邂逅

「やぁ、若者」


 何気無く手に取った本を落として、声のする方に目を向ける。


「何故、文章というものは美しいと思う?」


 意見を返す暇も無く、僕はカーテンが風に靡いている日向に立つ女性に目を奪われてしまった。


「言葉というものが論理的であるからこそ、美しいのだよ」


 黒髪がふわりと風に舞う。宝石のような瞳は太陽光を反射して煌めいていた。



 答案用紙と睨めっこをして、大きく息を吐き出す。たった数十人の過ごす小箱の中での順位など、数百人の入る箱では意味が無い。そして、更に言えば、社会という巨大な箱の中では、僕が持ち得る知識など砂の一粒に等しい。

 凄いじゃん、と語彙力の欠片も無い在り来りな賞賛を送ったり、見たくないわー、と劣等感を避けて嘲笑を零したりする同胞共に興味は無い。僕が望むのは、こんなに小さな箱での栄光ではない。

 黒板に書き出された最高点数と答案用紙は呼応する。それを見てまたいっそう生徒等は好奇心の目を輝かせた。教師も下衆な笑いで僕を見つめる。

 嗚呼、止めてくれ、違うんだ! 僕が求めたのは、ツールの知識などではない。

 放課後のチャイムと共に小さな箱から逃げ出して、向かうは図書室。図書委員の係を務める女性に用がある。僕は試験毎に行われる、特に意味の無い行事に胸を躍らせていた。


「先輩、順位を教えてください」

「えぇ、だから取れてないって言ってるでしょ? ほら、見てよ」

「僕の勝ちですね」

「ほぉら言った。もう、君はいつもいつも……」


 学年で言えば二十数位の点数を見せて、先輩は頬を掻いた。僕が見せたのは、十位にも満たない先輩よりも上の順位だ。

 然れど、先輩の苦笑の通り、僕が求めるものはこんなものではない。


「あぁ、そうだ、聞いてよ! 今日ね、世界史で続きの分野やってさ、それで、知ってる? この人はね、この時代に……」


 僕が求めるのは、この、先輩の饒舌さだ。

 受験勉強の範囲とは大きく外れているとはいえ、偉人の成したことを長々と話し始めている姿には興奮が止まらない。その全てを知ることができるとは限らないが、先輩だけが持ち得る、宝石のような本物の知識だ。

 僕は必死に学校での勉強、即ち、ツールで追い付こうとしたが、殆どが僕の知らぬ知識で出来上がった話題であった。

 彼女曰く、この知識は昔から読んでいた本で成したものだそうだ。今の彼女の博識さを形作っているのは、積み上げてきた本の数だろう。楽しそうに自分の中で育ててきた知識を語る、そんな彼女に、僕は惚れていた。

 そして、僕も彼女に惚れてほしかった。

 故に、僕は彼女の読んだ本を辿り、彼女とその感想を共有し、また追い始める。僕も何かでその境地に至ろうと思った。



「然れど、君は絶望した訳だ。君は結局、その知識ですらも道具に変えてしまったのだからね」


 彼女が当番ではない曜日に、女性は図書室に現れた。そして、初対面の時に、あの言葉を言い放ったのだ。



 少し背の高い女性は、同年代とは思えない程に大人びていた。外界を知らぬ真っ白な肌と、黒い長髪。焦げ茶の瞳には僅かに緑が混じっている。その姿は、まるで精巧な人形のようだった。


「貴女は何なんですか」

「若者よ、本を読みたまえ。僕が言える事はそれだけだよ。此処に来て、たくさん本を読むんだ。本の頁を一枚一枚捲る喜びを知るのだよ」

「だから言ってるじゃないですか。僕は読書が好きなんです」

「それは……今、の話かね?」


 女性は緑の目を微かに細めて、僕の机に山積みになった本を見つめた。その憂いを帯びた笑みに、覚えず溜め息を落とす。


「何が言いたいんですか」

「今の君は本を愛してなどいないのだよ。その本の山は、ただの道具だ」

「そんなことはありません。これで本の内容を憶えれば、それで僕の知識となります」

「ほう。ならば君は、本は、自分の栄養分……とでも言いたいのかね?」


 頁を捲る手を止める。挑戦的に笑う女性は、このような刹那に無邪気さと、若さとを僕に見せ付けてくる。

 先程も述べたように、女性は非常に美しく、大人びているが、それと同時に心の芯に幼さを兼ね備えている。幼さ、と言うと語弊があるが、清さと言えば食い違わないだろう。


「貴女は本当に何なんですか。何でいつも僕に話しかけてくるんですか」

「若者よ。本を、文章を、知識を、楽しむのだよ。数多の人々が思いを馳せて捲った頁が醸し出すその歴史を、意思を読むのだよ。文章というものは、その為に、即ち僕達に分かりやすいように、敢えて論理的であるのだから」


