白い桜

 世界の明度が高い。砂利道も、コンクリートも、まるで視界に雪が降ったように白く見える。大きく息を吸いこめば、マスクから漂白剤の臭いがする。

 いつもならば、街には明るい黄色が降りて、カートを持つ老人や、ジャージを纏った少年たちとすれ違うものだ。少し前であれば、スーパーで買ったトイレットペーパーやティッシュペーパーを手に持った、トレンチコートの男性も見受けられただろう。

 曇天の下には、誰もいない。車もろくに通らない。白飛びした家々が音も立てずに佇んでいる。

 元から私の街は住人が少ないことで知られていた。しょせんは高齢化の進む小さなベッドタウンだ。春休みには高校生たちも見受けられなくなるし、平日の昼間は老人しかいない。

 十五分おきの電車を待っていると、目に映ったのは、申し訳程度の桜だ。足を止め、写真を撮る者もいない。撮ろうにも、空が真っ白で、桜が雲に溶けだしてしまうからだ。

 桜が散る頃には、私のこの生活も終わっているだろうか。赤いヘルプマークに目を落とし、小さく息を吐く。今日は一時間かけて、精神科に行かなくてはならない。

 やってきた鉄塊で出来た棺に足を踏みこめば、マスクをした無発症の患者だらけだった。空席をたくさん作って、離れて、皆空白の時間を埋めたがってスマートフォンを見つめている。

 ヘッドフォンからの音が止むと、その沈黙に咽せかえってしまいそうになる。

 確かに私は、聴覚過敏で日々の生活に困り果てていた。騒がしい赤ん坊の泣き声、喧しい老人たちの話し声、騒々しい学生たちの笑い声──その全てが怪物となって、無垢に私の頭を殴りつけるから、私はヘッドフォンをして、自分の空想世界にこもっていたのに。

 ヒーターも点かない、薄寒い鉄の箱の中、萎んだ色の人々が、死んだ顔をして座っている。

 世界は終わるのかな、と私は思った。

 疫病が流行って、外にも出られなくなって、家に監禁された、千億の無自覚感染者たち。必要な外出で電車に揺られる人たちも、死んだ顔をして色の無い外の世界を、呆然と眺めている。

 人のいないマンション街は、さながら廃墟のようだ。使われないマンションは、コンクリートの塊にしかならない。私たちは、金属で出来た夢想を眺めるか、死んだ小学校を眺めるかでしか、この空白を埋めることはできない。

 別に、病のせいで世界が滅んだ、だなんて思ったわけじゃない。消毒され尽くした世界にいるわけでもない。人間は今日も元気に享楽を求めて外に出るし、そうして無様に自殺していく。食事にも水にも電気にも困らない。

 ただ、全てがもぬけの殻になってしまったような気がしてならないのだ。

 そう思うと、今耳元で歌ってる仮想アイドルの声も、過去の再生にすぎないし、こうして人のいない街を歩くのも、まるで廃墟を巡っているような気さえする。話すのは人間の形をした残骸で、私の目が狂って人間だと判断してるだけではないかとさえ思える。

 世界が死んでいる。フリーズした画面のように。死の灰のように。スノーフレークのように。白桜のように。

 それは静寂。それは沈黙。それは形骸。それは回想。それは退屈。それは憂鬱。

 精神科に着いて、増えた薬を貰って、さっそく飲んで。私もこうして死んだ人間になる。頭は働かないで、当たり前のように死んだ日常を過ごす。当たり前のようにお菓子の備蓄をして、当たり前のようにスーパーに向かって、当たり前のように家に引きこもって、当たり前のようにご飯を食べて、当たり前のようにお風呂に入って──

 生きたようなフリをした死んだ人々は、テレビを見て、疫病の蔓延を嘆く。閉じこめられる閉塞感を嘆く。されど恐ろしくって引きこもる。死んだ顔をしてテレビを見る。何も考えないで怯えている。

 彼らは知らない、日々を生きつなぐ私のことを、日々生きる選択をしなくてはならない私のことを。それでも、彼らは私と同じ状況に立たされている。外に出て死ぬか、中にいて生きたフリをして死ぬか。

 冷えきって白い世界に咲く白い桜には、誰も目を向けない。白くって見えないからだ。

 私は、心が死んでしまう前に、鮮やかな桜を眺めていよう。音も無く、ゆっくりと散っていく、はらはらと、きらきらと。灰色のコンクリートに落ちては、踏みつぶされる。

 不要不急の外出は控えるように、と母もコメンテーターも医者も言っているから、こうして色のあるものを見ていられるのは、ほんのわずかな時間なのだけれど。

 桜を惜しむ暇など、生ける屍たる私たちには無い。

 それから、私はヘッドフォンをして、また廃墟探索を始める。もう一つ病院に向かわないと。流れてくる音が私を生かしてくれる。私を動かしてくれる。重怠い退屈と憂鬱を麻痺させてくれる。だから私は、死んだ世界を行く。


(了)

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