転生できるけど死ぬのが死ぬほど嫌なのでクラスメイトとなんとかしてみる(仮)

雨野

起(ぷにばら担当)


 寝ているとき、ふいに落下感に襲われてビクッと起きるとがある。

 無意識に筋肉が収縮することで起きるこの現象にジャーキングという名前があるのを知った時には、知らないだけで何にでも名前がついているんだなと当たり障りがない感想をもったことを思い出した。

 浮遊した身体が落下する感覚。ただし


 甲高いブレーキ音を発したトラックが数瞬前まで僕が立っていた場所を通過し、そのままビルのエントランスに激突した。


 轟音、衝撃、コンマ遅れて悲鳴。

 それらを認識するころには身体は乱暴に着地していたが、痛みなどは麻痺したかのように漠然と目の前の光景を眺めていた。

 吹き飛んだガラス片が突っ込んだトラックの付近に散乱している。毛筆を勢いよく振るったような生々しいタイヤ痕が車道から流線を描いていた。

 示す事実は単純だ。トラックが急ハンドルを切って、歩道に乗り上げて事故を起こした。

 直撃する対象は一歩間違えれば僕だった。

 視線を下ろすと、スカートからすらりと伸びるほどよい肉付きの太ももがあった。

 繊細な陶磁器のような美しい、太もも……?

「怪我はない?」

 業務点検のような平静な調子で声をかけてきたのはもちろん太ももではない。

 黒い髪のショートカット。水晶のように透き通った瞳。

 触れば折れてしまいそうな華奢な体躯。

 僕の胸部に抱きついた美少女が、こちらを見上げていた。

 僕はその女子の名前を知っている。

「長淵、さん……」

 長淵胡和ながふちこより――同じ学園に通うクラスメイトだ。

 彼女が体当たりしてくれたおかげで、俺はトラックの軌道から外れて衝突を免れた。

 ブレーキをかけているとは思えないスピードで突進してくる光景が脳裏で焼き付いて離れない。

 直撃したら確実に命はなかっただろう。

 僕が緩慢に反応している間に無事を確認した長淵さんが頷いて、身体を起こす。

「助かった、あ、りがとう」

 乾ききって張り付いた喉でなんとかお礼を言う。

「どういたしまして。でもここで話してる余裕はないの」

 タックルをくらった僕は車道で寝転んでいた。まわりの車両はクラクションを鳴らしたり立ち往生したりと事故が起きたことに混乱をきたしているようなので直接邪魔になってはいないけど、いつまでも地べたで仰向けになっているわけにはいかない。

 起き上がらなければ、と思ったが身体が動かない。

「立てる?」

「ごめん、ちょっと無理そう」

 足が震えて力が入らず、自分の身体でないかのように立つことが難しい。

「肩を貸すから」

 長淵さんが脇からを抱え上げてくれて、通行人をけてなんとか歩道に戻る。

 地面に散らばったなにかの部品だった物の残骸より、隣でふんわりと香るいい匂いや制服越しに伝わる柔らかな感触のほうが気になっていたのはここだけの話だ。


 事故現場から少し離れたため、紳士的な僕は「重いでしょ、降ろしていいよ」と提案した。

 僕を支えながら歩く長淵さんは高層マンションが立ち並ぶ区間に向かっていた。

「いえ、まだなの。できるだけ人が多い場所まで離れないと」

 離れる? 事故現場から動かないほうがいいんじゃないのか?

 密着延長だ!と湧きたつ僕の中の紳士を追い払い、疑問を言葉にする。

「これから警察が来て事情聴取とかがあるんじゃないの? あと考えたくはないけど、トラックに轢かれた人がいるなら救急車とか」

それに警察を待っているなんて悠長なこともしていられない」

「え――」

 それはどういうこと?と再び質問をしようとしたところで、急に突き飛ばされる。

 まさか下心を悟られた!?と長淵さんのほうを見たところで、何かが視界を通り過ぎた。

 そのまま尻餅をつくと同時に、ガシャンと重い陶器が割れる音がした。

 恐る恐る足先を見ると、背丈のある木と土が地面にぶちまけれており――素人目に見ても大きめの植木鉢が粉々になっていた。

 頭上から「ごめんなさ~い」と金持ちそうなマダムの声が聞こえたところで、僕は自分の身になにが起きたかを把握した。

「……今、下手すると完全に死んでたよね?」

「うん、落下元はだいたい24階くらいで、この重さの陶器が直撃したらほぼ確実に即死だと思う」

 頭上を見上げて、目を細める長淵さんが冷静に状況を伝えてくれる。

 たまたま通りかかった高層マンションの24階から?

 植木鉢が頭に落ちる?

 おいおい。それってどれくらいの確率なんだ。

 しかも交通事故で死にかけてからまだ数十分も経ってない。

 交通事故に遭うことだって稀なんだ。

 確率の話をするなら限りなく0に近いだろう。

 ならば仕組まれていることを疑うのが当然だ。

 0%に近い事件ぐうぜんを仕組んでいる?

