三十一日目

 これは、ある酔っ払いが遭遇した悲劇である──

 神楽坂一家一番の大酒呑みといえば牡丹……であるが、その次は雛芥子である。二人ともあまり酒に強くないのだが──実は神楽坂一家そのものが酒に強くない──それを理解できず深夜テンションで馬鹿みたいに酒を呑む奴がいた。

 午前三時のこと。呑み会を終えた蜜柑が見たのは、顔を真っ青にして座り込んでいた雛芥子だった。

「気持ち悪い……」

 部屋はきんきんに冷えていた。机の上に置かれていたのは、飲みかけたアルコール度数六パーセントのサングリア。

 蜜柑は唖然として立ち尽くしたという。なにせ彼女は六人の体調管理役だからだ。今にも吐きそうな顔をした彼に近づいて、大丈夫か、と声をかけたそうな。

「吐きたくない……」

「生理現象だから無理しなくても……」

「考えただけで吐きそう」

「じゃあ考えなくていいから……」

 二言目は、寒い、だった。きんきんに冷えた、と描写したが、弱除湿がついていたらしい。顔は火照っていたのに、雛芥子は奥歯をがたがた震わせていたんだそうな。

 雛芥子には持病がある──病的な寒がりだ。それは鬱病に付随した自律神経系の失調ゆえでもある。筋肉のついた健全な体をしているようで、神経症として寒がりを持っているもので、夏場だというのに長袖長ズボン、しかもさらに上着まで着込んでいたそうな。

 蜜柑はすぐに乱れたベッドの上に脱ぎ捨てられたもこもこのルームソックスを履かせた。それから冬用の大判ストールと毛布を被せたそう。雛芥子はそれでも、寒い、と言って聞かなかった。

 酔いの回った丑満時、二人の頭は全く働いていない。本来ここで熱を測るべきだった。ここで熱があることに気がつければ、即座に鎮痛剤や解熱剤を飲ませてやったはずだが……

 落ち着いてくると、雛芥子は座ったまま布団を被って、暖房をつけて、頭痛い、気持ち悪い、だけを言うロボットと化した。蜜柑は汚い部屋の中から──必死だったのだろう、脱ぎ捨てた半袖半ズボンやボクの仕事着で床の踏みどころも無かった──病院で貰った胃薬と頭痛薬を見つけた。

 自己収容生活を始めてから、我々は病院に行けていない。病院は潜在的感染者の巣窟である。精神科の安定剤こそ処方箋が送られてきたが、この胃薬と頭痛薬のセットを処方する病院にはさすがに問い合わせができていない。なけなしの──おそらくそのための薬ではなかった──薬をぬるま湯で飲ませたそう。

 午前四時。普段ならば安定剤と睡眠薬を飲んで寝ている時間だが、酔っている二人には当てはまらない。

 一般的にアルコールと抗うつ剤の組み合わせは非常に危険だ。副作用が増強される可能性があるからだ。なお、こういう選択的セロトニン再取り込み阻害薬というのは、副作用として目眩や吐き気、抑うつを伴う。まさに焼け石に水。

 頭痛と吐き気で眠れない雛芥子の傍ら、蜜柑はノートパソコンを開いていた──午前四時に、である。さて、何を書き始めたのか。その結果は翌日の朝にボクらが知ることとなる。

 彼らが就寝したのは、午前五時前のことだった。そして目を覚ましたのは、午前九時のこと。

 午前九時? 四時間しか寝てないじゃん、と牡丹に言われていた。仕方あるまい、アルコールは人間の眠りを浅くする効果がある。だがこれが致命傷となった。

 アルコールと睡眠不足が重なると、それはまぁ悲惨なことになる。雛芥子の顔色は良くならなかった。それどころか、こんなことまで言い出したのである。

「味がしない……」

 ちなみに、現在下界で流行っている感染症には、味覚障害の症状があるらしい。神楽坂一家に衝撃が走った。このあと、雛芥子は夜までヨーグルト一つで凌ぐこととなる。

 午後十二時。一旦吐き気が収まってきたのか、部屋に見舞いに来た──まるで入院生活である、病院食を用意すべきだった──ボクたちと話せるようになった。

 朝から飲んでいた頭痛薬と胃薬が効いたらしく、多少はマシになったという。しかし、この時点で発熱の症状が伺えた──なお、まだ熱は測っていない。

 ボクが興味本位で雛芥子の下目蓋を引っ張ったところ、見事に真っ白。土色の顔からは、貧血の症状が容易に想像できた。

「僕ですらここまで酷い二日酔いになったこと無いんですけど。寒気に発熱とか、センパイ、どんな業を積んだらそうなれるんです?」

「喧しい……」

 二日酔いで発熱というのは、無くはないらしい。特に、精神的に不安定だったり、疲労を溜めていたりすると、免疫が落ちてしまいこうなるのだとか。

 ただ、まぁ、可哀想ではある。雛芥子の一番苦手な悪寒に振り回され、延々と頭痛と吐き気に苛まれている様はあまりにも惨たらしい。

 ときに、少し前の午前十一時のこと、蜜柑が夜中にノートパソコンを開いていた産物が発覚した。

 二日酔いレポ。

 ボクは思わず蜜柑の肩をはっ叩いた。だから彼の病状はあまりにも惨たらしいっつってんだろうが。

「だって、ここまで酷くなるのって面白いべよ……自戒にもなるし」

 此奴はきっと、今流行っている感染症に罹っていたとしても、殺人的な頭痛と咳に苛まれながらノートパソコンにしがみついているのだろう。阿保か。芸術家か。

 時は戻り、午後二時。雛芥子が再び眠りに就いた。さすがに寝ないのは良くないと、蜜柑が促したのだった。朝からスマートフォンのゲームしかしてなかった彼は、スマートフォンを片手に寝落ちしていたそう。

