二十五日目

 真っ直ぐ引かれた眉毛に、目蓋の延長線で書かれたアイライン。下目蓋に施されたラメとシャドーが織りなす涙袋。目立たない程度の桃色が走ったチーク。ほんのり赤く色づいた唇。

 薊のナチュラルメイクは、芸術だと思う。元の顔が良いのもあるのだけど、メイクをすると大人っぽさが際立って、あぁ、先生だな、という顔になる。決して派手ではなく、されどクールな顔つきに、彼女のカリスマ性が表れているような気がした。惜しむらくは、素肌の白を際立たせる黒のマニキュアが落ちていることくらいか。

 アザミン先生が帰ってきた──彼女のアルバイト、個別指導塾のシフトが入ったのである。とはいえ、生徒と密接距離にある個別指導塾が、飛沫感染や接触感染をする授業を執り行えるわけもなく、オンライン授業という形式をとっている。

 しかしながら、政府からの支給たる十万円で生きていくしか無かったアタシたちにとって、彼女が仕事を再開できるという知らせは明るいものだった。さっそく帰ってきた薊に、どうだった、と尋ねる竜胆。やんわりと薊が否定したが、別に授業が始まったわけではない。

「今日は説明会で、別に授業はやってないよ。でもまぁ、週に一回くらいは授業に呼ばれることになるね」

「ここまで長かったわね。最後のシフトから約一ヶ月かしら?」

「ホント、このボクを真っ先に呼ばないとか、センス無いよ。シフトに入れてくれたから許すけどね」

「奨悟君はシフト入ってるの?」 

 通信待機中の画面から顔を上げ、牡丹が声をかける。奨悟というのは、神宮寺奨悟といって、牡丹の親友の弟である。薊と同い年で、仕事上は先輩に位置する彼は、兄と姉同様、唯一と言っていいくらいの彼女にとっての親友である。薊曰く、頭のキレるかっこいい奴らしい。

 薊は買ってきた酒を冷蔵庫にしまいながら──明日呑み会をする雛芥子のための酒だ──いいや、と答える。

「彼もまだシフトには入ってないみたい。ほとんど同時に職場復帰かな」

「奨悟先生でさえも職場復帰できないなんて、余程切羽詰まっているのね」

「んー、というよりは、テストに別のセンセー使ったんだべ。ボクとショーゴ先生は、あくまで第二世代だし、彼は学校始まっちゃってるし」

 第二世代というのはつまり、塾の中での年功序列みたいなものだ。当然、長く働いた人の方が偉いので、シフトを回されるべきという考えか。それにしては、第二世代がここまでキレ者揃いだと、さぞ塾の方も大喜びだろう、なんて家族バカを発症してしまう。

 長かったですね、と雛芥子が零した。溜め息のこもる言葉に、疲労のような、哀愁のような紅葉を感じる。

「ようやく元の生活に向けて、世界が回りだしたという感覚を感じます」

「言えてる。もっと世界はゾンビだらけになっても良かったのに、なァ、ミカン」

「え、うん。案外世界はパニックになってないよね」

 唐突に話を振られて困惑してしまう。そういえば、アタシはそんな前提で自己収容生活を始めたのだった、当たり前になってしまっていた。改めて考えると滑稽な話である。

 二千二十年、世界はパンデミックに襲われた。かつては無症状感染者が跋扈していたが、今では八割方の人間が家に隔離されている。その結果もあってか、パンデミック初期の地獄絵図は乗り越えることができて、今では第二段階に──奇遇なことに、こちらも二という数字を使う──移行している。あとは、この減少を抑えれば、治療薬とワクチンでウイルスそのものを抑えることができるだろう。

 当初こそ、治療薬もワクチンも無い、感染者に出会ったなら撃ち殺すしか無いゾンビ映画に類似していた状況も、子供の妄想として潰えた。世界は滅ばないし──むろん、あくまで日本国だけに言えることだが──ちょっとずつ快方へ向かっている。この騒ぎで人がいなくなって、環境すらも良くなった──たとえば、フラミンゴが増えたり、オゾン層が増えたり。人間が滅ぶほど世界が平和になるなんて、「自主的な人類絶滅運動」みたいなことを思ってしまう。

 つまるところ、私たちの住む世界は、よりいっそう平和になっている。

 他人に振り回されて生きることも無く、長い通学を強いられること無く、感染症についても自粛生活についても、第一波を乗り越えようとしている。SNS絶ちは想像以上の結果をもたらしていて、友達を多く失った──その程度で失われる友情など、その場しのぎの付け焼き刃でしかないと分かった──代わりに、精神上の安定を得た。パンデミックとの戦いは長期戦になるのだけれど、我々は幸運なことに、経営者でもなければ受験生でもないから、娯楽のために外に出ることはできない制約だけに耐えれば良い。備蓄についても、多少酒を買いに行くくらいなら外出するようになったから、困ることも無い。マスク不足も布マスクのおかげでなんとかなっている。

