ロマンチックを教えて
【ロマンチック】とは
現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま。空想的。(デジタル大辞泉より)
◆
「あー、そういうのがロマンチックじゃないって言うんじゃないっすかねェ」
木村は、山本がマウスを握り締めて唸っているのを後ろから覗き込み、液晶画面を見ると皮肉っぽく笑った。へへっと笑ってから、山本はマウスから指を離し、皮肉屋の方をゆっくりと振り返る。
「一体、俺の何処がロマンチックじゃないって言うんだい?」
「山本先生はなァ。『ロマンチックじゃない』って言われて、真面目にペラペラ辞書捲ってる人考えてみてくださいよ。お世辞にも空想的とは言えないでしょ。
世の中、国語辞書を参考にした意味の通り動きゃいいってもんだけじゃあないっすね」
「はぁ、それを国語教諭に言うかぁ」
山本が乾いた笑みで皮肉を受けると、木村は山本の机にプリントの山を置いて苦笑する。
木村は山本の一年後輩、社会科の教員である。山本が穏やかでのんびり屋、且つミステリアスな雰囲気を醸し出している故に、木村は山本に興味を持ち、親しみを感じていたことを山本は知っている。山本がそれに嫌悪を感じることは無い。
「そうそう、うちのクラスの雲林院が先生の話ばっかりしてるんですよ。彼奴は先生のことロマンチックで面白い人とか言ってるから、先生が冷酷とか空想殺しとかそんな風には思えないよ」
「そっか。雲林院には感謝しといてください」
再び空元気で情けなく笑った山本は、自分の席に戻って行く木村を見送ってから、液晶画面に向かい合って突っ伏した。
◆
「貴方って、ちっともロマンチックじゃないわ。そういうところ、大嫌いなの」
一歳年上の彼女は黒い髪を弄りながら、ふわりと笑って冷たい言葉を吐き出した。山本と反対に非現実的な彼女には有りがちなこととはいえ、山本は黙って皿を見つめることしかできなかった。
髪を耳に掛け、自分が作った料理を口にする。山本もそれに習って釣られるように食事を始めるが、舌から喉へと滑り込む食材は空想的な長話の所為ですっかり冷めてしまっていた。
望美は詩人である。英語教諭でありながら国語教諭よりも言語学に精通した賢い人間だ。教師という役職には現実的な思想を持つ人が多い中、空想的で幻想的な世界に浸る才女に、山本は他人が呆れる程惚れていた。
「ほら、黙らないで? 私は貴方を嫌いと言った覚えは無いわ」
「望美はいつもそうじゃあないか。冷や冷やさせられるよ」
ふふふ、と望美は口に手を当てて曖昧に笑うと、食べ終えた皿を片付けて山本に背を向けた。すらりとしたスレンダーな身体つきが背筋を伸ばして立ち上がった故に、山本の目に映る。
数分の回想の後、山本は液晶画面から目線を下ろして机に突っ伏す。少し焼けた腕に巻かれた金時計の光の反射が目に入る度、頭が僅かに凍えるように思える。数日前の台詞がまだ、冷たい血栓となって頭に詰まっているかのようだった。
◆
相原は酒を注がれても曖昧に会釈するだけで、ぼんやりとしながら焼き鳥を食べていた。山本が話しかけても、宙を見つめてんー、んーと適当に返事している。相原の目蓋は半分閉じかかっているのだった。
「相原先生、酒飲んでも眠いの?」
「え……別に、そういう訳ではないけど」
「オーウェン先生とはどう?」
「エリアスと? 仲悪くはないけど……って、今日はお前の話をしに来たんだろ。何があったんだよ」
山本は此方を全く見ずに話しかけ、山本の分まで焼き鳥を平らげた相原は、ハンカチで口元を拭きながら山本の返答を待つ。山本は返答として、女みたいだな、と苦笑しながら、一杯酒を飲み干してから相原に言葉を零した。
美術教員の相原は、お金を貯めて海外で会った恋人に会いに行き、その先で告白したのだから、人々は相原をロマンチストと言うのはおかしくない。
果たしてそれが本当に合っているのか山本には分からないが、確かに相原は、山本からすれば、同い年でもロマンチックに「白馬の王子様」とでも呼びたくなるようにも思えた。
「望美はいつもそうなんだ。平気で俺に大嫌いとか言うんだよ? どう思うよ、ロマンチスト君」
「確かにお前には、ちょっとばかしロマンチックさが足りないよ。ロマンチックなんて本当の意味、知らないけどさ。お前なら、現実面を見てクルーザーで花火を見るクリスマスだなんて考えないと思う」
「それはお前のデートプランだろ?」
相原は一度黙って横目で山本を見やると、息を軽く吐き出し、山本の方を見て口を開いた。突然見つめられた山本は言葉に詰まり、見つめ合いながら相原の次の言葉を待つことしかできなかった。