 ははは、と女性らしさは無いが、可憐な白の花を思い出させる笑い声が聞こえた。微かな苛立ちを含めて振り向いた先には、大きく翻ったカーテンと、真昼の白い太陽光が差し込んでいるだけであった。



 テストも明け、生徒達は次の行事に向け現実逃避を続けて、勉学を優先する生徒は白い目で見られるようになった。僕も同じ箱の住人であり能無しの一人であるが、彼等は所詮他山の石だ。先輩のようになる、または、先輩に惚れてもらうには、本の山に埋もれるのが最適なのだ。

 現に、先輩は担当の日以外にも図書室を訪れ、趣味の本やら文芸書やらを読み漁り、生徒等の一致団結への行進の中で立ち止まって休んでいるかのように見える。

 それに比べて、僕は寧ろ意地を張って行進を逆走しているばかりで、先輩が目を留めてくれるような飄々とした人にはなれていない。

 図書室のクーラーで頭を冷やしながら、先輩が読破した本を次々と読み飛ばしていく。時折気に入った本は存在したが、殆どが読み終わった瞬間から登場人物を忘れていくような、印象の薄い物だった。歴史の書物に至っては、読んでいる途中で睡魔に襲われて手を止めてしまう。その度に、僕は自分を酷く醜く思うて狼狽した。

 どうして僕は先輩に惚れてもらえないのだろうか。こんなにも僕は先輩に追い付こうと心を削ってもがいているというのに。苛立つ心は更に頁を捲る速さを加速させる。



 ある日、先輩の隣には一人の男子生徒が座っていた。話題はどうやら十九世紀のイギリスについてのもののようだ。

 先輩は目を輝かせて男子生徒に、軍事兵器の話から経済の話へ、偉人の話へ、文化の話へと話題を花開かせて、男子生徒もそれに便乗してその話を様々な時代へと繋げていく。まるで、先輩の美しい花々を纏めて一つの花束にしているかのようだった。