 待ってくれ。じゃあ――


 


「ねえ、長淵さんはなにかを知っているの?さっきから僕を助けてくれたり、やたらと冷静だけど」

 疑問だらけの僕はすがるような気持ちで長淵さんに尋ねる。

「ねえ、只人ただびとくんは異世界転生って知ってる?」

「え、え……?」

 急に場違いな言葉が返ってきた気がして思わず聞き返した。

「異世界転生。小説投稿サイトとかで人気の、ジャンル?って言えばいいのかな」

「いや異世界転生自体は知ってるんだけど。そうじゃなくて、どうして今この場でそんな話を?」

「信じられないかもしれないけどね、これは、あなたが今まさに遭った出来事に関係あることなの。フィクションみたいな話だけど、因果を仕組まれている――」

 クラスメイト長淵胡和ながふちこよりは淡々と事実を述べるように告げた。


只人圭ただびとけいくん、あなたは<世界セカイ>から死を望まれた転生適合者なの」


 ――――――――――――――――――


 異世界転生とは創作ジャンルのひとつであり、主にアニメやライトノベル、小説投稿サイトのメディアで人気を博している。

 ある世界の人間が死んで別の世界で生まれ変わって新しい人生を再スタートする、文字通り異世界に転生する作品のことを指す。生まれ変わる際に特殊な能力を付与されており異世界でアドバンテージをもてたり、元の世界で持っていた秀でた能力を引き継いでやっぱり有利に立ち振る舞うのがよくある傾向である。


「それで、僕が異世界転生に適正があるから殺されそうになってるってことなの?」

「その通りなの。理解が早くて助かるの」

 長淵さんは手に持った"練り胡麻練乳タピオカ入りチョコチップフラペチーノニガリグランデミルク"をストローで啜りながら真顔で頷いた。

 現在は『なるべく人が多くて、落ち着いて話せる場所に行くの』という長淵さんの提案から最寄りのコーヒーチェーン店で腰を落ち着けている。二回連続で死にかけたので今日はもう帰りたかったが、このままだと三回目の"不慮の事故"が起きて今度こそ死にかねない。大人しく長淵さんに従って、死なない方法を教えてもらうしかない。

 女の子とお洒落なカフェでデートですぞと僕の中の紳士が叫んでいるが、命の危機がいつ訪れるか分からない今は正直それどころではない。それどころじゃなさすぎて、僕も長淵さんと同じ飲み物を注文してしまった。


「そもそもなんだけど、異世界ってあるの?」

 僕はいろんな疑問は差し置いて一つずつ理解できそうなところから訊いていくことにした。

「ある――正確に言えばあるとされているの。この<世界セカイ>にいる以上は実際に行って確かめることができないけど、確かにあるの」

 <世界セカイ>。

 知っている言葉のはずなのに、初めて聞く英単語のように耳馴染みのない響きをもって聞こえる。

「<世界セカイ>は地球上の全ての国とか万国を示すような辞書的な意味合いじゃなくて――"いま""ここ"に存在する、総体としての時空のことを指すの」

「うん……?」

 異世界ファンタジーの話かと思ったら、SFっぽい雰囲気になってきた。

 ええと、と長淵さんがどう説明するか模索するように頬に指をあてる仕草をする。可愛い。

 閃いたようにメモ帳とペンを取り出して、おもむろに線とその左端に棒人間を書く。

「ここに線があるの。この線は過去から未来まで続いており、私たちはこの時空の中で生きているの。これが<世界セカイ>」

「なる、ほど?」

 ピンとこないが、某SFアニメで使われていた"世界線"のような概念だとざっくり理解して、先を促す。

「この<世界セカイ>は一つではなく、無数に存在するの」

 先ほどの線と平行にいくつかの線を書いていく。

「これが別の世界、異世界ってこと?」

「うん、そうなの。異世界というくらいだから、根本的に物理法則が違うことも多いの。例えば魔法が使える世界だったり、科学がとても優れている世界だったり、という風に」

「ファンタジーやSFめいている<世界セカイ>もあるってことなんだ」

「そう。この<世界セカイ>では創作上で語られているような想像の産物が他の<世界セカイ>では常識だったりするの。<世界セカイ>は――この線たちは――それぞれの<世界セカイ>同士で交わらず、基本的には相互に干渉することはない」

「あー……」

 おぼろげに分かって、曖昧に頷いた。

 確かに干渉できるのなら今頃魔法使いやアンドロイドが一人や二人(あるいは一体や二体)見つかってもおかしくなはずだ

「そして、それぞれの<世界セカイ>は維持するだけで莫大なエネルギーを消費するの。だいたいの場合は自給自足でなんとかなるんだけど、消費が供給を追い越すことがある。そうなった時はいずれ<世界セカイ>を維持できなくなって――」

 紙面に書かれた横線に大きなばつ印が上書きされた。

 長淵さんは続ける。

「――消滅してしまうの」

「実在する異世界に、<世界セカイ>の消滅……なんだかスケールがでかくて想像できないな」

「只人くんにとって直接関係するのはこの先。――自給自足ができなくなった<世界セカイ>が存続する方法があるの。分かる?」

「ええと、他からエネルギーをもらう……?」

「その通りなの。正確に言えば、他の<世界セカイ>からエネルギーを奪うということなの」

 なるほど、それはあり方としてよく分かる。人間だって人間単体だけでは生きていけないから、食事という手段で他から栄養を摂取する。

 僕はなんとなく手付かずでいた"練り胡麻練乳タピオカ入りチョコチップフラペチーノニガリグランデミルク"を口にする。

 …………。

 え、なんだこれ。甘さと苦さの大渋滞みたいな味がする。しかも苦いのはコーヒーじゃなくて、ニガリ由来の苦さだ。ニガリの風味とコーヒーの風味が喧嘩している。なんでコーヒーにニガリ入れたんだ。

