三十三日目
「さーて、今日も呑むぞ!」
声を上げるのは牡丹。六人の手に握られているのは、オレンジジュースの入ったコップ。手を掲げて、声を上げて、乾杯!
オレンジジュースが大好物な六人は、リビングで机を囲んで、ほっぺたが落ちそうなほど幸せな顔をする。
さて、どうしてオレンジジュースで乾杯をしているかというと、全て僕のせいである。二日酔いならぬ三日酔いを経験し、二日も部屋で寝込んでいた僕に突きつけられたのは、禁酒宣告。
コストパフォーマンスも良いから、という理由で、蜜柑が二リットルのオレンジジュースを買ってきたことから、この呑み会は始まっている。
薊は働きづくめ、蜜柑は執筆づくめ、僕は友人関係づくめ。各々疲労が溜まれば、羽目を外したくもなる。外界から隔絶されたこの白い箱の中で羽目を外す分には誰も怒りはしないだろう。怒ってくれる他人は、もう無自覚感染者として理性を失っているだろうから。
「やっぱオレンジジュースって美味しいよね!」
「六人のソウルドリンクと言ったところかね。中学生から四十のおじさままで、皆大好きオレンジジュースって感じ」
竜胆と薊が顔を見合わせて微笑む。酒を呑めないもしくは呑まない二人も、他の飲酒組と同じテンションでいられるのがこの呑み会の良いところだろう。
いったい何を契機として呑み会が始まったのか。なんと、薊の職場から休業補償が出るらしい。財布の中身が残り二千五百円の──一万円の収入の八割は全て課金とメイク道具に消えた──我々にとって、たったの六割でも死活問題である。なお、そこから一万五千円はとある契約に消えてしまうのだが。
各員、給料が入ったら何をしたいか、などと語り合う会を開こう、という蜜柑の計画だった。
「はいはーい。まずはずっと欲しかったジョブを交換するために三千円課金します。それから、定期更新代の四百円足す六百円足す五百円」
「少なくとも五千円近くは消える算段になるんですけど?」
「あー、アタシはベースを始めたいのと、買いたいCDがあるから、たぶん四千円近くは使いたいんだよね」
「待て待て、アンタの後輩との座談会はどうすんだよ。少なくとも二万はかかると見てくだらんぞ」
「そもそも、製本代を出したいって話だったわね? それと、無くしてしまった人形をオークションで買いたいとか言っていたじゃない? 私もネイルチップが欲しいわ」
「あたしは買えてない漫画が欲しいなー。七百円だっけ?」
「ボクだって十八金のピアスが欲しい。最近耳が膿んで辛いんだよ……あと、ヒナゲシの誕生日プレゼントも買えてないから、買いに行きたい」
「それと、友人とゲームしたいから、少なくとも一万円は用意してほしいんだよね。あ、でも後ほど三分の二くらい返ってくるから安心して」
会議は踊る、されど進まず。僕は大きな溜め息を吐くと、ウィッシュリストを纏めようとリマインダーを起動した。
契約更新に一万五千円。課金に五千円。音楽に四千円。人形に六千円。漫画に七百円。ゲームに一万円。ピアスに三千円。何かは分からないけど、僕の誕生日プレゼントは三千円以内にしてほしい。
計三万五千円程度である。ちなみに、薊の給与はおそらく五万弱になるだろう。もちろん、僕が何を言いたいかというと──
「どう考えても全部は無理です。残金を推敲の代金にしようとしても、二万八千円程度しか残りませんよ。どうやって製本するんですか?」
我々はお金を無駄遣いすることにはこと長けている。貰ったお金は十日で消える。欲しい物はなんとしてでも手に入れる。そんなことをしてしまうから、いつも金欠だ金欠だと嘆く羽目になる。
これがステイホーム生活、言い換えれば巣篭もり生活ではなおさらだ。世の中には一年懸賞だけで生きていた人間はいるというが、我々はそんな賢人にはなれない。家にいて暇ができればこそ、やりたいことも欲しい物も増えていく。
改めて欲しい物に優先順位をつけていくこととしよう。まずは最も物を欲しがるバイヤー・牡丹へ話を振る。
「ダリアが欲しい物は何でしたっけ?」
「欲しかったジョブの交換のために三千円、ゲームの月額会員のために千五百円必要です。あ、あとなんか三千円くらいで十連が引けるらしいので、二千円くらい?」
「ちょっと? 額を増やしましたね? 何でですか?」
「だ、だってぇ……センパイにそっくりなキャラが課金しろって言うんです! 僕の推しなんですよ! いや、確定で出るわけじゃないんですけど、安くガチャが回せて……あの、色気たっぷりで性格の悪いイケメン眼鏡キャラで、そうそう、唇にほくろもあるんです、そのくせ泣くと可愛くてですね、とても高校生とは思えなくて──」
一行は呆れて肩を落とす。牡丹のオタクっぷりは筋金入りだ。彼は男女問わず推しができるので、何のゲームをやってもこんな譫言をほざくのだ。それにしても、僕にそっくりなキャラクターにハマるとは、牡丹も物好きである。
とりあえず優先順位を下げて書いていると、待ってくださいよぅ、と牡丹が情けなく声を上げた。
「少なくとも最初の三千円は給料日に締め切りが来るんですー! ですから、そればっかりは買います! 絶対買います!」
「どうせ全部買うつもりなんでしょう、分かってますよ。その有償で安くガチャが回せるやつも、どうせキャンペーンとかなんでしょう」
「よく分かってるじゃないですかァ、そのとおりですよ」
「はいはい。そうしたら、次の方」
もちろん、次の方とは蜜柑のことだ。不服そうな顔をしつつ、紙に自分の欲しい物を書いていく。