 僕にはその話の大半が分からなかった。


「良かった、こんなに詳しい話ができたのは初めてなの」

「俺もだよ。世間には歴史好きったって教科書くらいの話しかできない人ばっかりでさ」


 心の中で積み上げてきた筈の本が崩れてしまった。先輩はとても幸福そうに笑う。僕はそれを、十数冊にもなる本の山を手にしながら、呆然と眺めていた。



「おや。若者、今日も読みに来たのかい?」

「いや、この本は返却するものです」

「どうだった? 面白かった?」

「いいえ。全部全部、少しも読んでません」


 ぶっきらぼうに置いた本の山に、女性は目を丸くして、その後口を尖らせた。その姿ですらも、年下のお茶目さのような色を孕む。僕はそんな女性に対して、無感情に答えた。


「本が可哀想じゃないか。本というものは読まれる為に生まれたのだよ?」

「もういいんです。僕はこんな本に興味はありません」

「また馬鹿の一つ覚えみたいに歴史の本ばかりだなぁ、君は歴史を好きじゃないのかい?」

「大好きです。でも、嫌いになりました」


 図書委員が帰ってくるまでは、本はカウンターに積まれたままとなる。その本を見ていると、気が付いた時には、女性は椅子に座っていて、経済学に纏わる本を読んでいた。

 女性が読書する様は、元来このような形であったことを思わせる。パズルのピースが噛み合った時のような、有りの侭の姿であるようだった。

 頁を捲る音が、そもそも人の来ない図書室の沈黙をかえって際立たせた。暫くそれが続いたかと思うと、女性は自分の細い指を栞にして本を閉じ、僕の方へと向いた。


「無理だよ。興味を持てないものからは知識など得られない。故に、好奇心とは宝石のように大切なのだろう?」

「もう一度言いますが、僕は歴史が好きです。でも、嫌いになったんです」

「若者よ。知識に限度など無い。君が比べているその彼女ですら、社会という大きな箱庭の中ではちっぽけなのだよ」

「何が言いたいんですか?」

「僕は彼女を見ていたよ。彼女はそれはそれは楽しそうに本を読んでいたさ。知識を身に付けようだなんて、硬いこと抜きでね」


 女性は嬉しそうに常磐色の目を細める。


「僕は本を楽しむ人が好きだ。彼女みたいな人は、あっという間に賢くなるだろうね。知の自覚無しに、さ」

「僕は無知の自覚をしてます」

「面白い対比じゃあないか。その分、君も賢いのだよ。それでいいじゃないか」

「良くないんです……それじゃ、あの人の気は引けません!」


 目を見開いて暫時無音を作ると、女性は小さく、そうか、と呟いて目を逸らした。

 畢竟、文学少女には無機物しか読解できず、僕の心など読み解けないのだ。それは先輩にも言える。たとえ本の気持ちを読み取れたとしても、僕がただの尊敬だけを動力に本を読んでいるのだと錯覚するであろう。

 口惜しさに、憎たらしく女性の名を呼ぼうとして、成せず。僕は女性の名前どころか、正体すら知らない。あ、と声を出したものの、言葉は付いて来ない。女性は横目で此方を見つめた。


「何かね?」

「貴女の名前は何ですか?」

「名乗る程のものじゃあないとも」

「でも、知らなきゃやりにくいです」

「ほう……? ならば、僕のことは『先生』と呼びたまえ」


 女性、改め、先生がそう言い終わると、丁度最終下校のチャイムが鳴り響いた。


「それと、僕の名前は『若者』じゃないです。マコトって名前があります」

「そうか。マコト、君はそろそろ帰る時間じゃあないかね? 僕はもう少し本を楽しんでいくよ」

「先生の特権ですね」


 皮肉の言葉を吐いた時には、先生の姿は無くなっていた。まるで、先生が夕日の光に融解してしまったかのようだった。



「あれ、今日は借りて行かないの?」

「はい」


 先輩は目を細めてニヤリと笑うと、俯く僕に、勉強しなきゃだからね、と優しく言葉をかけた。

 いじらしくて憎たらしい、このような無邪気な笑みを持っているのは、純粋無垢な先輩だからである。自分の好きな物に囲まれ、宝玉のような知識に囲まれた、心の歪みを知らない、否、歪みきったおかげで純粋さを増した先輩だからであるのだ。

 抑圧していた恋慕が再燃する。木陰で休んで本を読み耽っては、新たな色眼鏡を手に入れる先輩があまりに愛おしくて、考えることに苦しさを伴って、時間を浪費すると分かっていても、焦燥感で本を手に取ってしまいそうだった。

 行事を終えても先輩は変わらない。未来へ続く行列には並ばず、気が向いたら其方へ歩いて行く。疲れたら足を止めて木陰で休む。

 僕のように、全てが上の空で足が動かない人ではない。そもそも、彼女は書籍以上に愛するものは無い故に、僕のように恋慕に振り回されることも無い。


「あ、今日も来てくれたの?」

「君が読んだって言ってた本、どれだったっけ?」


 先輩の隣には今日も男子生徒が座っていた。先輩は嬉しそうに、弾けたように数多の世界について話を始める。

 先輩の持つ宝石の種類は知らずとも、僕が一番その価値を理解していることは自明であるのに。先輩が要しているのは、結局は種類に関する知識であり、それを身に付けた人物なのだ。

 芸術のセンスも文学のセンスも持ち得ない僕が先輩の気を惹く為には、聡明でなければならないのだ。

 僕は彼女以上に、彼女の分野で賢くなければ、どんなに努力せど、どんなに想えど、どんなに愛せど、愛してもらえないのだ!



 先輩が帰り、生徒も帰路に着き始めた午後三時、日が傾き始めて大きな影を作るようになった図書室に、先生が現れた。


「おや、マコトか。本は読まないんじゃないのかね?」

「調べ学習がありますから」

「結構、結構。学生は勉学に勤しむべきだとも」


 あまりに集中していた故に、先生が入室した音を聞き逃した。先生は日向に立って、僕が積んでいた本をスキャンするようにじっと見て、成程、と呟く。


「その分野の本ならば、彼方にもっと良い資料があった筈だ」

「このテーマで、ですか?」

「そうだとも、探してみたまえ」


 先生はくしゃっと美しい顔を幸福に歪める。この笑顔が、更に先生の現実離れした艶やかさを引き立てた。

 先生の期待の目を向けられて、僕は立ち上がらざるを得なかった。導かれるまま本棚の前に立てば、其処では調べているテーマについてのエッセイから評論文、絵本まで僕を待ち構えていた。それらの中でも目を惹いた本を手に取れば、僕は本に捕まえられていた。