 ちらりと長淵さんを見ると、やはり真顔で飲んでいた。反応が読めないからどういうスタンスでこの飲み物を飲めばいいか分からない。

 とりあえずこのニガリコーヒーのことは保留し、話の続きをする。

「具体的に他の<世界セカイ>からエネルギーを奪う方法って?」

「他の<世界セカイ>にこの<世界セカイ>の住人を送り込む。送り込んだ人物を経由して他の<世界セカイ>からエネルギーを奪うの」

「それって――」


「そう、それが異世界転生の仕組みなの」


 話が繋がった。僕はこの<世界セカイ>を存続させるための先兵として異世界転生させられようとしていた、ということらしい。

 説明を受けてもいまいち現実感に乏しいのは話のスケールが大きいという以前に、異世界転生らしきこと――超自然的な体験をしていないことが大きいだろう。二度死にかけてはいるため全く信じられないということはないけど、それだってまだ現実の延長線上の出来事でしかない。

 分かりやすく神様が説明しにきたり、目の前にチート使いが現れたり話は違うんだろうけど。

 ん?待てよ?

「ということは、他の<世界セカイ>からこの<世界セカイ>に異世界転生してくる人物――人かは分かんないけど――がいるかもしれないってこと?」

「そうなの。これに関してはいるかもしれない、ではなく、現在進行形で異世界転生者はこの<世界セカイ>に送り込まれ続けているの」

「ええ、それって大変なことなんじゃ……」

 そこまで詳しいわけではないけど、漫画やラノベでは異世界転生者は超常的で優れた能力――いわゆるチートをもっていることが多い。そうでなくても他の<世界セカイ>から魔法やオーバーテクノロジーを持った存在が送られてくるなんてただ事ではない。

「そう、大変なの。大変だから、

「処理……?」

 不穏な言い草だった。その言い方だと

 詳しく訊こうとしたところで、長淵さんが鋭い目つきで背後――店の入り口を見た。


 そこにはジャージを着た成人男性が立っていた。その頬は骨ばってこけており、身なりはボロボロで、いかにも憔悴しきっている様子だった。

 ――ただしその目はギラギラとした粘着質な光を帯びており、僕を確かに捉えていた。

「おおおぉぉぉぉぉいぃ!!!!」

 男性が叫んだ。ビリビリと空気が震え、店内は静まり返る。

 店内に居た客と店員が一斉に男性の方へ向き、息を殺した。

 その男性は刃渡りが中途半端に長い――包丁のような刃物を手に握っていた。

「お前だるぁ!!」

 男性は僕を指さす。今度は目線が僕に集中する。

 男性の呂律は明らかに回っておらず、様子から見て正気でないことは間違いない。

 刺激しないことを心がけて緊張しながら返事をする。

「は、はい!僕ですか!?」

「おあんっくまえぐ妻とふりんしてんあ!!?」

 長淵さんが小声で「『お前が妻と不倫してるのか!!?』と訊いているようなの」と教えてくれる。なんで分かるの。

「僕はあなたの奥さんと不倫なんてしてませんよ!」

「ぁああんにってだっすぞあぁ!!あああああ!!」

「『何言ってんだ殺すぞ』だって」と長淵さん。

「これどう答えてもダメなやつじゃないか……」

「あの男性、只人くんが浮気相手だと確信してるみたいなんだけど、浮気してるの?」

「してないよ!!」

「ぐっちゃっちゃ喋ってんでっあすぞわああああぁ!!!」

 男性が激昂して包丁を振りかぶり、僕めがけて突進してくる。

 もう訳が分からない。

「こんなに大きく因果を捻じ曲げて只人くんを殺そうとしている……そこまで<世界セカイ>にとって重要だということなの」と聞き取れないくらいの音量で呟いた長淵さんが手をかざして僕の前に立ちふさがる。

 男性はもう目前に迫っている。

「長淵さん!!危ない!!」

 僕が慌てて叫ぶも、長淵さんは相変わらず冷静さをかけらも崩さない瞳で僕を制する。

「さっきの話の続き――この<世界セカイ>にも異世界転生者が来るの。彼らを放っておけばこの<世界セカイ>の秩序は崩壊するの」

「そんな話――」

 今はしなくてもいいだろと言いかけるが、その瞳の揺らがなさに僕は得体の知れなさを感じて口を噤む。

 長淵さんの手にはいつの間にか背丈ほどもある棒状の武器が握られていた。

 その武器の先端は鋭く尖っている。――これは槍だ。

「奴ら――異世界転生者は私が処理する必要がある――」

 そう言い切った長淵さんの影がぶれた。

 男性は既にその姿を追い切れていない。

守人もりびとである私が――!」


 ――――――――――――――――――


 その後は拍子抜けするくらいあっという間だった。

 期待を裏切らず、長淵さんは一撃で男性をぶちのめした。

 というより気付いたら男性が吹っ飛んで気を失っていた。何をしたかが分からないくらい一瞬の出来事だった。


 店に事後処理を任せて、今日は解散ということになった。

 帰宅した現在は特になにもする気になれず、ベットに寝転んでいる。

 このままだとまた死ぬ目に遭うのではないかと心配したが、長淵さん曰く『経験上ここまで派手に因果を操作したなら<世界セカイ>はしばらく無理に手を出すことはできないの。そうね――だから最短でも一週間くらいは命の保障がされているの』とのだった。