「デートプラン、考えてるの?」
「えー、勤務が終わったら、レストランでも予約しようかな、と。えっと、次の日も勤務は続くから、あまり遅くまで飲んでられないなぁ」
「ナンセンスだ。仕事なんて二人で休んじまえ。教師魂ってヤツなの?」
ナンセンス、と嫌味ったらしく口角を上げた相原は、山本より一回りは細い腕でお手上げのポーズを取る。そのジェスチャーにもどこか欧米の要素を含ませ、そして机に肘をつき呆れの溜め息を落とした。
山本が言葉を待っていると、相原は不機嫌そうに徐に此方に向いて、山本の方を目を伏せて見やり、少し低い声で問う。
「反論とか無いの?」
「無い、です」
「デートプラン、一緒に考えてやるからさ」
「本当?」
「勿論。いいね、お金をかければいいってもんじゃあないんだよ」
アルコールの回った相原は得意気にロマンチックとは何ぞやと語っていく。それをメモを出して酔いどれのか細い字で聞き取る山本を目を見開いて見つめると、真面目だなァ、と相原は温かく笑った。
◆
数ヶ月前、望美が企画したデートにて山本は金時計を受け取った。まるで結婚指輪かのようなプレゼントに、金時計とデザートを同時に運んで来たウェイターから目を逸らして山本は頬を赤くする。その場面で、望美は夜に融けるような白銀の笑みを浮かべていたのを思い出していた。
その少し前、望美はまさにテーブルマナーそのものと言わんばかりの美しい所作で少し高価なローストビーフを食べていた。山本はワイングラスに口付けし、アルコールの強い液体を喉に滑らせる。
「貴方のところの、誰だったかしら、貴方を気にする生徒」
「あぁ、雲林院のこと?」
「よく考えると、貴方に恋してるんじゃない?」
「まさか。成績を稼ぎたいか、からかってるだけさ」
「……貴方って人は」
望美も山本に次いで一杯目の赤ワインを飲み干した。白く細い首の綺麗な曲線に見惚れていた山本を、望美は小さな吐息を零してから目を伏せた半月型の目でちらりと見つめる。山本は少し驚き、微かに肩を揺らした。
「貴方、そういうところが駄目なのよ。
知ってる? 女子高生はつまらない大人より遥かにロマンチストなの。だから、気が付いてやってもいいんじゃない?」
切れ長の目が山本を捉えて逃がさない。山本は少し逃げるように目線を逸らすと、誰に向けてなのかも分からない言い訳をボソボソと宙に吐く。
「教師たる者、生徒とはそういうふうに関わらないようにしたいものでね。それに、そういうことが起きるのはドラマとか、小説でだけだよ」
「まぁ、面白いわね。教師は原則生徒との恋愛なんて許されないけれど、それを知っていて女性の先生に惚気を覚えた学生時代の男友達を馬鹿にするの?」
面白い、というその言葉に含まれたのは、興味などではなく嘲笑に似た軽蔑であった。フォークを白い指でなぞりながら、望美は口に手を覆って愛らしく笑う。山本は眉を下げ、肩を竦めて小さく呟くだけに追い込まれた。
「そういうわけでは、ないけどさ」
望美は満足げに微笑むと、静かにフォークを置いてウェイターを呼びつけた。そして、金時計のプレゼントに至ったのを、山本は覚えている。
「私は貴方みたいな人、嫌いじゃないわ。私が生徒なら惚れてしまうかもしれないのよ?」
今度は反対に、喜びをたたえる半月の目で、望美は女神が取り憑いたかのような美しい笑みを見せた。山本は思わず言葉を飲み込み、目を丸くして金時計に視線を落とす。
既に付き合い始めてだいぶ経っているが、山本にとって再度の告白は心を強く打つ、改めて惚れ直す瞬間となる。煌めく黒真珠の瞳が、山本の心を舐めるように捉えた。
◆
クリスマスイブには、山本が勤務する高等学校では大抵の教員がサンタクロースとなる。教卓にプリントの山を置くと、生徒達は嘆き文句を上げる。そして、山本は次なる人の元へソリを進めるのであった。
数年前に買った安っぽい中古車がソリの役目を果たし、仕事終わりの望美を捕まえるに至った。望美は口元を手で隠し、ふふふ、と笑いながら助手席に乗り込むと、薔薇の香りを漂わせて髪を掻き分け、山本に半月の瞳をちらりと向ける。
「今日は何処に連れてってくれるの?」
「とてもいいところ、のつもりだよ」
「今日も金時計、付けてくれたのね」
「毎日付けてるよ。生徒達に騒ぎ立てられて困るくらいさ」
山本の少し焼けた細い腕に付けられた金時計を見て、望美は薄桃色の唇を喜びの形にしてみせる。そして、車が走り出すと、望美は、酔っちゃうからごめんね、と窓の外を眺め始めた。
山本が向かう先は、恋人の集う大きなクリスマスツリーが有名な、イルミネーションが実施された公園であった。終了時間間際になると人が減るのだと相原が言ったのを聞き、夜遅くに車を走らせていく。
