春風ひとつ、想いを揺らして

まっく

春風ひとつ、想いを揺らして

 この世の中は、嫌いなもので溢れている。


 トーストされて少し時間の経過した食パン。嫌味なくらい澄み渡った青い空。気持ちよく伸びをする白い猫。意味なく話し掛けてくる近所のおばさん。


 朝起きてから現在までで、もう四個。


 気が付けば僕は、またこの寂れたビルの屋上にいる。

 どうして、嫌いな空に近付かなければならないのか。自分でも分からない。

 そして、手にはいつもの三角パックのイチゴ牛乳がある。パックに挿したストローに軽く口をつける。

 最後、あと少しになった時のズゾーって音は、イチゴ牛乳の断末魔のように聞こえて、これもまた嫌いだ。

 でも、貧乏性が染みついているので、結局は毎回やってしまう。それで、今日もまた自己嫌悪に陥るのだろうなと思う。


 一か所、柵に穴が空いている場所があり、そこからビルの下を眺めてみる。

 こちら側は路地も狭く、家も密集していて高い建物も多く、あまり視界が開けていない。到底、飛び込む気にはならない場所だ。

 今、ちょうど背にしている側ならば、すごく開けていて、すぐにでも飛び出していってもいいかなと思うのだが、現実問題として、その柵を乗り越えるのは、とても厳しいので、実現には至っていない。頭の中では、もう何度か実行しているのだけれども。


「やあ、少年。こんな所で何やってるの?」


 声の方を振り向くと、レモンサワーの缶を持った女の人が立っていた。

 ほつれが目立つクリーム色のニットセーターに、ダボダボのパンツ。艶をゼロにしたような黒髪で、眉毛からなるべく距離を取ろうと最善を尽くしたパッツンの前髪。

 全て相俟って、元来の整った顔立ちを見事に相殺している。


「お姉さんこそ」


 そう言ってから、ストローに口をつけた僕に合わせるように、お姉さんも缶に口をつける。


「あたし? ちょっと酔い醒ましに散歩してたら、アンタが屋上から下を覗いてるの見えたから」


 お姉さんは缶をグッと呷り、それをギュッと握ると、ポケットからもう一本レモンサワーの缶を出して、プルトップを起こし、また呷る。


「酔い醒ましに歩きながら、お酒?」


「まあ、これはジュースにヅラ被せたみたいなものだから」


 お姉さんは、ほぼジュースと言いたいのだろう。そんな独特の例えを吐き出しながら、人差し指と中指で挟んだ缶を軽く振る。開けたばかりの缶を、もう随分と飲んでしまっているようだ。