 執行猶予、という言葉が頭を過ぎる。

 長淵さんはこの<世界セカイ>に来た異世界転生者を処理すると言っていた。あのカフェで行われたバトル漫画みたいな展開は慣れっこだったのかもしれない。

 処理と言う以上、自分から身を投じて戦闘を行っているのだろうか。

 あんな命の危険があるような、出来事を。


 不意に今日遭った出来事が脳裏にフラッシュバックする。

 そうだ、今日僕は二度――あの男性の件を含めれば三度死にかけているのだ。

 長淵さんがいなければ今日で確実に死んでいた。

 トラックに轢かれて死んでいた。植木鉢が頭に直撃し死んでいた。男性に包丁で刺されて死んでいた。

 時間が経ったことで冷静に思い出してしまい、恐怖がドッと溢れてくる。


 異世界転生適合者、だったか。

 長淵さんが言うことが本当なら、おそらく死んでも異世界に転生して生きていくことができるのだろう。

 巷でよくある異世界転生ものを信じるなら、きっと今よりもよりよい人生を送れるはずである。異世界ハーレム、異世界チート万々歳だ。


 だがしかし、だ。

 そのためには一度死ななければいけないのだ。

 身体が急激に、あるいはゆっくりと動かなくなる想像が頭から離れない。

 僕を構成する要素が消えてなくなる。

 機能が失われて、意識が失われて、生が失われる。 


 根拠もなく、理屈もなく――死ぬのが怖かった。


「ああ、死にたくないな……」

 死に怯えているうちに、僕はいつの間にか眠りについていた。



 ――――――――――――――――――


 死にかけたとて、学園には行かねばならない。

 正直外に出るのは怖いが、昨日の様子だと家の中に居たって豆腐の角で頭をぶつけて死ぬことだってあり得るだろうから怖がったって仕方がないのだ。なんといっても僕の命を狙うのはこの世界、いや<世界セカイ>そのものなのだから。

 長淵さんは因果がどうとか言っていたが、そんなものを操ってくるのであれば僕に立ち向かう術はない。今は長淵さんが保障してくれた一週間の中で、もっと生き伸びる方法を教えてもらうほかないのだ。


 朝HR前の教室を見渡して、長淵さんをちらりと見る。窓際の後ろから2番目の席で数人の友人グループと会話していた。友人に囲まれる長淵さんは相変わらず掴みどころのない表情をしていたが、当たり前のように馴染んでいる。

 さすがにあそこに無理やり割り込もうものならクラスカースト高め系女子たちから冷たい視線と心無い罵倒を浴びせられて、僕は一週間を待たずして死を迎えるだろう。主に心が。

 はやる気持ちをぐっと抑えて着席する。まあ焦るな、まだ慌てる時間ではない。それに、重要なことはむこうから話しかけてきてくれる……はずだ、多分きっと、そうだといいな。

 そうしていると近くにいた友人が話しかけてきたので、僕は返事をする。連鎖的に後ろの席に座っていた男子も会話に参加し、ゆるいキャッチボールのような会話をする。

 内容はなんてことない、何度も話したような些細なことだ。4限にある体育がだるいとか、昨日見たアニメが面白かったとか、今日提出期限である英語の宿題をやったかとか――少し時間が経てば忘れてしまうような、なんてことない会話。たまに友人のふざけた発言に笑ってツッコミを入れたりもする。

 僕はそれをつまらないとも興味深いとも思わずに、淡々とこなす。まるでそれが決められた手順であるかのように実行する。

 これは昨日命の危険に遭ったから、というわけではもちろんない。僕は人間関係という人との繋がりを意識した時から、あるいは学校生活という閉鎖的な営みを送ることになった時からずっと考えている。

 集団において孤立することは忌避されるに足る理由となる。いわば孤立とは異端であることの証明だ。異端であるというのはそれだけで近寄りがたく、排斥されるきっかけになり得る。誰だって集団から浮いたり、それが原因でいじめられるということは避けたい。

 だから、人間関係を作る目的とは孤立を防ぐこと――誰かと一緒にいるということそのものだと僕は思う。誰かと関係を維持することはそれだけで"孤立していない"という弁明になる。

 彼らと僕の関係もあくまで互助的なそれでしかない。少し時間が経てば忘れてしまうような会話する関係というのは、少し時間が経てば卒業してしまえば忘れてしまうような関係でしかない、と言い換えることができるのだろうから。

 そんなことを考えていると予鈴が鳴って朝のHRが始まった。


 結論から言えば、放課後に学外のカフェで集合することになった。

 昼休みになっても特に何も言われなかったためやきもきしていたが、トイレに行っている間にメッセージが書かれた紙きれが机の中に入れられていた。長淵さんのほうを見たが、教室を出る前と変わらず友人と談笑しており、彼女にはジャパニーズシノビ的な素養もあるに違いないと確信した。

 授業が終わり、通学カバンに教科書を積めて教室を出る。

 集合場所に指定されたカフェは学園から少し離れたところにあり、カフェといよりは古風な喫茶店のような内装だった。それなりにいる客もどことなく上品な印象だ。僕のような日陰者にはいささかハードルが高い――などと考えたのも束の間で、既にテーブル席で座っていた長淵さんがこちらに小さく手を振ってくれたのを見て店への気おくれなどはどうでもよくなった。可愛さの前にはいかなる概念も無力。

「こんにちは……というのもおかしいか。ええと、おつかれさま?」

 長淵さんの向かい側の席へ座りながら挨拶する。

「お疲れ様、なの。急に呼び出してごめんね」

「全然、そんなことは……むしろ呼び出しを待っていたというか。あいや変な意味でなく!」

 会話下手くそかよ、僕。

「そう、それなら良かったの。先になにか注文する?」

「あ、じゃあ……」

 メニューを見て、一番ベーシックっぽいブレンドコーヒーを注文した。

 長淵さんはあらかじめ決めておいたのかカフェモカを頼んでいた。

 昨日のなんとかニガリコーヒーを思い出して、もしかするとカフェモカというのはなにかの隠語で本当はエキセントリックな飲み物なのではと思ったが、テーブルに置かれたのは普通にカフェモカとブレンドコーヒーだった。疑ってごめん。

