第8話 私が1番見てるのに(前編)

「なんだかすごく、可愛くなったよね」

部活からの帰り際、瑠依からそう言われた。校門でばったり会った元同級生は、麻子の方を見て首を傾けた。腹がぽかぽかするのは、練習のせいだけではあるまい。


「あ……ありがとう!」

麻子を『可愛い』なんて言うのは幸香くらいだった。1か月のダイエットと失恋、部活や仲間のおかげで、随分自信はついた。今の『可愛い』をそのまま受け止められるようになったのは、幸香の協力も大きい。痩せる前から親切にしてくれて、ダイエットのためにメニューを教えてくれて、今は部活仲間として支えてもらっている。感謝はしている。


瑠依はその一言だけ告げて、帰って行った。

「誰、今の?」

「瑠依ちゃん。中学の同級生だよ」

同じ中学の出身だが、普段話す訳でもない。以前からどこのグループにも属さず、誰とでも話すがどこか一歩引いていて、人間関係の煩わしさを避ける。話したことがあまりないから余計そう感じるのかもしれないが、麻子にとってはミステリアスな存在だった。

それがこうして自分の変化を見ていたことは、不思議な気持ちだった。幸香もそうなのだろう。瑠依が去った方角をまだ見つめている。

「帰ろっか、幸ちゃん」

「ああ。うん」




鏡の前で、入学した時よりぶかぶかになってしまった制服のスカートをつまんで格好を整える。麻子は夏頃から毎朝こうしている。体型が随分変わったので、そのままの制服では格好がつかない。せめて夏服の購入より前に痩せたかったと今となっては思う。

『可愛くなったよね』

そうする間も、昨夕の瑠依の言葉がぐるぐると胸の中を渦巻く。ネクタイを結ぶのに、いつもより時間がかかった。




夏休みに比べれば幾分か過ごしやすくなった体育館だが、まだまだ蒸す。それでも開けた窓から吹き込む風は、秋めいたものになってきている。特に朝練の時は、動かなければ涼しさの方が勝るくらいだ。

初夏から始めたバドミントンも、かなり上達したと思う。麻子自身の実感もあるし、経験者である幸香のお墨付きでもある。彼女と数往復でもラリーが続くようになったことは、この夏の成果だった。まだ手加減はされているのだろうが、それがわかる程度に実力がついたとも言える。


「麻子、来るの早っや!」

欠伸まじりに体育館に入ってきた夜月は、ポールを設置している麻子を見ると、伸びを止め声を上げた。

「いや夜月が遅いだけやきん」

倉庫からネットを抱えて現れた幸香がすかさず夜月を睨めつけた。今日の当番はこの3人だ。

「ごめんって」

先に準備を始める同期たちに舌を出すと、夜月もネット張りに加わった。


朝練の準備を進めるうち、先輩やほかの同期もやってきた。挨拶を交わしながら、床にモップをかける。部長が身体を伸ばしながら3人の様子を窺っているのが見えた。


さて、幸香と夜月は仲が悪い。というより互いをライバル視している。今も意味もなくモップがけで縄張りとスピードを争っている。

練習開始前に夜月が麻子の肩をポンと叩いたとき、幸香がこちらを強く睨むのを感じた。ライバル関係に巻き込まれるのも考えものだ。




朝練の後は身体がまだ熱を持っていて、ふわふわしている。とはいえ机についたらすぐに疲労に変わって寝てしまいそうだ。そんなことを幸香と話しながら、麻子は登校してくる生徒が行き交う廊下を歩く。

自分の教室の前で、気怠げに隣の教室の扉をくぐろうとする瑠依が見えた。

「おはよう!」

昨日までは、見かけてもわざわざ声などかけなかった。だが今、麻子は瑠依を見つけると、少し離れたところからでも挨拶を投げた。

「……おはよう」

少し目を見開く瑠依は、何に驚いているのだろう。確かに中学の頃の麻子は積極的なタイプでもなかったので、戸惑いもわからなくはなかったが。それがなんだかおかしくて、幸香にも弾んだ声で笑いかけた。幸香は麻子の髪をくしゃりと乱し自席についた。




朝練、授業、昼休み、授業、また部活。合間に友人達とお喋り。間食は我慢。でも幸香が差し出したチョコは特別。

そうして今の麻子の学校生活は過ぎていく。1週間前のあの日から、そんな日々の節々に瑠依の姿を追う時間が滑り込んでいた。

朝練後に見かければ挨拶を交わし、昼休みになると同時に教室を出て行くのを目で追い、しれっと1人で教室を移動する背中を注視した。


中学の頃、社会見学の班で瑠依と一緒になったことがある。麻子のいたグループに、瑠依が加わる形だった。なんとなく緊張した。

平日のほとんど貸切のような科学館で、ヒソヒソとお喋りに夢中な友人たちに後ろから2人でついて行く。


瑠依は時々班員に遅れることがあった。ふと立ち止まり展示品をじっと見ていた。気付いた麻子が声をかけ、瑠依も歩き出す。科学の不思議を示す仕掛けや文章に、瑠依は吸い込まれそうに見えた。声をかけなければ、何時間でもそこに留まっていたのではないかと麻子は思う。


そんなことを何度か繰り返したが、麻子も瑠依も、自分から話すより聞き手に回るタイプで、会話という会話は発生しなかった。


それが今、瑠依から話しかけてきたこと、麻子が挨拶をするようになったこと。互いに高校で変わったこともあるのだろう。

けれど瑠依の後ろ姿を何度見ても、やはりあの頃と同じ、どこかへ吸い込まれそうな、捉えどころのない瑠依だった。




「麻子、最近あの子のことば〜っかり見りょる」

学食でわかめうどんを啜りながら、幸香は鼻息荒くそう言った。麻子は、そんな自覚はなく初めて気づいたとばかり返す。

「そうかな?」

幸香は猛然と頷く。

「同じ中学っても、別に仲良かったとかじゃないんよね?」

「まあ。瑠依ちゃん、誰とでも話すけど誰ともつるんでなかったし」

麻子はキャベツをよく噛んで飲み込んだ。その間、幸香は黙ってうどんと具を啜る。

「よく知らん人を好きになると、また困るんちゃう」

麻子と目を合わせず、汁の残った丼を見つめ、幸香は低い声で呟いた。平らなその声は、いつもの幸香ではないようだった。教室とも体育館とも違う、見たことのない顔。怒っているような、恐れているような。

「高橋先輩みたいになるの心配してるの?大丈夫だって。瑠依ちゃんのことそういう風に好きってことじゃないし」

正面の友人の心配を払拭しようと、朗らかに笑う。

「あっそ」

「うん。だって……女の子だよ?」

幸香は顔を上げた。その表情は、怒りとも恐れとも取れなかった。何故親友がそんな顔をするのか、麻子にはわからなかった。

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