「アンタはなにしてるの? ひょっとして、飛び降りようとしてるとか?」


 今日決行するかは別にして、お姉さんの言う通りではある。

 何も持ち合わせていない僕が、嫌いなものだらけの薄汚いこんな世界にいなければならない理由なんてないはずだ。


「だったら、どうだっていうんですか」


「だったら? やめときなって」


 お姉さんは、手のひらを突き出して言う。ハチャメチャな雰囲気を醸し出しながら、結局は普通の大嫌いな大人と同じなのか。


「死んだら、悲しむ人がいるし、生きてれば、そのうち良いことある。とか言いたいんですか?」


 何故かがっかりしている自分に気づき、笑いそうになる。


「いや、アンタの事なんか知らん!」


 突然キレたお姉さんは、何故だか地面に座り込んだ。腰を据えて、話し出すつもりらしい。厄介な人に捕まってしまったのかもしれない。


「あたし、そういうの見えるタイプだからさ」


「そういうのって?」


「霊とか、そういうやつだよ」


 お姉さんは、不機嫌そうに缶の残りを飲み干し、またポケットから新たなレモンサワーを取り出した。一体、何本ポケットに入っているのだろうか。


「あっ、分かった。そうだよ、アンタは既に死んでいる」


 お姉さんは、今度は不機嫌はどこへやら、納得顔でうんうんと頷く。


「僕は既に死んでいて、地縛霊になって、このビルの屋上にいるって事?」


「えっ? 本当にそうなの?」


「あなたがそういうの見えるタイプだって言ったんじゃないですか」


「見えるタイプだけど、まだ一度も見た事はないんだよね」


 この人は、何を言ってるんだか。

 呆れる一方で、それを面白がる自分もいる。


「じゃあ、見えないタイプなんですよ」


「いや、見えるタイプなのは確実なのよ。だから一旦、今日死んだ事にしておいて、こっから新たな人生を歩みなって」


 だから一旦、って話が全く見えてこない。


「意味が分かりません」


「もう一度、確認しておくけど、アンタは本当に死んでないんだよね?」


「そんな記憶はないですけど」


 大体、僕は幽霊など信じていない。


「いやー、この辺り、あたし結構通るからさ。下手に飛び降りられて、アンタの霊が見えたら嫌じゃない」


「でも、霊かどうか判断ついてないじゃないですか」


「うるさい! 屁理屈ばっか言うな、死ね! いや待て間違えた、死ぬな!」


「どっちだよ!」


「アンタの今後の人生の事なんて知らんが、あたしの為に死ぬな!」


「自分勝手な人だな」


「人間なんて、みんなにそんなものさ」


 お姉さんは、遠い目をして空を見上げた。

 言ってる事は無茶苦茶だが、そんな言葉なのに何となく心にスッと入ってきたような気がした。


「よし、じゃあ勝負しよう」


 お姉さんは、おもむろに立ち上がり「ちょっと待ってて」と言って、僕にレモンサワーの缶を押し付けて、屋上から出て行ってしまった。


 しばらくしてお姉さんは、おそらく下の郵便受けに入っていたであろうたくさんのチラシを持って戻ってきた。


「これで紙飛行機を作って、遠くまで飛んだ方が勝ちな」


 お姉さんは、選んだチラシをひらひらさせて、紙飛行機を折り始める。


「で、勝ったら、何があるんですか?」


 屋上から紙飛行機を投げてしまっていいものかと思ったが、とりあえず一枚チラシを取る。


「アンタが勝ったら、死ぬの許してやるよ。その代わり、陸地だと最悪あたしが通る可能性があるから、どっか遠い海の真ん中でやってくれ」


「海ならいいんだ」


「うん。船も飛行機も大嫌いだから、海の上には絶対行かないし」


 飛行機嫌いなのに、紙飛行機を飛ばすんだね。と言おうと思ったが、またキレられそうなのでやめておく。


「お姉さんが勝ったら?」


「死ぬまで、死ぬの禁止だよ!」


 相変わらず何を言ってるんだかよく分からないが、勝負するまで帰してくれそうにない雰囲気なので、紙飛行機を折る。


「じゃあ、せいので柵の上に向かって投げるからな。アンタの鬱屈した想いを込めて、精一杯飛ばしたまえ」


 お姉さんが、視界が開けてる側の柵を指差す。


「せいの」で紙飛行機を飛ばす。


 お姉さんの紙飛行機は放物線を描き、柵を越えると、その放物線の通りに下方向へ。瞬く間に視界の外へと落下した。

 お姉さんは「タンマ、タンマ! もう一回やり直し!」と騒ぎ立てているが無視を決め込む。


 僕の紙飛行機は、今、この世界にたくさん吹いている春風のひとつをとらえて、視界のずっと先に向かって飛んでいる。

 お姉さんの言うところの、僕の鬱屈した想いを乗せた紙飛行機は、ゆらゆらと小刻みに揺れて、どんどんと遠ざかる。


 そういえば、小さい頃から紙飛行機を作るのだけは得意だったと思い出す。

 生きていく上で、全く必要のない特技だけれど、無いよりマシかと思ってしまった。


 これは一生の不覚なのかもしれない。


 まだ騒ぎ立てているお姉さんを横目に、遠ざかる紙飛行機を見ていると、それも全てひっくるめて、どうでもいいような気がした。


 三角パックのストローに口をつける。

 手の中でイチゴ牛乳が控え目に断末魔をあげた。

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