「この店ではこれが好きなの」

 カップに口をつけながら、そう言った長淵さんの口元は少しほころんでいた。

「…………」

 笑っているところを初めて見た気がして、当たり前だけど彼女のことをちゃんと同年代の女の子なのだと思った。

「只人くん?」

「ああ、いやうんそう、次は僕もカフェモカを頼んでみようかなって」

「それがいいの。このお店も雰囲気良くて好きなの」

「確かに、落ち着くかんじだよね。カフェ巡りとか好きなの?」

「通っているのはここくらいだけど、知らない店に入ってみたりはするの。最初は全然興味なかったんだけど、姉の影響で」

「へえー」

 なんだかうまいこと会話が回ってる気がするぞ。会話の継ぎ目に飲んだブレンドコーヒーも味を語れるほどよくは分からないけど、飲んでいてホッとするのは確かだ。とっさの思い付きで言ったことではあったけど、次は本当にカフェモカを頼んでみようと思った。

 ――でも落ち着いてその味を楽しむためには、"1週間先"もちゃんと生きていけることが前提だ。

「それで――呼び出したのは只人くんのこれからのことなの」

 本題を切り出すように、長淵さんが言った。

 少し柔らかくなった雰囲気がスッと引き締まったように感じた。

 僕も背筋を正して、返事をする。

「ええと、改めてになるけど、昨日は助けてくれてありがとう。本当に長淵さんがいなかったら、僕はこの場にはいないと思うし……」

「私はただ、クラスメイトが――知っている人が<世界セカイ>の都合で死んでいしまうのが嫌だっただけなの。感謝をされる謂れはないから、そうかしこまらないでほしいの」

「でも――」と僕は食い下がるが、先を制するように長淵さんが首を振った。

「じゃあ"命の恩人"として命令するの。話づらいから今後も普通に接してほしいの」

「うん、分かった。ありがとう」

「よろしいの」

 満足気に頷く長淵さん。

「それで、これからのことって?」

「これからのこと――これからも只人くんがこの<世界セカイ>で生きるにはどうすればいいかってことを話すの」

「うん、よろしく」

「まず最初に確認なの。私は個人的な信条から只人くんの危機を助けたの。でも只人くんがこの<世界セカイ>が好きじゃない、異世界転生したいというなら私のしたことは余計なの。もし異世界に行きたいならこのまま何もしなければ自動的に<世界セカイ>が只人くんを死に至らしめて、転生させるの。異世界転生をすれば誰からも注目されて、なんでも好きなようにできる可能性はあるの。――只人くん、あなたは異世界転生しなくてもいいの?」

「僕は……」

 少し考える。異世界転生して、全てが上手くいって、アニメで見るようなハーレムを気付いて、楽しい生活を送る。それもいいかもしれない。

 けど、異世界転生のためには死ななければいけない。僕を支配するのは死への恐怖だ。異世界転生できるからじゃあ死んでもいいなんてとても思えない。それに長淵さんを信じていないわけじゃないけど、異世界が本当にあるかも実感できていない。なら痛くて辛い目にあってまで実在するか分からない賭けに乗ることもない。

「情けないけど、僕はまだ死にたくない。だからこの<世界セカイ>で死なない方法を教えてほしい」

「分かったの。今はそれだけ聞ければ十分なの」

 長淵さんは僕の目を見て頷いた。峠を一つ越えたように少し息を吐いて、続ける。

「じゃあ今度はこの<世界セカイ>で生き続けるための方法を話すの。――只人くん、あなたには<物語性>が足りないの。」

「もの……がたりせい?」

 なんだか新しい単語が出てきた。

「<物語性>は一言で言うと影響力や意志力のことなの」

「ふむ……?」

「人は人間関係を気付くとき、双方に影響し合っていて、関わる中で出来事を発展させていく。<物語性>とはこの発展のしやすさのことなの」

「誰かと関わりをもっていないから、僕には<物語性>が足りない……? だから<世界セカイ>から異世界させられそうになってる? いやでも待った、友人はいるけど」

「ふうん、只人くん、じゃあその友達の下の名前は言えるの?誕生日は?出席番号は?」

「えっと……」

 答えられない。どころか僕はその友人を普段なんて呼んでいるかもとっさに思い出せなかった。

「<物語性>は関わる人の数ではなく、スタンスの問題なの。只人くんは心のどこかできっと思っている。――人間関係を作るのは周囲から浮かないため、だって」

 ぐうの音もでないほど図星だった。

 現に今朝も僕は考えていた。交友関係なんて一時的なもので時間が経てば忘れるような繋がりでしかないと。

 でも、と言い訳するように反論が口をつく。

「でも一人でいたい人だっているでしょ。僕だけが交友関係に前向きじゃないってことではないんじゃ……」

「それもやっぱりスタンスの問題なの。能動的に一人を選んでいるのであれば、あるいは一人が嫌だったとしても誰かと関わりたいという意志があれば<物語性>は介在しえるの」

「僕だって――……」

 言おうとして、言葉に詰まる。続きが浮かばない。

「誰かと積極的に関わるわけでもなく、関わらないと決めているわけでもないというのは、言い換えれば単に状況に流されているだけなの。それが異世界転生適合者の最大の適性であり、<世界セカイ>にとって異世界転生させる優先対象となるの」