蜜柑の欲しい物はCDだ。彼女によれば、まだストリーミング配信がなされていないらしい。それに加え、ベースの練習のために音源を買いたいらしい。
彼女の欲しい物が優先順位が低い、とは言いたくはないのだが、そこには重大な問題があった。
「つーかミカン、最近ベース弄ってなくない? ボクもだけど」
「う……そうね、小説ばっかり書いてるから……」
薊の発言に、蜜柑は気まずそうな顔をした。そのとおりで、自己収容生活を始めて以来、蜜柑は小説一辺倒だった。薊もベーシストではあるが、主にベースを触るのは蜜柑だろう。
薊は鼻を鳴らして嘲笑うと、にやりと悪い顔をする。
「ま、後輩への給料以外は後回しでいいだろうな」
「そう言うアザミは何か欲しくないの?」
「あー……? だから、ヒナゲシに誕生日プレゼントをだな。だが、まぁ、ヒナゲシが待っててくれるなら別に急ぎでも何でもない」
僕の誕生日は三月十四日、ホワイトデーだ。ちょうどその頃、感染者数が急増し始めたはずだ。確かに誕生日プレゼントの一つも貰えなかったが、よくもまぁ僕なんかにプレゼントを買おうとするもんだ。優先順位は下げておこう。
次に発言したのは秋桜だ。秋桜に話をすると、彼女はまるで自分は何も悪くないかのような──タチが悪い──顔で計算を始めた。
「ネイルチップと無くしてしまったぬいぐるみね。ぬいぐるみは常に足りないから早めに買ってしまいたいわ」
ネイルチップはどう考えても優先順位は下だろうが、無くしてしまったぬいぐるみときた。確かにアレは、友人同士で買ったにもかかわらず、つい最近の引っ越しで無くなったと大騒ぎしていたが、優先順位は高いだろうか?
竜胆がすかさずインターネットで調べ上げる。あった、と言うと、オークションの画像を見せてきた。
「四千円くらいだって。給料日って明後日だよね? 保つかなぁ?」
「優先順位は高めのはずよ。無くした物は責任持って手に入れないと」
「コスモスまでそんなことを……もう、分かりましたよ。ですが、ネイルチップは後回しですからね」
働くのは僕と薊なのだから、誇らしげに言わないでほしい。とはいえ、給料が入ったらすぐに買うリストには入れておくことにする。
最後は竜胆だ。竜胆は顎に人差し指を当て、えーっと、と呟く。
「あたしが欲しいのは漫画だよ。でもまぁ、今度で良いかな」
「素晴らしい。じゃあ優先順位は下げ目で」
「ちょっと待った、ゲーム欲しいから一万用意しろって言ったの誰だっけ?」
僕と竜胆でカタがついたところに、薊が声を上げる。僕と薊以外は一斉に蜜柑を指差した。まったく、自分は常識人ですと言わんばかりの顔をしておきながら、牡丹並に物を求めてくるのはどうにかしてほしい。
蜜柑は口を尖らせ、だって、と不満げに言った。
「アタシは常にエンターテイナーだから。皆が遊びたいって言ってるゲームを買って用意して家に呼びたいんだよ」
「ミカンってホントお人好しなんだから。お金なんて有耶無耶にされたらどうするの?」
「とにかく、ゲームは買っておかないといつまで経っても実現しないよ。だから買う。優先順位は低くても良いから」
秋桜が呆れて首を振る一方、蜜柑は一番下の方に自分の欲しい物を書いた。即時要求されている物ではないからだろう。
欲しい物はあらかた揃った。それでもまだ、製本代だとか、美容品の維持費だとか、そういうものは考えていないし、蜜柑の後輩への給料も考えていない。
十万円の支給金が来たとき、製本と給料を捻出しよう、さらにはそこからフィットネスゲームを買おう、なんて言っていた日が、今では懐かしいくらいに遠い。五月が終われば手続きが始まるし、明後日には給料が入る。
世間は日々、出口政策だのなんだのを取り上げては大騒ぎしている。後世の人々に、感染者数などの指標をレインボーブリッジを点灯させて知らせるなんて言ったら馬鹿にされるだろう。
世界は今、パンデミックが一度「終わる」と信じている。その先に未来があると思っている。我々の白く小さな宇宙船での旅も、そろそろ終わろうとしている。
こうやって日記を書き始めた最初期のこと、我々は世界が滅んでくれるものだと勘違いしていた。思っている以上に世界は感染者だらけで、我々は自らを収容して生きているのだ、と。
「まぁ、しかし、好きな物が買えるようになっただけマシですね」
僕はついそう呟いてしまう。別に欲しかった物が買えなかったわけでもない。したかったことができなかったわけでもない。ただ、金というものは人を自由にするな、と思わされてしまう。
書き連ねられた欲望の数々が、我々が自己収容の果ても生きようとしていることの証明になる。きっと六人なら、十万円ぽっちすぐに使い果たしてしまうのだろう。
白いノートに書かれた品々を眺め、秋桜は静かに、そうね、と答えた。妙に感慨の込められた優しい声だった。
「お金が入ってくるのが楽しみね」
「あんまり期待するなよなァ。しょせん休業補償、大した額にはならねぇぞ」
「まぁまぁ。額が少なかったときはそのときです。諦めをつける覚悟をしておいてくださいよ」
欲しい物がある五人には申し訳無いけれど、お金は限られているから仕方が無い。貰った十万円を好きな物に使える上流階級扱いな国民である自分たちを誇りに思って、潔く諦めてもらおう。ただの大学生らの戯言だが。
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