のバットだ。
どがごがん!
繰り返し。
繰り返し繰り返し。
「あっっっほかあの女! うちのドア!」
「いま魔物寄りになってるから馬鹿力なんです」
「解説いらんわ、止めてこい!」
「いや、会って声聞くと惟佐子さんの言うこと聞いちゃうから俺は」
「役に立たねえな!!!」
手首のゴムで髪を結わえた。椅子の背にかけていたパーカーを取って羽織った。リビングを出て、飾り棚に立て掛けてある金属バットを取って、玄関でサンダルではなくスニーカーに足を突っ込み、扉についたチェーンを外して解錠、その間にドアの
バットの先に鈍い手応えがあって、ギャッ、に近いような悲鳴も聞こえた。
広い玄関ポーチにみっともなくひっくり返っている女を見下ろし、私は我ながら機嫌の悪い声を出す。
「何だてめぇ、あぁ? ボコボコにしてくれやがって、私んちのドアに親でも殺されたのか?」
現役を離れて十年以上経つとはいえ剣道有段者の突きを金属バットで見舞われた女は、地べたから起き上がることができずに歯を剥き出して
女は長い髪を振り乱して何とか身体を起こそうとしていた。
「返せ……、
「っせぇな、ドアの買い換え取り付け代金払えクソボケ野郎。こっちはてめぇの住所も名前も分かってんだよ、職場まで追い込むぞコラァ!」
後から考えるとさすがに柄が悪すぎたのだが、うちは無駄に敷地が広くて外に聞こえる気遣いもあまりなく、昨日までの仕事のストレスも手伝って完全に地金が出てしまった。
這いつくばった女は必死に自分のバット(木製だった)を掴もうとしている。見下ろす私も自分の金属バットを手にしている。クソボケ女と育ちの悪い女のバット対決だが、ファーストヒットが入った時点で勝負はもう決まったようなものだ。私は今すぐ惟佐子というこの女を殺せる。一発振り下ろすだけで。
「瑠璃さん。……瑠璃さん、これ以上はもう」
後ろから糸遠の抑えた声が追ってきて、私はぞんざいに「うるせえ」と言った。
「この女は、私んちのドアを壊した。分かるか、もうお前関係ねえんだわ、私とこの女の問題だから」
言いながら振り返ると糸遠は両手で自分の耳を塞いでいた。じゃ私の返事も聞こえねえじゃねえか、バカなのか。
……惟佐子という女の声を聞いたら従ってしまうから?
さっきそんなこと言っていたけど。
そんなことが本当にあるのか?
吸血鬼と人間の主の契約なんてものがあるのか?
本当にこの女が命じれば糸遠は従う?
いや、起こるはずがない。
非現実的じゃないか。
起こらないはずだ。
有り得ないだろ。
有り得ないって。
だって吸血鬼とか、
「
ひび割れた廃墟のような女の声がした。
「
……がたん、と背後で音がする。
見ると、糸遠は蒼白になって、耳から手を離しかけている。
「あなたは
裸足のまま、玄関の上がり
ほんとバカだな。足の裏、傷だらけだろうが。まだ
「しおん、」
「やかましい!」
ガォン、とばかでかい音を立てて、
女はヒャッとか何とか悲鳴を上げて、私を見ると少し後ずさりたいような動きをした。私が余程ひどい、鬼のような形相をしているのだろう。そして女はさっきの突き一撃で本当に立ち上がれないのだろう。めんどくさいことになったな、こいつのために救急車呼んでやるのは嫌だな。
でもまあ、そんなことは後だ。私は再び糸遠を振り返る。
「お前、ほんとにこの女のものなのか?」
「……そうです。血をもらったから」
「それはお前が何飲んだかの話だろ、お前はほんとにこの女の所有物なのか?」
「瑠璃さんには分かんないんですよ。これは俺みたいなタイプの吸血鬼では仕方ないことなんです」
「でも嫌で逃げ出したんでしょうが。お前はこいつに支配されたくないわけだろ? あのさあ人には人権てやつがあって、警察とか司法とか病院とかが理由あってする時以外は拘束受ける
「俺人権無いと思います、人間じゃないんで……戸籍もないし」
「何て!?」
「誰の言うこと聞くかくらい自分で決めろ、幼稚園児か」
「……それは、鳥に、『お前も飛べばいい』と言われるようなものです」
「
我ながらドスのきいた声が出た。どうやら私はめちゃくちゃ機嫌が悪い。前にこのくらい機嫌が悪くなったときは結局警察沙汰になったんだっけ。嫌だな。
でも、停まり方も無い。
「実際逃げたいと思ったのはお前。逃げ出してきたのもお前。新しい主だかにするために私の血をくれと言ったのもお前だ。現実的に、自由にやってんじゃねえか。なのにクソ女が出てきたぐらいで急に奴隷
それは思い込みだ。
自覚しろ。
お前がこの女や私を利用している。お前の意志で。
プレイヤーはお前だ」
糸遠は、あの何の変哲もないよくある焦げ茶色の瞳で私を見ている。今起きたようなぼんやりとした顔で。
本当に顔のいい男だな、と思う。
耳を塞ごうとしていた両手はもうすっかり下ろされていて、そういえばその耳がちょっとだけ
そして何か言おうとしている。開いた唇の内に並んだ歯が見え始める。
八重歯なんだなあ。八重歯――いや、歯列が前後してる感じではないから、
「俺は」
やっぱり危険な声だ。人を駄目にする声だ。
「俺の意志で動いていいのか」
「いいのかじゃねんだよ、もう動いてんじゃん。逃げてここまで来て、私をスカウトまでしてんだろ」
「……スカウト」
「なんか
「……、ああ、」
物分かりが妙にゆっくりな子供みたいに、糸遠はどこか中空を見つめたまま
それから改めて、私を見た。
もうすべて整った、という表情で。
後悔した。
やっぱりこいつを拾ってはいけなかった。
見ることすら、しない方がよかったのだ。
だってこんなにも視線が、視線だけで、私は絡め取られる。
引き寄せられる。
身体よりも先に、心が、意志が。
「瑠璃さん」
名を呼ばれるだけで世界が私と一緒に
手に力が入らない、そう気付いた時にはもう、金属バットが玄関ポーチに落下した音が聞こえた。
そうして私は、自分がすでにポイント・オブ・ノーリターンを遥か遠く踏み越えてしまったことを知る。
魔物に出会ってしまった。
魔物に見出だされてしまった。
魔物が今、私を呼んで、そしてすべてが変わる。
「
俺はあなたの血が飲みたい」
ああ、
この生きものは、
きれいだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます