エゴイストと聖母

 パシッ、と高い音。

 少女Aは、その音を受け止めるまでに時間がかかった。相手に触れられた頬を叩く。熱い。触られたのではない、叩かれたのだ。

 それを認識した瞬間、少女Aは甲高く叫んだ。そんな彼女の頬を、もう一度少女Bは叩く。ギャアギャアと泣く少女Aの胸ぐらをぐいと掴み、今度は拳で強く頬を殴った。少女Aの口の中に血の味が広がっていく。

 赤く腫れ上がった頬が、片目を押し上げていた。少女Aは涙目で、どぉして、と蟾蜍の鳴くような声で問うた。


「どうして、ですって⁉︎ 分からないのかしら⁉︎ 貴女ってばいつもそう! 私がどれだけ我慢して貴女の横暴さに口を閉ざしてきたと思っているのかしら⁉︎」

「こ、ちらこ、そ、」

「お黙りなさいッ!」


 少女Bは強く少女Aを突き飛ばし、ふらふらと崩れ落ちたその体に馬乗りになった。うるうると涙ぐんだ白紫色の目が少女Bの顔を見上げる。彼女は眉を下げ、頬を紅潮させ、今にも泣きそうな顔をしていた。

 徐に少女Aの茶髪の前髪を引っ張り上げれば、いやぁ、と情けない声が上がる。少女Bは目をかっ開き、少女Aと鼻がくっつくか否かまで顔を寄せて、奥歯をガタガタ鳴らして低い声で問う。


「私はとっても悲しいの。どうしてか分かるかしら? いえ、貴女はとっっっっっっても悪い子だから、分からないでしょう。教えてあげましょう。

貴女はいっっっっっっっつも私に酷い扱いをしてきたわ。それを私は全部全部我慢していたのです。それを知らないで、まるで私が悪いみたいな、まぁ、なんて酷いことを言うのかしら⁉︎」

「ぅ、ぁ、そんなの、お互い様じゃァ、」

「酷い、酷いわッ! 私がどれだけ貴女のことを愛しているか分からないのッ!? 愛しているから我慢しているのッ! クッッッソ最低な貴女を受け入れてあげているのッ! どうして分からないのかしら⁉︎ ねぇ⁉︎ なんとか言いなさいよッ!」


 少女Bは高く手を振り上げ、まだ腫れ上がってない方の顔を叩いた。高い音が上がり、や、と少女Aがくたびた叫び声を上げる。少女Bははらはらと涙を流し、その涙を拭いながら、悲しい、悲しいわ、と独言を言う。

 少女Aは鼻をすすり、ぐずぐずになった顔をぐしゃぐしゃにして、眉を吊り上げた。


「わ、わだ、じ、は、そんなごど、もどめでな、い、おしつけんな、わたしはわるくな、」

「私のことを家畜のように扱って私の愛したものを尽く馬鹿にして自分の好きなものを私が愛したらまるでそれを取られたように癇癪を起こし私は悪くない私は悪くないと怒り狂い私の陰口を裏で言い私の愛した全てを否定して私を追い詰めてそれでも私は貴女を愛しているからへらへら笑ってそんな貴女をずっっっっっっと宥めてきたのはどちらだと思っているの⁉︎ ねぇ⁉︎ 私は貴女を愛しているの! 最ッ低な貴女を愛している! だからまだ貴女を信じるわ⁉︎ ねぇ、ごめんなさい、って一言謝ってちょうだい⁉︎」

「ちがう、わだじぁ、いや、イヤ、殴らないで、嫌──」

「ねぇ⁉︎ 貴女は良い子よね⁉︎ ねぇ⁉︎ 貴女は良い子なの! だから謝ってくれるの! 私は許してあげる! 貴女は良い子だからッ! 全部全部貴女のためにやっているの! 謝りなさい! 謝りなさい! 謝りなさい! 謝りなさい! 謝りなさい! 謝りなさい!」


 少女Bは何度も拳を振り上げ、少女Aの顔を殴った。彼女の目蓋が腫れて、紫色になっていく。何倍にも腫れた顔を、なおも叩く。抵抗する声も、じたばたと揺れる手足も、次第に静かになっていった。その代わりに、か細く、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返す声が、暗い部屋の空気に消えていく。

 少女Aは両手で顔を覆い、兎のようにぶるぶると震えた。少女Bは手を止め、眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開く。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい──」

「……唖々、嗚呼、言えるじゃない! ほら、貴女は悪くない、貴女は悪くないわ、えぇ、私は貴女が大好きよ、貴女を愛しているの」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「仲直りしましょう、えぇ、そうしましょう? だってお互い様だもの、ねぇ? もう一度ちゃんとやり直しましょう?」

「ごめんなさい」


 震える少女Aの髪を撫で、少女Bは聖母のような優しい笑顔を浮かべた。涙で濡れた垂れた黒髪を耳にかけ、少女Aの腫れた頬に手を当てる。少女Aはびくびくと震えながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返した。

 部屋は静かになった。

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