 長淵さんは教科書を読み上げるように、すらすらと話す。

「…………」

 僕は長淵さんの真っ直ぐした目線から逃げるようにコーヒーに口を付けたが、とっくに冷めてしまっていた。

 状況に流れているだけ、という長淵さんの言葉が痛いくらいに染みる。

「私は個人的にはそれでも別にいいと思うの。誰かと関わらないのも関わるのも、一人でいるのもいないのも、自由だと思うから。でも異世界転生を逃れたい、というのであれば、話が違ってくるの」

「……死にたくないなら、変わらなければいけない」

「その通りなの」

 やっぱり長淵さんは僕の方を見ていた。

 僕の答えを待つように。

「――……長淵さん、教えてほしい。僕はどうすれば<物語性>を獲得できる?」

 今度は僕が長淵さんの目を見て、問うた。

「本当はゆっくりと時間をかけて、ちょっとずつ人と関わったり、自分の意思を持ってもらえればいいと思うの。でも……」

 長淵さんが珍しく逡巡した素振りを見せる。

 その言葉の続きは僕にも理解できた。一週間で変われなければ僕に命はない。

「僕には時間がないんだよね」

「そうなの。17年の積み重ねがあっての現在なの。そう簡単には変わらないの。だから荒療治になるけれど、私の――守人の仕事を手伝ってほしいの」


 ――――――――――――――――――


 カフェから出たその足で守人の仕事を手伝うことになった。

 今は長淵さんに着いていく形で電車に乗って少し離れた駅まで移動したところだ。

 陽は傾きかけており、他校の生徒もまばらに帰宅しているのが伺えた。

「只人くん、やっぱり、あの、お会計良かったの……?」

「うん?ああ、いいよこれくらい。僕のために時間を作ってくれたんだし」

 先のカフェの代金は僕が無理言って払ったのだ。ああは言われたけど、やはり長淵さんは僕の命の恩人でその借りはちょっとずつでも返していきたいと思う。長淵さんのために使われるのであれば、僕の野口英世二人も喜んで財布から羽ばたいたに違いない。

「只人くんは優しいね」

「え、急にどうしたの」

「なんでもないの、言ってみただけなの」

「長淵さんのためなら喜んで野口の一人や二人生贄に差し出すよ」

「怖い上に生々しい例え話なの。――それに、そういうことじゃないの」

「ん?」

「去年の学園祭、覚えてないの?」

「学園祭……?」

 去年長淵さんと学園祭でなにかあったのか、思い出せない。同じクラスではあったはずだが。

「覚えていないならいいの。――さっきはああ言ったけど、只人くんは見返りなく誰かを助けることが出来る人だと思うの。去年も私だから助けてくれたんじゃなくて、きっと誰にでもそうしていたの。だから、只人くんはきっと誰にでも優しい人なの。それは、とても素敵なことなの」

「ふぇ、へ、へ……どうも」

 急に沢山褒められたことで脳がフリーズして気持ち悪い返答になった。

 長淵さんが僕のそんな様子を見て、くすりと笑っていて、その可愛さでも余計にしどろもどろになってしまう。情けない。


「……あれ?」

 ふと風景が変わった気がして、周囲を見渡す。

 今まではビル通りを歩いてきていたが、急にぷっつりと建物が見当たらたない。

 代わりにアスファルトがむき出しになって、ところどころ黒く焼け焦げている箇所がある。

 かつてなにかの建物が並んでいた形跡があるが、まるで小さな隕石が落ちてきたみたいにここだけ荒地になっている。

 長淵さんが足を止める。

「今日の仕事をする場所から近かったから、少しだけ遠回りして寄ってみたの。少しは復興してるみたいで安心したの」

「4年前にガス爆発があったところだよね。ここがどうかしたの?」

 僕がそう尋ねると長淵さんは気を静めるように目を瞑った。

「ここは、ガス爆発が起きた現場なんかじゃないの。――異世界転生者と守人の、最大規模の抗争があった場所なの」

「抗争……?」

「只人くんに守人を説明するにはここがちょうど良いの。今からするについても」

「守人の、仕事」

 長淵さんは僕に守人の仕事を手伝ってほしいと言った。

 ちょうど今見ている光景が日常と非日常の境目に見え、僕はゆっくりと固唾を飲む。

「もう既に察しはついているかもしれないけれど、守人とは異世界転生者に対するこの<世界セカイ>の防御機構のことなの。それは個人を指すこともあるし、組織全体を指すこともあるの」

「守人は人知れず、異世界転生者から人々を守っている正義の組織ってこと?」

「……この<世界セカイ>にとっては正義だと思うの。戦いに身を投じている私は少なくともそう信じているの。そして、"人知れず"戦えているのは、<世界セカイ>が行う因果操作のおかげなの」

「因果操作……。因果を操って、<世界セカイ>に都合がいいように改変するってことか?」

「そうなの。<世界セカイ>には意思のような概念があって、人の行動を変えるように因果を操作することができるの」

 思い出すのは昨日の数々の出来事。あまりにも都合よく僕が死にかけていたのは<世界セカイ>が人の行動を誘導していたからなのだ。

 例えば昨日コーヒーカフェに包丁をもって現れた男。あいつは元々妻と浮気している相手を探していたが、それを僕だと勘違いさせた上で殺意を極限まで高めさせたのも<世界セカイ>が因果を操作したため、ということらしい。