 一ヶ月は、長かった。我々が家にいて、情報から自らを隔離している間に、世界はがらりと変わってしまった。もう窓の外を見ても桜は咲いていないし、日差しは真夏に向けてこちらに近づいている。宇宙船で遠くへと向かっていると、時間が短く感じてしまうのと同じ。白い壁に囲まれたこの家には、時間を隔絶する力があるらしい。

「アタシたちは頑張ったよ」

 つい、そう口にしてしまう。自分たちを褒め称えてしまう。五人の視線が、アタシに集まる。

 アタシたちは、頑張った。リビングで過ごすようになって、物が増えてしまった様も、よく食べるようになって、すっかり太ってしまった様も、潰さないようにとて、ニキビが減った顔も、全部全部が愛おしい。物心がついて初めての巣篭もり生活に、気がつけば順応していた。仕事が戻ってくるまで、アタシたちは自分を隔離して、孤独と和解しようとしてきた。その結果が、これだ。

 一ヶ月ができるなら、もう一ヶ月も──緊急事態宣言が延長されたときに思った台詞を、再び思い返す。

「にしても、ゾンビからの隔離生活のくせに、鉄のスパイクやタレットの一つも作りませんでしたね?」

「は?」

 咄嗟に聞き返してしまった。いや、なんて?

 牡丹はまじまじとアタシを見つめ、対策ですよ、対策、と答える。

「だって僕ら、感染しないようにサバイバルしてきたんでしょう? その中で、感染者を殺す方法は何も──」

「待って? いや、冗談だからね? アタシ別に他の人間を殺したいとか言ってないし」

「アザミだって警戒心皆無で塾に行ったけど、そこには感染者の一人や二人いたに決まってるでしょう。そしたら撃ち殺さないと」

「あのね? 冗談も程々にしろな?」

 アタシのツッコミを聞いて、薊が腹を抱えて笑い出した。否定しないんかい。牡丹はどこまで本気で言っているのかいまいち分からないところがある。

 然れども、一理ある。いくら表に出て積極的に感染者を殺して生き延びる策を選ばなかったとはいえ、籠城生活には多少の武装が必要だろう。実際のところ、このメンバーで本当に籠城生活をしたとしたら、牡丹と雛芥子がツートップで攻撃に回ってくれるだろうか。

 雛芥子もアタシと同じことを思っていたようで、そんなの、と言ってから訳の分からない理屈を続けた。

「何のために僕らが筋トレしてきたんだと思います?」

「え、マジ? 感染者と素手で殴り合うの?」

「それはさすがに……私やリンドウじゃ競り負けるでしょうね」

 さっそく牡丹と秋桜がジト目で正論をぶつける。これがいわゆる、誰が上手いことを言えと言った、というやつだろう。

 先程述べたとおり、世界はそこまで世紀末のような荒れた状態ではない。日本では今のところ、感染者隔離施設が放火されたり、飲食店に嫌がらせの張り紙がされたりしている程度である──もしや、そちらの方が対処すべき対象ではないか? それはともかく、まだ感染者が襲ってくるような状況ではない。そもそも、呼吸器系疾患を患った人間が他の人間を襲うことなど体力的にできるのだろうか。

「いずれにせよ。仕事が始まって、外に出られるようになったとしても、これからも自己収容生活は続けていくよ。ダリアみたいにアンデッドの存在を信じるも良し、ただの自粛生活と思うも良し」

「あたし、結構この生活楽しんでるんだよねー。皆とゆっくり話せるし、他の奴らのこと無視できるし。本当に仲が良くて話してて楽しい人とだけ話せるし。だから、このまま続いても全然オッケーだよ」

 竜胆がにぱっと歯を見せて笑う。竜胆にそう言ってもらえるのは嬉しいことだ。SNSからの隔離生活なんて、竜胆が最初の頃、くだらない発言に腹を立てていなければ、思いつかなかっただろうから。

 五人もそれぞれ同意を示す。もちろん、アタシも自粛生活の継続に好感的だ。ゲームの効果音、人でいっぱいのソファ、プロテインの甘い匂いがするキッチン、パソコンの打鍵音、馬鹿ばかりのワイドショー、講義を終えた静かな昼下がり──もう何日も繰り返したそれは、抑えつけられた地獄ではなく、自ら選んだ天国だ。隔離された閉塞ではなく、約束された安定だ。誰もが誰もを思いやり、笑い合い、語り合う。くだらないことから真面目なことまで、全部ひっくるめて、アタシはこの時間が好きだ。

 家に縛りつけられることで、初めて家族の良さを知った。アタシたちが六人で暮らすことで、初めて自分を守れるようになった。

 今日も喧騒は遠く、刺激は遠く、アタシたちは六人ぼっち。それでも、アタシたちは孤独じゃない。

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