第240話 閑話.アリシアと聖女
『俺もだよ。アリシア』
大聖堂でヨシュアと再会した後、彼の勧めで聖女は週一度、就寝前のひとときだけどこにでもいる人間に戻る。
このひとときが彼女の精神に安定をもたらした。僅かな時だというのに彼女自身が驚くほどに。
ベッドの前で本日最後の祈りを捧げた彼女の「微笑を貼り付けた無表情」が緩む。
そこでふと彼女の脳裏に浮かんだのが、彼の一言だったのだ。
氷のような凛とした彼女の目から力が抜け、頬が僅かに朱に染まる。
「違います。ヨシュア様の言葉を歪めてはいけない。アリシア」
自分を律すように自分の名を呼ぶ彼女は細く繊細な指でガラス細工のような髪に触れる。
彼女の指が僅かに震え、反対側の手がひし形をなぞろうとし、途中で動きを止めた。
「自分が自分に戻るひとときでお祈りをしていては」と彼女は小さく首を振る。
生まれてからこれまで、一人の女子として扱われたことの無い彼女は致命的に耐性がなかった。誰もが羨む美貌と魔力を持ちながら、聖女として敬われることはあっても、彼女に甘い言葉を囁くどころか普通に接する男なんているはずがない。
彼女は聖女なのだから。
神から遣わされたに相応しい美貌と称えられはしても、可愛い少女と噂話になることなどあろうはずもない。
ただ一人を除いて。
アリシアは彼との別れ際の会話を思い出し、指先をピクリと動かした。
『アリシアもいずれ聖女の役目が終わるわけだろ? 何かやってみたいこととかある? 世間的な目もあるけど、協力するよ』
ヨシュアの言葉に対し彼女は――
『ただ静かに暮らすことを望んでいます。ゆっくりと私のやりたいことを探していければと思っています』
と儚げにはにかむ。
彼女の望みを聞いたヨシュアは興奮した様子で目を輝かせる。
『俺もだよ。アリシア。いやあ、やっぱそうだよな! 大役が終わったらゆっくり寝てから、ぬふふ……』
最初の衝撃的な彼の言葉にその後の彼の声はアリシアの耳に届いていない。
「俺もだよ、アリシア」
自分の意思を出してこなかった彼女からすると、「何がしたいか」「何を望むのか」と言う問いに答えるだけでも相当な勇気がいった。
どんな情けなくも後ろ向きな意見だろうが穏やかに聞いてくれるだろうヨシュアだからこそ、彼女も自らの思いを告げたのだ。
それだけでなく、「役目を終わったら聖職者として生きることをやめ、隠棲したい」という自分の意見に彼は脳を蕩けさせるような笑顔で同意してくれた。
「ヨシュア様の笑顔は……卑怯です……」
あの笑顔でお願いされたとしよう。きっと自分は協力しようと考える。わたくしでは聞き入れることはできないが……。
もし自分が神託に選ばれず、普通の少女として暮らしていたとしたら。
今頃、素敵な男性と恋に落ちていたりするのだろうか?
「詮無き事です。私はわたくしに成れたことに後悔などありません」
男性と考え、顔が浮かばぬほどに彼女にはプライベートな時間がない。
常に聖女として接し、聖女として生きてきた。
そこに私心はなく、特定の誰かというものもない。老若男女全てが慈しみ、安寧を祈る対象である。
人の顔を思い浮かべたとて、幼き頃に接した両親と妹の顔くらいしか浮かばない。
それ以外となれば……。
「……」
アリシアはふるふると首を振り、ぼふんと枕に顔を埋める。
恐らくこれは恋ではない。
依存……でもないと思う。自分をアリシアとして見てくれる唯一の人だから、どのように想っているのかと問われても上手く答えることができない。
それが彼女の素直な気持ちだった。
◇◇◇
一方その日の夜遅くのヨシュア――。
終わった。やっと終わったよ。
時刻の確認をしたくない、このままポケットに入っている懐中時計(魔道具式)を投げ捨てたい衝動にかられる。
ぎゅっと懐中時計を痛いほど握りしめたところで、こいつには罪がないと思いとどまった。
衝動のまま壁にこいつを投げつけていたら、明日になると必ず後悔する。
「は、ははは……明日も問題が山積みだぜ」
ベッドにふらふらと倒れ込む。
ベッドなのだけど、魔石機車が開通してからコッソリと取り替えたのだ。
ごめんみんな。大公の権力を使っちゃった。最高級のベッドマットをお取り寄せして、布団もふわっふわの羽を詰め込んだ一番いいものである。
このベッドマットはスプリングやコイルといった日本にあるようなベッドマットとは構造が異なるのだ。
跳ねるのではなく沈み込む。体重に合わせてゆっくりと沈み固定されるので、これはこれでよいものなんだぜ。
しかし、しかしだ。
期待した柔らかな沈み込みではなく、違う生暖かい何かの上に俺の体が乗っかった。
「寝心地が悪いが、この際仕方ない」
「こらああ。こんな可憐な乙女が待っておったというのにそのまま寝ようとするとは何事だ」
「ほおれ、わしゃわしゃしてやるぞお」
「雑に扱いよって……」
生暖かい何かは狐耳のようである。
俺と彼女は十字になるような感じで折り重なっていた。手を伸ばすとちょうどフサフサの尻尾があったので思いっきり撫でてあげたのだよ。
憎まれ口を叩いている彼女であったが、狐耳をペタンとさせまんざらでもない様子。
「そうだ。セコイア。暇だろ?」
「めくるめく夜を過ごすのじゃな?」
「もう体が限界だ。寝かせてくれ」
「全く。なんじゃ? ボクに頼みたいこととは?」
暇か? で俺がお願いしたいことがあると察するとはさすがセコイアだな。
それだけ回る頭がありながら、お馬鹿さんな待ち構えをやったりとたまに彼女のことが分からなくなる。
「アリシアのことなんだけどさ」
「何じゃ? ボクというものがありながら、他の女のことか」
「セコイアに頼めなかったら、ペンギンさんか、あとはゲラ=ラくらいにしか頼めないんだよな」
「仕方ないのお。言うだけ言ってみよ」
何のかんので面倒見のいいセコイアだった。
「アリシアって聖女だろ」
「そうじゃの。神託を持っておるからそうなるな」
「聖女になるとさ。素で接することのできる相手がいなくなるんだよ」
「ほう。それで聖女の立場など蚊帳の外のボクにあの女ときゃっきゃしろと?」
「きゃっきゃはしなくてもいいんだけど。会話をする機会があった時は聖女じゃなく、アリシアって呼んでくれないかってお願いだ」
「仕方ないのお。会話することがあれば、そうするかの。じゃが」
「ご褒美が欲しいと」
「そうじゃそうじゃ。分かっておるじゃないか。ぬふふ」
ベッドに涎をつけないでいただきたい。エリーとアルルが毎日シーツを洗濯してくれてるってのに。
「俺はさ。セコイアやトーレ、ガラムみたいな、俺が公爵であっても友人のように接してくれることで随分と救われた。だから、さ」
「俗世は何かと面倒なものじゃ。キミは新たな友をここで得た。それだけでもキミにとっては辺境に来た価値があったのお」
「そうだな。こうしてセコイアたちも近くにいてくれるし。もう少し政務が減れば最高なんだけどさ」
「任せておけ。宗次郎にも言っておく」
するりと俺の体の下から抜け出したセコイアは得意気に八重歯を見せた。
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