三十四日目

「緊急事態宣言、解除……」

 ゲームに明け暮れていたはずの牡丹がそう呟けば、五人もテレビを凝視した。

 私たちはもう長らくワイドショーを見ていない。土日の昼間はゲームをしているし、平日の昼間は授業に出ている。あの頭の沸いたコメンテーターが話すのにも、SNS上で好き勝手騒ぐ馬鹿を見ているのも嫌になって、情報から自らを隔離していた。

 感染者が減ってきていること、他の県は既に解除されていることは知っている。それくらいには首都圏ですら感染者数が減っていた、ということだ。

「リアリティに欠けますねェ」

 牡丹はそう言ってコントローラーを放り出す。

 自粛期間中、ほとんど毎日使っていたコントローラーは、もう反応が悪くなってしまっている。彼は毎日一時間はゲームをしていたのだから、少なくとも三十四時間はコントローラーを触っていたのだろう。

 山になっていたトイレットペーパーとティッシュペーパーも、だいぶ減ってきた。布マスクの出番ももう少なくなっている。薊はついに使い捨てマスクを普通に捨てられるようになったことを喜んでいた。

「よりによって、明日とはなァ。ボクの給料も入るし、なんだか狙ったかのようだ」

 薊はそう言って頬杖をつき、切なそうに微笑む。

 緊急事態宣言が解除されれば、カラオケも、ゲームセンターも、ショッピングモールも、徐々に開店するだろう。勤め先のレストランも、そろそろアルバイトをシフトに入れることもできるだろう。

「そういえば、今週は精神科に行くつもりだって言ってたね。明日解除なら、それもまたちょうど良い」

 蜜柑は日記を書いていた手を止めて、顔を上げた。

 そろそろ薬が切れてしまう。自立支援制度の使える病院までは往復で二時間かかるから、できるだけ避けていたところだ。そこに出かけようと決心づくくらいには、外の世界には感染者が見受けられなくなっていた。

「近所の居酒屋も空くんだろうなー。また夜中は煩くなるね」

 竜胆は口を尖らせてそう言う。

 禁酒生活を始めた私たちには関係無いことだが、飲食店が営業を再開させるというのはそういうことだ。私たちが居酒屋に行くことなんて、早々無いだろうけど。

「むろん、外出時はマスクとアルコール消毒は必須ですよ。夏場なのに、人々はまるで冬場みたいにマスクをして出歩くんですねぇ」

 雛芥子が皿を洗い終えて、手を拭きながら笑った。

 今も品薄なのは紙マスクよりゲームソフトだ。布マスクをして出歩く生活にも慣れてきた。結局届かなかった政府からのマスクをする機会も無く、新しい生活が始まる。

 そういえば、薊の通う塾でも対面授業を一部再開するそうだ。それもまた、緊急事態宣言の終息ゆえだろう。

 最初にこうやって日記を書き始めた頃を思い出す。治療薬もワクチンも希望も無かった外の世界は、まさにバイオハザード。誰がクラスターかも分からないゆえ、外に出るのを躊躇い、自らを無症状感染者として自己収容を始めた。

 次に行った収容は、SNS離れ。紙マスクの需要が高まり、紙の需要が高まり、タイムラインはデマに騙される馬鹿とその馬鹿を揶揄う馬鹿で埋め尽くされた。そんな場所にいたら、私たちまで狂ってしまう。だから、私たちは今の今まで、SNSにあまり触れないようにしている。

 後者について、我々は一定の成果を見ている。数字と馴れ合いで評価されていた世界から抜け出して、数字に囚われない世界で文字を綴り続けている。それはとても満たされていた。

 収容中は、体の衰えを防ぐために筋トレを習慣づけることにした。今では全員が自主的に筋トレをしている。増えすぎた体重は徐々にだが減ってきている。私だって、腕立て伏せが少しできるようになった。

「長かったわね」

 私は思わずそう呟いてしまう。嗚呼、だって、長かった。あまりにも長かった。人間関係を極限まで絶った私たちの人格が、カウンセラーから「安定している」と評価されるくらいには、長かった。

 他人の顔色を伺い、世間の言葉に耳を傾け、数字に囚われ、長い長い通学時間をかけていた日々がはるか昔にさえ感じる。 六人だけで引きこもって、白い壁と木のフローリングで出来た牢獄の囚人になって、好き勝手過ごした。

 五人もまた、長かったね、と言った。長かったとも。三月からずっとこんな生活を続けている。世界から隔絶された箱庭で生きていた。

「今でも寂しい?」

 蜜柑が穏やかな声で尋ねる。竜胆はにっこりと笑って首を振った。薊は鼻で笑って足を組み直した。雛芥子は牡丹の肩に手を置いて、牡丹はケラケラと笑い声を上げる。

「寂しかァないですよ。要らなくて重たい関係と感情を切り落とした。この囚人生活で、自らと向き合ったんじゃないですか、僕らは」

「ダリアのくせに良いこと言うじゃーん。あたしもそう思う、夜食も治ったし!」

「そういえばそうでしたね、夜食を摂らなくなっていますね?」

 言われてみればそうだ、竜胆が夜中に空腹を訴えてリビングに降りていくことが少なくなった。あれもきっと、私たちが何かに飢えていたからで、今はその「何か」が満たされているのだ。

