神の降りる空1-5
奇妙なヴィジョンに導かれるまま、薄暗い夕闇の山道を走り続けた。普通なら道に迷って遭難しかねなかったが、今の少年には通るべき道がわかっていた。
目や耳や鼻、肌で空気を感じるよりも早く、感覚的にどこでどう動けばいいかわかっていた。
それはある種の未来予知であり、身体操作と結びついた神がかりのような状態だったから、彼自身、どうやってそこにたどり着いたのかは覚えていない。
気づくと足は止まっていて。
ただ、炎を背にする少女が見えた。
「――ホシノさん」
その少女からは血と死のにおいがしていた。
嘘偽りなく、信じがたいほどに不吉な気配は誤魔化しようがなく、イヌイ・リョーマ少年が如何に呆れるほどのお人好し――彼の幼馴染みの言――だったとしても、目をそらすことはできない現実だった。
逃げ場はない。
背後の平地から聞こえる銃声や爆発音が彼の退路を断っていた。
ほとんど轟音と言っていいそれは、カインとスカルマスクの戦いが激戦であることを物語っており、耳をつんざくような轟音と黒煙は明らかに少年の知る鉄火場の限度を超えていた。
そして正面には、炎に包まれたお堂を背にした少女が一人。
一、二時間前に別れたときの姿そのままのホシノ・ミツキ――その長い黒髪が火の粉を孕んだ熱風によって揺れる。
まるで彼女自身がこの世ならぬものであるかのように、神々しくすらある光景だった。燃えさかる木造建築の放つ熱と何かが焼けていく異臭さえなければ、素直に美しいと思えたかもしれない。
わかっているつもりだった。
ここはイヌイ・リョーマの信じていた日常/現実の正気など、何一つ担保されていない狂気の荒野だ。
ミツキは立ちすくむ少年を見て、困ったように微笑む。
「あの中で七人、死んでます。自分の首を掻ききったり、灯油被って火をつけたりして」
「それは……」
「死んじゃえって思ったら、本当に死んじゃったんです」
けろっと冗談でも言うみたいな口調だった。目を向けると、炎の向こうに見えたのは黒く炭化しつつある塊――鼻をつく異臭が頭髪の焦げるにおいだと気づき、リョーマは吐き気を覚えた。
落ち着け、と自身に念じる。
それがミツキの能力によるものなのか、カインを名乗る怪人の手によるのか、この赤い空が引き起こした異変なのか少年には検証できない。
たしかなのは少女の眼前で人が死んだこと、そしてミツキが明らかに動揺していることだ。
今、彼がすべきなのは疑心暗鬼に陥ることではない。
そんなリョーマの内面を読み取ったように、ミツキは微笑んだ。
「本当に……先輩ってお人好しなんですね。こういうとき、人殺しの化け物とかって怖がったりするのが普通なんじゃないんですか?」
「……見てる映画とか漫画が偏ってるんじゃないか? 俺、そこそこ映画は見てる方だけど、ちょっと趣味が悪いぜ?」
心を読まれている。
軽口を叩きつつもリョーマは冷や汗が止まらなかった。
自分は夢でも見ているんじゃないかと疑いたくなるぐらい現実感がない。
あまりにも簡単に人が死にすぎていた。
そこで不意に気づいた――夕焼け空だったはずの空一面が、血のように赤く染まっていることに。
「……これ、あのときの」
赤い空。
怪異に襲われ引きずり込まれた異様な世界の象徴。
本能的な恐怖で身体が強ばった。命の危機を味わった経験は忘れがたく、少年の心身に刻まれてしまっている。
「先輩、逃げてください」
「一緒にここから逃げよう、ホシノさん」
リョーマにとっては当然の呼びかけだったが、ミツキの反応は芳しくなかった。
聞き分けのない子供を見るような目で、少女は彼を見ている。
「……同じことの繰り返しですよ?」
「えっ?」
「一度目も二度目もそうだったじゃないですか。先輩と一緒にはいけません」
そうだ。
非日常的な事件が起きすぎていて感覚が麻痺していたが、ついさっきホシノ・ミツキは彼に別れを告げて姿を消していた。何らかの手違いでこうしてリョーマと再会できたとしても、少女はすでに選択をしているのだ。
災いを呼び寄せる自分自身の生存を諦めるという決断を。
「……ああ、クソ、そうなるよな」
何も考えずに衝動的にここまで来た自分はいよいよ頭が悪いんじゃないかと思った。
それでも、目の前に自殺志願者がいるからその意思を尊重するか、と問われれば――難しい問題だが、今このときの彼はそうではなかった。
「悪ィ」
「はい?」
迷うことなく少女の手を掴んだ。
力強く、逃れられないように。
「俺、強引な方なんだ」
強がりしかない笑顔でそう言うと、ミツキは苦虫を噛み潰したようにその端正な顔を歪めた。
「――バカなんですか?」
直球で罵られた。
少女の決意を無視してしているのだから、そのぐらい言われて然るべきだとは思うが、妹と同じぐらいの女の子に罵倒されるのは地味につらかった。