「さっき、この光景がガス爆発によって起こったものだと思ったのも――」

「そうなの、大規模な因果操作によってそう思うように仕向けられていただけなの」

 秘匿されていた<世界セカイ>の裏側が徐々に姿を現していくようで、少し眩暈がした。

 改めて周囲を確認する。

「ここで、異世界転生者と大きな戦闘があったって言ったけど――長淵さんも戦っていたの」

「…………」

 長淵さんは黙って、抉れたコンクリート片をじっと見つめている。それがなによりの肯定だった。そしてぽつぽつと話し出す。

「気づいた時には手遅れだったの。"奴"は魔法が使える世界からやってきた異世界転生者だったの。しかも何にでも応用が利く"無属性魔法"を使っていたの。"奴"はまずこの<世界セカイ>に来るなり、自身の存在を隠蔽した。そしてこの<世界セカイ>の人々に力を分け与えて仲間を作ったの。その数は約2200人以上。総結集した守人の数よりは少なかったけれど、それでもあの夜――奇襲をかけたあの抗争で受けたこちらのダメージは無視できないほどに大きかった。多くの守人の犠牲を払って、"奴"と"奴"の仲間だった――この<世界セカイ>の人々を根絶やしにしたの。その戦闘は激しく、この辺り一帯は建物が残らないほど吹き飛んだの。その結果の断片がこの光景なの」

「…………」

 いかなる返答を行うのも不適切に思えるほど壮絶だと思った。上手く言葉にできない感情が去来する。

「異世界転生者は"チート"というべき全能に思える力を使って、この<世界セカイ>でありのまま振る舞うの。放っておけば異世界転生者はより巨大な力をつけていき、この<世界セカイ>のありとあらゆる概念を飲み込むの」

 長淵さんは全身をこちらに向けて、強い光を伴った瞳で僕を見る。

「だから守人は異世界転生者を一人残らず、老若男女関係なく、平等に徹底的にしないといけないの。異世界転生者の息の根は何を犠牲にしてでも止めなければいけないの。――それが私たちの仕事なの」

 それは非常に重く、責任がある言葉だった。

 普通に暮らしてきた僕などには簡単に理解できるとは思えない。

 だけど――。

「分かった、僕はその仕事を手伝えばいいんだね」

 だけど僕の命の恩人が自身の命を張って戦っていて、成り行きとは言え協力できることがあるなら、力を貸したいと思う。今の僕に言えるのはそれだけだった。

 長淵さんは頷いて、それから少し微笑んだ。

「よろしくね」と気恥ずかしくなった僕は手を差し出した。

 長淵さんは驚いたように目をしばたかせて、一瞬だけ出しかけた手をなぜか引っ込める。

 僕が迷わずにその手を掴むと、長淵さんは観念したように握り返してくれる。

 その手は、思っていたよりも小さかったのだった。


 ――――――――――――――――――


 とはいえ、今日このあと仕事を手伝うと言ったって今から僕が異世界転生者と戦うという話になるのかと思うとゾッとしない。漫画などのように万能の力を持った異世界転生者が相手なら数秒で死ねる自信がある。

 そのことを話すと長淵さんは首を振っていた。

「違うの、今日只人くんにしてもらうのは異世界転生者と直接戦うことじゃないの」

「まあそりゃそうだよね……」

「今日只人くんにしてもらうのは覚悟、なの」

「覚悟ならさっきした、けど?」

「ううん、まだ足りないの。今からしてもらうのは人生を賭けてもらうような、そんな大きな覚悟なの」

「ああ……」

 確かに口だけでは信用してもらえない。これから一週間後に待つ僕の死を回避するためには、人生を大きく変えるような覚悟があることを証明しなくてはいけないと思った。それは後から振り返ればとんだ勘違いだったのだ。長淵さんは言葉通り、僕には覚悟が足りないと言っていたのだから。


 着いたのは病棟が複数ある、市内でも有数の大病院だった。

 春先とはいえ、18時を過ぎると肌寒く薄暗い。

 面会時間は終わっているため正面からは入れない、と長淵さんは言った。

 敷地に入るなり、長淵さんは病院の裏手に回った。

 そこには職員用の出入口があり、キーカードを通さないと入れない仕組みになっていた。

「いいよ、入って」

 ただし扉上部のLEDは通行可能を示す緑色に点灯しており、長淵さんは取っ手を難なく引いた。

「長淵さん、これって」

「そう、この扉のロックは解除されていて、それを見咎める人がいない。そんな状況なの」

「因果操作か……」

 改めて体感すると恐ろしい力だと思った。

「本当は正面からでも入れるけど、そうすると必然的に操作しなければいけない因果が多くなるから。なるべくひっそり行動することが求められてるの」

「あれ、でも僕は最低でも1週間は因果操作されて<世界セカイ>から殺されることがないんじゃなかったっけ」

「それは只人くんにリソースを割かないというだけの話なの」

「ああ、なるほど」

 辺り満たす消毒液の匂いで、ここが病院であることを否応なく理解させられる。長淵さんに案内されて、職員用の階段を上る。

 病棟内に入ってから全くの無言になってしまった長淵さんの横顔を見る。因果操作の規模を小さくするためというのもあるかもしれないが、張り詰めたような緊張した雰囲気が漂っているように思えた。

 僕はまだ今日具体的になにをするのかを教えられていない。異世界転生者と戦うのではなく、覚悟を決めるとはどういうことなのだろうか。

「この階なの」

 6Fと書かれたプレートが置かれた踊り場を通り過ぎて、通路に出る。

 見たところで小児科で、一般用の掲示板は可愛らしいパステルカラーで産後の検診や過ごし方について書かれたトピックで彩られていた。デフォルメされたうさぎのキャラクターに「困ったことがあったらなんでも相談するウサ!」と吹き出しが付いていた。