 昨日呑み会だった蜜柑は元気に小説を書いている最中、午後四時、雛芥子が起床する。リビングに降りてきて、なんとなく体温計に手を伸ばした。体温は三十七度五分。微熱である。

 再び神楽坂一家に激震が走る。まさか本当に感染症か、と牡丹が囃し立てた。雛芥子はそれに答えず、もう十二時間経ったのに、今度は暑い、と譫言のように言った。

 その「暑い」は長続きしない。午後五時以降、雛芥子は再び部屋に篭ることになる。寒気の到来だ。そうしてまた昼寝を繰り返し、およそ五時間眠っていた。

 起きてきた彼は、一家で食べていたピザトーストに手をつける。竜胆は景気良く何切れも食べていて、酒が回った牡丹は陽気にボクと盛り上がっていた。秋桜が心配そうにピザトーストを手渡すと、雛芥子は死んだ顔でそれを受け取り、口に運んだ。

「やっぱり何の味もしない……」

 悲しそうな顔をして一切れだけ食べて、再び雛芥子は部屋へと戻っていった。哀れである。

 ボクが自室について行くと、彼は、頭が痛い、とまた訴えた。頭痛薬が切れたのだろう。普段ならば安定剤を飲ませてあげていたのだが。顔の感覚が無い、と言ったときは、申し訳無いが笑ってしまった。

「こんな羽目になるなんて……しばらく酒はいいかな……」

「ったく、どうやって飲んだらそうなるんだよ」

「たぶん、夜ご飯を早く食ったのが原因だと思う。十一時に飲み始めて、ポテトチップスだけ食ってたんだよな。気持ち悪いけど減らそうと思ってサングリアを飲み続けてたら、ああなった」

 まだ水が酒の味がするぜ、と言って、雛芥子は舌を突き出した。サングリアは渋い味がしたはずだ、何を飲んでもそんな味がするなんて悪夢だろう。

 横になって呻く雛芥子に、体温計を手渡す。むすっとした彼が見せてきたのは、三十六度五分の数字。胸を撫で下ろした瞬間だった。

「感染症じゃァないみたいだな、良かった良かった」

「良かァねぇよ、まだ味覚障害も頭痛もあるんだぜ。もう夜なんだけど」

「まぁまぁ。何か食いたいものあるか?」

 アイス、と雛芥子は答えた。甘い物嫌いな彼がアイスをねだるなんて。バニラモナカアイスならあるぞ、と言うと、眉をひそめてあからさまに嫌そうな顔をした。モナカが駄目だったんだろうか。

 空腹は感じているらしく、ならば、とお茶漬けを食べてもらうことにした。午後十時のことである。

 熱が出ているときに食べる物と言えば、お粥に豆腐、アイスにヨーグルト、そしてお茶漬け。本日の備蓄にはヨーグルトとお茶漬けとアイスがあったのだが、ヨーグルトは一回食べているし、アイスはさきほど嫌な顔をされたので、お茶漬けにした。

 部屋に持っていくなり、彼にしては凄い速さで平らげた。あぁ、味がする、とか嬉しそうに言っていて、ちょっと面白かった。

「最初だけで、あとから味がしなくなるんだけどさ。でも、やっぱり美味しいな。まだ食いたい」

「やめとけって、お前はリンドウかよ、調子乗ってると吐くぞ」

 もう皆が寝静まっている十時半のこと。まだ頭痛は続いてるらしいが、食事を摂ったことで吐き気が少し収まったらしい。良いことである。

「あれだな、度数の高い酒なんて飲むもんじゃねぇな。大人しくジュースでも啜っておこうかな」

「そうだな。まさかサングリアで死にかけるなんて、ふざけた話だよ。分かったら、記憶を無くすまで呑むのはやめろよな」

「酒はさ、俺を楽にしてくれるんだよ。明日のことなんて全部アルコールに溶かせる。その時だけは寒さを忘れられる。全部忘れられる。だからやめられねぇんだよな」

 くたびれた笑顔で、雛芥子はそう言う。彼が酒を飲み始めたのは中学生の時だったと聞く。そんな昔から、彼はアルコール中毒者のように、酒で何もかもを溶かしてきたのだ。

 何もかもを忘れて溺れたい瞬間は、誰にでもあるだろう。もちろん、ボクにだってある。孤独と不安から逃れるために、酒に手を伸ばすこともある。翌日はぼーっとしているのだけど、そうすることで辛いことを考えなくて済む。今日の雛芥子がそうだったように。

 その代償はあまりにも重い。発熱、吐き気、悪寒に火照りに味覚障害、食欲不振に頭痛。馬鹿になった舌先、真っ白な爪と下目蓋、不眠症。夜を回っても彼の二日酔いは抜けない。

「寒くないかい」

 ボクがそう尋ねると、雛芥子はへにゃっと笑って、おかげさまで、と答えた。そうかい、と鼻で笑って返す。

 明日目が覚めたときには、彼が元気でいてくれることを祈っている。ということで、彼の布団に入り込んだ。一人用のベッドに、二人で横になる。

 午後二時。喋り疲れて、ボクらは就寝する。二十四時間経過まで、あと二時間。彼の酔いが二日なのか三日なのか確定するまで、あと二時間。

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