ちょっとしょんぼりしつつ、リョーマはミツキの手を引いた。
そうはいかないと立ち止まろうとする少女は、わけがわからないと叫んだ。
「なんで……どうして! 放っておいてくれないんですか!」
そしてイヌイ・リョーマは何度でも、彼にとっての当たり前を口にするのだ。
「死んで欲しくないからに、決まってるじゃないか」
「……また、そういう……バカみたいです……」
うつむいてそう呟くミツキの頬は、心なしか上気していた。
理由など、たぶんこれだけで十分だった。少年と少女のいる世界が普通だったなら、それですべて丸く収まったのだ。
「あ……先輩……声が、聞こえて」
けれど、ここは異形で奇怪で残酷な場所だから、リョーマの善意と勇気は報われない。
またしても様子のおかしくなった少女を見て、少年の脳裏をよぎったのはつい先ほど味わった事件。
一度は彼を気絶寸前に至らしめた絶対的恐怖、虚空より伸びてきた異形の腕のことだった。
「……山を、降りよう」
震える声で前だけを見て歩く。もう異界からの招きなど無視して逃げ切ってやるのだと、心に焼き付けられた恐怖を振り払った。
だが掴んだ手を通じてミツキの震えが伝わってくる。
しまいには聞いたこともない音が聞こえ始めた――それは空が爆ぜる音、次元を超えてあふれ出したエネルギーによってプラズマ化した大気のうなり声。
それはさながら嵐だった。
身体が傾いで呼吸できなくなるほどの暴風の中、稲光のような激しい光が、何度も何度も地面を照らして。
獣の咆哮のような音が耳を叩いて。
今すぐ自分を置いて逃げるよう訴えるミツキの声すら聞こえなかった。
光と音の嵐が収まった後、うかつにもリョーマは空を見上げてしまった。
あるいはそれこそ、好奇心が勝ったと言うべきなのか。
何も見ずにいることに耐えきれなくなった未知への恐怖が、理性を上書きしてしまったのかもしれない。
とにかく、彼は直視した。
視線の先にあったのは、目測して直径三〇メートルはあろうかという奇妙な虫食い穴――まるでガラスをたたき割ったかのようなひび割れの中心だ。
見えた。
見られてしまった。
虚空に開いた孔を指で押し広げ、巨影が這いずり出てくる。
まるで人の眼球と指と耳と鼻と歯と舌を混ぜ合わせたサラダボウル、既視感があるパーツの群れが織りなす狂気の寄せ木細工。
それはこの世ならざる異界を胎盤に、人の魂を養分に育った胎児だった。
断言しよう。
人はこれに抗えない。
さながら熱力学第二法則のごとく、人には覆しえない宇宙の根源的事象。
アレは破滅そのものなのだと、脳を侵す恐怖が教えてくれる。たったの一五年の生で積み重ねた人格や理性が耐えられるような負荷ではなかった。
自分が泣いているのか、吐いているのかわからない。
頭の中は本能的な恐れでめちゃくちゃだった。
ガタガタと震えだした身体には力が入らなくて、そうしてゆるんだ手をすり抜けて、ミツキはリョーマから離れた。
「ホシ……ノ……」
「だから言ったのに……でも、ありがとうございます。先輩ってやっぱり……ヒーローみたいです」
その言葉に込められていたのは、限りない慈しみだった。
微笑むミツキの頬は薔薇色に染まっていて、今まさに恐ろしい怪物に襲われようとしているようには見えなかった。
地面に膝と両手をつけて震えているリョーマの頭を、幼い少女の掌が愛おしげに撫でる。
ぐちゃぐちゃの肉塊がうごめく空を見上げ、ミツキは目を細めた。
「……ああ、なんだ。あなた、出来損ないなんだ。かわいそう……」
少女の呟きに合わせて、空の果てより来たるものは形態を変化させ始めた。
ぼこぼこと肉が泡立ち、沸騰し、細胞分裂を始めた受精卵のように成長をし始めて――やがて変態を終えたそれは、ゆっくりと地上に降り立った。
轟音。
落下の衝撃で揺れる山の中腹で、ホシノ・ミツキはすべてを諦めて笑った。
「もう、みんな全部ダメなんです……」
“それ”は短い二本の足と、倍近い長さの二本の腕を持っていた。
“それ”は人のような直立二足歩行を行いながら、第三の足のごとき尻尾を地面に接触させ、自身の体重を支えていた。
“それ”は首だけが蛇のように長く、さながら“ろくろ首”のように胴体から離れた場所に頭がついていた。
“それ”は
“それ”は地球生命の生物学的見地に基づくならば、無意味で不必要な身体的特徴に満ちた異形だった。
荒唐無稽なる異形は、かつて幼子の絵筆で描かれたとき、こう名付けられていた。
――火炎怪獣デスマンドラ。
余人はそれを、幼稚な子供の夢と笑うだろうか。
であれば人類の終末は喜劇である。
悲しんではならない、笑って祝福すべきである。
これより世界は、荒唐無稽にして奇怪なる虚構の獣に破壊されるのだから。
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