 職員用ステーションを通るときは緊張したが、看護師さんの姿はなかった。

 薄暗い廊下に長淵さんと僕だけが歩く音が反響して聞こえる。それはまるで不吉ななにかを運ぶ死神になったような気分だった。

「…………」

 ある病室の前で、長淵さんが足を止めた。

 そこはガラス張りになっており、部屋に入る前に中の様子が伺えた。

「赤ちゃん……?」

 僕は呆けたように呟く。

 その部屋には新生児用ベットに収まった赤子が綺麗に複数並んでいた。

 本来職員しか立ち入れないように鍵がかかっているはずの扉は、やはり空いていた。長淵さんに着いていくようにして、中に入る。


「長淵さん……?」

 先ほどから押し黙ったままの長淵さんの様子を伺うように、僕は声をかける。

 長淵さんがこちらを振り返る。

 しばらくぶりに僕を見たその目は――ひどく据わっていた。

 長淵さんは一番手前にいる赤子の元へ歩いていった。

 その赤子は心地良さそうに眠っている。

「あの――」

「只人くん、今日の仕事を説明するの」

「え、うん」


「――私がこの赤子を殺すから、あなたはそれを見殺しにして」

 

「は――?」

「一応これを渡しておくの」

 備え付けられていた小型の機械を投げて寄こされる。

 受け取って確認すると、それはナースコール子機だった。これを押せばナースステーションで呼び出し音が鳴るのだろう。

「因果操作はあくまで"前もって操作された事物の結果"――言い換えればバタフライエフェクトの連続でしかない。だから予定されていない咄嗟の行動には対応が難しいという欠点があるの。だから、それを押せば流石に看護師さんも駆けつけて、私がこの赤子を殺すのを止められるかもしれない」

「え――」

「ああ、説明が遅れたけど、この赤子は異世界転生者なの。異世界転生にも色々あって、最初から元の<世界セカイ>の姿から異世界生活が始まるタイプもあれば、異世界に存在する他人に憑依するタイプもあって、――異世界で生まれ直すところから始まるタイプもあるの。この赤子のように」

「ねえ待って――」

「大丈夫、すぐに終わるから安心してていいの。最初だけ赤子は泣くかもしれないけど、十数秒経てば静かに――」

「ちょっと待ってってば!」

  僕は長淵さんの言葉を遮るように強く叫ぶ。室内に居た他の赤子が起きて、ぐずってしまう。

 泣き声が反響する病室で僕はただ長淵さんを見つめていた。

「その赤ちゃんを殺す……?長淵さんが……?」

「そう言ったの」

「……ッ!」

 長淵さんは揺るがない。

 それが人殺しだとか、倫理的じゃないとか、人道に反するとか、そんなことはとっくに理解しているのだろう。

 異世界転生者と守人の抗争があった荒地で、長淵さんは言った。

『だから守人は異世界転生者を一人残らず、老若男女関係なく、平等に徹底的に処理しないといけないの』

 だから、

 僕が手伝うと言ったのは、つまりそういう仕事なのだ。

「…………」

 呼び止めておきながら、僕は口を開けずにいる。

 さっきと同じだ。僕に言えることは何もない。

 既に固まりきっている覚悟の前に、ただ流されるように生きてきただけの僕が言えることは何もないのだ。

 そんな心情を見透かしてか、あるいは見限ってか、長淵さんは僕を視界から外す。再び対象の赤子へ近づいて、そっと両手で首筋に触れた。

 そして体重をかけ――ぐっと力を込めた。

 今まで眠っていた赤子が目を覚まして、突然のことに泣き叫ぶ。

「…………」

 あの時僕が握った、長淵さんの小さな手。

 あの手が、赤子の命を奪おうとしている。

 無意識にこぶしを握ったところで、手元にナースコールがあることを思い出す。

 これを使えば、長淵さんを止められるのだろうか。

 命の恩人に、これ以上手を汚させずに済むのだろうか。

 だけど僕は何もしない。

「…………」

 泣き声が何重にも重なっている。

 それはそうだ、この部屋で泣き叫んでいない人間は僕と長淵さんだけだ。

 いや、どうだろう。彼女は泣いていないのだろうか。

 分からない。ここからではその表情を伺い知ることはできない。

 半歩だけ前に進めば見えるだろうか。

 あるいはもう一度名前を呼べばこちらを向いてくれるだろうか。

 だけど僕は何もしない。

「…………」

 不意に去年の文化祭のことを思い出した。

 僕は急用で帰りたそうにしていた長淵さんに気づいて、クラスで出していた屋台の当番を代わったのだった。

 今となっては守人の仕事でも急に入ったのだろうか、と想像ができる。

 その時の僕にとって長淵さん個人のことはどうでもよくて、単にクラスで浮かないように、いい奴と思われるようにとった行動の一つでしかない。

 ああ、そうか、僕は最初から――


「終わったの」


 そして、泣き声がひとつ止んでいた。

 病室は既に真っ暗になっており、やはり長淵さんの表情は分からない。

 僕は長淵さんの言葉を聞いて――彼女が一つの命を奪ったという報告を聞いて、がいることに気づいた。


 

 


 そんな醜い自己保身由来の安心感が全身を満たしていくのが分かる。

 僕は最初から僕以外のことはどうでもいいのだ。

 ――この期に及んでも。 


 僕は、僕という人間が、心の底から嫌いになった。


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