「此処は裕太の地元よね」
「そうだよ。こんな夜遅くに此処を走ったのは久しぶりかな」
「適度に都会で、適度に田舎で、この雰囲気って落ち着くわね」
「どうかな。うちの学校周辺よりは田舎なんじゃない?」
光るネオンとショウウインドウの前で、恋人達が両手には紙袋を持って、または、その手を繋いで歩いている。近くには住宅街と高い丘が位置しているとはいえ、駅や公園に近づくに連れて街並みは真昼のように明るくなっていた。
◆
車を走らせて数十分、山本が丘を眺めていた赤信号、望美があっ、と声を上げたその時であった。二人が乗った車の前で、勢い良く走ってきた車が赤信号を置いてけぼりにして走り去ろうとしていた、その数秒後には二人の隣の車にぶつかり、鉄の塊と成り果てた。地震でもあったかのような揺れと衝撃は二人にも届く。
「事故? 私達の車は?」
「うん、ちょっと見てくるよ」
そして、隣で聞こえた悲鳴に外に出た山本は、自分の車にも損傷が出ていることに気が付くこととなった。山本は大きく溜め息を吐くと、寄ってきた警察の人々を見て自分も悲鳴を上げたくなった。
それから数時間、既に公園は閉園し、真夜中に月は輝く。運ばれる車と近くで聞こえる踏切の音を聞き、望美は重く黒い吐息を漏らす。冬空は冷えて、黒の吐息も白くなって消えていった。
「ごめん、望美」
「謝らないで? 貴方は悪くないわ……明日また何処かに出かけましょう? 幸い、駅も近いし」
「……でも」
「もう十二時よ? 貴方は明日も部活があるでしょう?」
天を仰ぐ山本の目に、夜になって暗さを増し、目の前に立ちはだかる丘が映った。駅の方には月より光る街並みが広がる。山本は大きく目を見開いた。
望美が歩き出した瞬間、山本はその腕を優しく掴み、暗い夜道をスマートフォンのライトで照らして登って行く。望美は華奢な足を懸命に動かして登って行くが、その顔は合点がいってないように見られた。山本は口を開かない。
限りある漆黒に、浮かぶ金時計の光。山本の芯のある細い腕は、丘の上の星空を指しているようにも、その先の黒を指しているようにも見える。望美が眉を下げて山本の名を小さな声で呼んだ時、丘の頂点は足元にあった。
「裕太」
「見て、望美」
山本が本当に指差した其処は、夜の訪れない街だった。煌めく夜景は、公園で見るイルミネーションよりも整ってなどいないが、確かに呆れる程騒々しい街はその一瞬、見惚れる程に美しく、二人の目には映った。まるで、深夜の黒にダイヤモンドを撒き散らしたようであった。
「ごめんね、望美」
「ううん、だって貴方はとっても素敵なものを見せてくれたんだもの」
望美は黒真珠の目に光を反射して、銀河のように煌めかせていた。
◆
「へー、山本先生にしてはロマンチックな展開じゃないの」
「木村先生は俺をからかってるの?」
「いや、感心しただけっすよ」
「そういうところがからかわれてるように思うんだって」
木村は目を細めニヤリと笑い、疲れを嘆き机に突っ伏す山本を見やった。山本は視線に気が付くと、眉を下げて弱々しく微笑み返す。
「で、車の具合は?」
「傷を直したら、直ぐ走れますよ」
「修理なんてしたらその、お洒落な時計を売り払わないといけなくなるところだったっすよねェ」
黒いスーツの袖からちらりと覗くゴールドの時計を見て、木村は指を差した。山本の少し焼けた腕に付けられた金時計は、憂鬱な昼下がりをくっきりとした光で反射する。芯のある細い指がそれをなぞってから、宙にぶらんと投げ出された。
「機転が効いて良かったよ。俺は本当に幸運な男ですね」
「そして彼女さんの気も引けた。最高な終わり方じゃないですか」
「君にも素敵な恋人が居たらいいのにね」
「悪かったなァ」
木村は手に持った書類に目を泳がせ、微かに微笑みを浮かべて山本の言葉を待つ。大きく溜め息を吐いた山本は、その後すぐに口を開く。
「木村先生の励ましは大きいよ。ありがとうございます」
「いや、励ましてはないっすね」
「いずれにせよ、ありがとう」
いえいえ、と謙遜した木村は、他の教員に呼ばれて席を立つ。それを軽く手を振って見送った後、山本は椅子を半回転し、自分を映すディスプレイへと向き返った。
一人になった山本は、ディスプレイと金時計とを交互に見た後、額に手を当て肘をつき、熱のこもった吐息をデスクに零した。顔がかあっと熱くなるのを感じる。そして、大人のだらしない笑みを正してから、現実へと身を投じていった。
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