「成長したのね、私たち」

 ……私たちは日々、死にたいと願っていた。

 間違えているから。

 愛されないから。

 許されないから。

 寂しいから。

 失敗したから。

 嫌われたから。

 六人の囚人生活には、正解なんてものは存在しないし、常識なんてものも存在しなかった。六人は互いを愛し合っていた。互いを許し合っていた。欲しいものは手に入れたし、失敗した人は全員で支えた。そして誰一人、誰かを嫌いはしなかった。

 私たちは、私たち自身を愛していた。外界から自らを隔離した私たちは、ほの暗い夜を、互いが共した蝋燭で耐えてきた。

「成長したよ、アタシたちは。アタシたちのために生きてるよ、今は」

「家とは自分の精神世界に近しいのかもしれないね。だから、家に篭り続けたこの日々は、自らと向き合い続ける日々だった、と言えない?」

「あ、出たよアザミのカッコつけ発言」

 せっかく薊が綺麗にまとめてくれたのに、竜胆の一言で台無しである。

 最初こそ不安になって物を買い溜めていたから、キッチンは物だらけだったのだけど、今はそちらはすっからかんで、むしろリビングに物が増えている。新しく買った筋トレ器具、引っ張り出したレトロゲー、メイク道具。最初より部屋が汚くて、それがまた、居心地が良い。

 気がつけば、私たちは毎日ここで過ごしていたし、この部屋が好きになっていた。昔は自室に篭りっぱなしだったのに、今ではリビングで課題をやったり、作業をやったり、音楽を聴いたり──まさに、プライベートの場が変わった。

 外に出ることも増えた。何が欲しいとか、何をやりたいとか、そういう欲求も湧くようになった。だから、これで良いのだけれど──

「なんだか、切ないですね。もうこんな生活、終わってしまうんですかね」

「実はアタシもそうなんだ。こうやって、少ないシフトのためにだけ外出をして、人と関わらなくて良くて……世界と隔絶できて。そんな生活が続いてほしいと、どこかで願ってたのかもね」

「ボクらは、世界が滅ぶことを望んでたんだよ。そうだろう?」

 薊に言われて、五人は押し黙る。彼女は悪どく笑うと、やっぱりな、と続けた。

 そうだ、認めよう。私たちはずっとずっと、このまま世界が不幸に包まれて、自分の不幸を上回ってしまえば良いと思っていた。何もかも消えてしまえばいいと願っていた。

 私たちを罵り、貶め、苦しめた世界に、ありったけの不幸を。

 桜は散って、まだ沈まぬ太陽が外の世界を蒸し暑くしている。窓を開ければ焼けるコンクリートの臭いがしてくるのだろう。体感温度が人並みになった私たちは今、ちゃんと半袖で過ごしている。

 そんな味気無い世界は、私たちの願いなどつゆ知らず、今日も呑気に夏日だ。当たり前のように春が終わって、夏がやってきた。世界は終わらなかった。

 世界は今も、大きな口を開けて私たちを待っている。気味の悪い顔をした化け物たちが跋扈して、じろじろと大きな目で見つめてくるのだろう。

「じゃあ、どうして不幸を願わなくなったんだろうね」

 竜胆が首を傾げる。きっと彼女だって分かっているだろうに。私は胸を張って、その質問に答えよう。

「生きていけるから、よ。私たちなら、生きていけるから」

「そうですよ? 僕たちなら、新しい生活でも生きていける。何事も、六人で乗り越えていけるからです。どんな壁も突き壊せるからです」

「センパイかっこいいー。まぁ、いざとなったらアザミが威圧して回ってくれますよ」

「テメェ……まぁ、なんだ、何があっても、ボクらはボクらで話し合おう。敵にならないよ、ボクらは」

 薊はしみじみとそう語った。悪い笑みは解け、緩く優しい顔になる。まるで薊の花が咲いたよう。

 人と離れること、家に引きこもること、そんなことを経験して、あなたはどう変わっただろうか。できることが増えた? やらないことが増えた? 何も変わらなかった?

 人生に一度あるか無いか分からない試練を課されても、私たち六人はこうして笑顔で机を囲んでいる。今日もオレンジジュースで乾杯だ。明日の休業補償祝いは終わらない。

「自己収容、して良かったね」

 薊の柔らかい声に、私は鼻につんとくる感覚を覚えた。蜜柑は泣きそうな顔で薊の頭を撫でる。雛芥子も牡丹の肩に手を回して、竜胆はそんな牡丹に寄り掛かって。

 孤独と承認欲求と閉塞感との戦いに、我々は勝利した。白い箱の中で生ききった。その結果、六人で心中する未来を回避できた。

 これからもきっと、精神的自己収容は続く。人とは繋がらないだろうし、数字には囚われないだろうし、必要最低限の人々と生きていくのだろう。

 改めて言おう、さらば、我々を悩ませた【解読不能】よ。たくさんの被害者よ。たくさんの加害者よ。我々はこれからも、あなた方と関わることは無いだろう。

 布マスクと消毒を忘れずに、私たちは明日から、新たな日常を始めよう。滅びかけた廃墟みたいな世界を歩こう。外の世界を恐れる必要なんて、しばらくは無いのだから。

 大丈夫、六人で握った手は、こんなにも温かい。

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