 息を呑む。目は離れない。耳元では頁を捲る音が聞こえる。本の世界の音が聞こえる。次へ次へと指は動く。

 それらの音はやがて薄らぎ消えていき、そして、訪れる、無色で、無音の瞬間──

 目的も無く文章を読み解く僕に、本は独りでに知識を流し込んでいく。たとえ意識せずとも、たとえそれが哲学書でも、図鑑でも、僕は目を奪われて、頁を捲って、本の意識に左右されるのを楽しんでいた。

 数頁読んだところで鳴り響く、最終下校少し前のチャイム。僕が現実に引き戻された瞬間、ぱたん、と本を閉じる音がした。


「やぁ、本の世界はどうだった?」


 僕の背後で、先生は一冊の古い本を持っていた。目を細めて可憐に笑い、先生は白い指を僕の持つ本に這わせる。


「いいかね、マコト。本というものは、探す物ではない。出逢うものなのさ。

そして、人間が、一期一会、と人間同士の出会いを大切にする言葉を作ったように、本とも一期一会なのだよ。その結果生まれるのが、知識なのさ」

「何となく、分かりました」

「よろしい!」


 先生は夕日の差し込むカーテンの近くに寄って行き、其処に本を戻した。真珠のように白い肌は光に溶けてしまいそうで、まるで、先生は硝子の彫刻であるかのようだった。


「若者よ、本を楽しめ! 読書の際に知識を主目的とするでない。知識も大切だが、これは自ずと付いてくるおまけなのさ」

「僕も、実際に体感しました」

「そうだろう? だからこそ、本とは実に素晴らしい物なのだ!」


 風が吹いて膨らんだスカートとカーテンが、先生の黒髪を揺らした。その微笑みは、大人の女性のものというよりは、無邪気で幼いものへと変わる。知識が豊富で無垢な先生は、心の中に宝石を秘めた、僕の愛する先輩にも似ていた。

 ガラクタばかりのノスタルジックな玩具箱の中で、一際輝く宝物。それこそ、先輩に、先生に、ぴったりな姿だ。


「先生、また会いに来てもいいですか」

「いいとも……さぁ、下校時刻だ。生徒は帰りたまえ」

「ありがとうございます」


 僕が先輩以外を求めたのは久しいことだった。僕が欲しかったのは、金でも、名誉でも、成績でも、何でも無く、先輩ただ独りだった。然しながら、妙に確信めいた感覚に、僕は思わず先生を求めてしまった。

 それは、先生の肌が夕日に溶けるからか、僕が吹っ切れたからか、何故なのかは分からないけど、もう先生には会えない気がしたからだ。

 先生は一際大きい声で、風の中でもよく透き通る言葉を発した。


「乙女に幸あれ!」



「最近、本を借りるペースが早くなったよね」

「本を読むのが好きなので」

「何かいい本はあった?」


 先輩はまるで子どものようにはしゃいで、本の山に目を取られる。種類は多様で、文芸書だけの月並みなラインナップなどではない。

 僕が魅入られた本は階段となって、大きな箱の天井へと続いていく。先輩が少し上を徐に上っていくのが下から見える程には近付いてきた。

 先輩は某歴史好きな模倣生徒を横に携えてはいるが、後ろから襟を掴んで引き落としてやる機会は見えている。

 たとえ何人が、箱から抜け出すまであと一歩の先輩の後を追おうが、僕は自分の意思で、先輩の模倣などに成らずに、成せずに、箱から抜け出そうとするのだ。


「もう一冊借りようかなぁ」

「何の本を読むの?」

「そうですねぇ……」


 興味に瞳を浸した先輩を他所に、足取りは軽やかに、手招きする棚に一瞥。本が僕の名を呼んで、自らの世界で侵食せねばと手を伸ばす。後は僕がその手を掴むまでだ。


──おや、その本にするのかい? きっと本も喜ぶだろうよ。


 背後から白百合を思わせる美麗な声が鼓膜を震わせた。僕が手に取った赤いブックカバーに白い指を這わせて、幻想的に、否、実に、幻想らしく、風の囁きの如くに笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る