第356話 生きて帰るなら

 ビーチェの体から熱が失われ、金色の瞳は徐々に瞼で閉ざされようとしていた。先ほどから癒しの術式は施しているのだが、ビーチェの命が底の破れた水袋のように漏れ出している。

 あるいはこんな結末も覚悟はしていた。それでも、再び会わねばならないとここまで来たのだ。後悔はない。


「逝くのか、ビーチェ」

 俺の問いかけに、しかしビーチェは弱々しく首を振り否定した。

「やだ。……逝かない。私まだ、ここに居たいから」

 擦れて小さな声だったが、その奥底には強い芯が感じられた。ビーチェはまだ生きることを諦めていない。

「クレス……私がどんな姿になっても、一緒に居てくれる?」

 その言葉の意味に不吉な予感を覚えたが、俺は例えそれが最悪な選択肢であっても受け入れると、すぐに覚悟を決めた。

 宝石の丘ジュエルズヒルズへ挑み、多くの犠牲と引き換えに莫大な富と名声と権力を得た。だが、それらを投げうってでも俺は、唯一人の少女を迎えに行くことを決めたのだ。今更、ビーチェを失うこと以外の何を恐れる必要があるだろうか。


「約束しよう。もう二度と、離れることはない」

 消え入りそうな命を抱えながら、ビーチェが何をしようとしているのか俺にはわかっていた。

 ――それは禁忌だ。

 術士の常識からすれば、決して認めてはいけない一線を超える行為。

 だが俺は止めなかった。


 ビーチェは小さく口を動かしながら、両腕に刻まれた魔導回路を最大限に稼働させている。彼女の魔導回路は元々、俺が少女の腕に刻み込んで与えたものであったが、今では完全に自分のものとしているようだ。ビーチェの魔導回路から放たれる魔力の渦に引き寄せられ、有象無象の幻想種が寄り集まってくる。その中に、常に彼女と共にあり続けた存在、闇の精霊シェイドもいた。闇の精霊シェイドは寄り集まってきた他の幻想種を、体とほぼ同じ大きさに開いた口でもって片端から喰らい、吸収していった。


 見る見るうちに力を増していく闇の精霊シェイド

 おそらくは直感的な魔導操作だけでビーチェはこの術式を実現させようとしている。才能、努力、執着、すべての要素が揃って初めてなされる奇跡。いな、禁忌呪法。

「これから、私が……」

「例えお前が――」


『魔人になっても』


 単純に憑依するのとは異なり、幻想種が生物と細胞レベルで完全に融け合うと魔獣が生まれる。自我が強く、通常は幻想種と融け合うことのない人間も、宿主たる人が幻想種を受け入れるなら魔獣となりうる。さらに、融合する幻想種が宿主の意思を尊重することで、人としての知性を保ったまま魔性の存在となる。

 奇跡にして禁忌の呪法。

 ――人魔融合――。


 アカデメイアの事件で魔人化したナタニアの場合、完璧に制御された人魔融合の呪法とは言い難く、無意識のうちに彼女の自我は幻想種に侵食されていた。それは容易に暴走して、誰にも抑えられぬ破壊衝動となりかねない危険な性質を孕んでいた。

 当時の俺では、とてもナタニアを魔人のまま生かして抑える術はなかった。


 だが、その歯痒い経験は今、活かされていた。失敗をいつまでもそのままにして、同じ過ちを繰り返すほど俺は愚かではない。いつかまた同じようなことに遭遇したとき、二度と悲劇を繰り返さないよう対策は考えていた。

 ビーチェ、この闇色をした少女に相応しい、暗色金剛石アダマンタイトの魔蔵結晶を右手に握り締める。


(――我が呪詛を受け入れ、服従し、命に従え――汝が身の力全てを絞り――)

眷顧隷属けんこれいぞく

 幻想種を取り込み続けていた闇の精霊シェイドがビーチェの胸に溶け込むように同化していく。その間隙に暗色金剛石アダマンタイトの魔蔵結晶を滑りこませた。

 同化する幻想種に対して優位な立場で、確固たる自我を持った魔人と化す。なおかつ、俺の『眷顧隷属けんこれいぞく』の呪詛で縛りを与えれば、人間性を失って暴走する危険はまずなくなる。俺の呪詛を素直に受け入れてくれることが条件だが、それは問題なく達成された。


 ビーチェの体が一度、真っ黒な闇色に染まり、その後ゆっくりと生きた人肌の色を取り戻していく。

 いや、おそらくこれは上辺うわべだけのものだろう。

 魔人化するということは、人の営みから外れること。

 人のようでいても、人と同じには生きられなくなる。

 それでも、生きている。

 理性があって、記憶があって、互いに触れ合うこともできる。例え人でなくなっても、ビーチェが生きて戻ってくるのなら……俺はそれで構わなかった。


 閉ざされていた瞼が再び開く。

 そこには、昔と変わらぬ金色の魔眼が一対、ぎらぎらとした光を湛えていた。

 あるいはかつてよりもよほど、生気に満ちた瞳だった。

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