第165話 暴れる龍に首輪を付ける

河川関係は地図がないと分からないので、今回、引用が少し多いですが別に見なくてもOKです。


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「今、貴方がすべき事は水害に悩む民を救い、干潟として米が取れない土地を水流を変える事。天野邪鬼ではなく、龍を従える事です」

 と、さねえもんが言った。

 毘沙門天は悪さをする天野邪鬼をふんづけた立像が多いので、それに絡めた進言である。


 謙信さんは経済政策は多いが、内政の事績が少ない。


 特に灌漑というと謙信さんが死んだ後の1582(天正10)年から1597(慶長2)年に行われた直江工事が知られており『三条から白根付近の河道は上杉謙信の家臣、直江兼継により行われている。

 これは燕島を防護して主流を東へ寄せることを目的としたもので、一方は現在の燕市小高・佐渡を通り、白根市大字新飯田から加茂市大字鵜ノ森方面へ、他方は新飯田から現在の中ノ口川方面に向かわせた。現在の中ノ口川はこのときの掘削によるものといわれる』

(参考引用;https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/367/chisui/s_01.html 地図付き)

 これは1541年から20年かけて堤防を作った武田信玄とは対照的である。


「いくら戦が強くても、やっぱり大名は内政や収穫アップを考えないとな。」

「まあ、宗麟さんも臼杵の町は整備したけどんですけどね」


 …ブーメラン案件だった。


 まあ、戦国時代の川って部下の土地とか通るし水利権もからむからよほどの独裁制じゃないと難しいよね。と言い訳をしてみる。

 なお豊後で水道整備がされるのは息子の義統くんの代。奇しくも1583年に許可を出して着工している。


https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0903_ooita/0903_ooita_01.html


 この頃、日本中で河川工事ブームでもあったのだろうか?

「鉱山開発で排水やトンネルなどの工法が向上したり、木曽川の改修工事とかで技術が進歩したんじゃないですか?」

 そんなものだろうか?


 話がそれたが、謙信さんの方を見ると難しい顔をしていた。

「まあ、気持ちはわかりますぞ」

 と、フォーローを入れる。

 水、河川工事とは

1、人間ごときでは現代でも手に負えない危険物である。

2、生存と田植に必要なものなので、配分を間違えると渇死者や不作で餓死者が出る。

3、多くの領主の土地を通るので権利関係が死ぬほどややこしい。

 という面倒事を抱えている。

「ですが、それだけに本来なら正面から取り組まなければならない事であるのも事実。」

 水を調伏出来れば人間、特に武田に誘惑されるような人間なども考えを改めるでしょう。と、告げた。

 武田信玄は約束破りとか、一族を分断させて土地を根こそぎ乗っ取るなど、毛利元就みたいな外道であるのは確かだが、自国民には非常に優しく頭も良い。

 信玄堤をつくって水害から民を守ったのもその一例だろう。

 他国の人間には死ぬほど厳しいけど。

 

 ライバルの名を出されてプライドを刺激されたのだろう。

 少しだけ弱気の虫が消えたように見えた。

「どのようにすれば、水流を操れるのか。腹案がございましたらお聞かせいただけますか?」

 と、膝を詰めて来た。

「科学様が言うには『まず曲がった龍の背筋をまっすぐ伸ばし、二ヵ所ほど出口を作って外に出るのを拒む、その背中を蹴飛ばしてやりなさい』との事です」

「ふむ。治水は川を一直線にして引っかかりを無くし、海と川の間にできた砂の堤を開け。と言うことですな」

 もったいぶった言い方を一瞬で理解する謙信さん。


 流石は「1から100までを足したらいくつになるか?」という質問を一瞬で答えたという逸話を持つ天才、上杉謙信である。


 …そう、本当なら彼は頭が良いのである。

 上杉謙信の歴史書を見ると、華々しい合戦の記録や、外交、破天荒な行動、以外と経済に聡い事は伺える。

 特に1577年9月に織田信長の軍と戦った後は「信長と雌雄を決する覚悟で臨んだが、案外弱く、この分なら天下を平定する事は簡単です」と言ったらしい。

 …引用書状名が書いていないのが気になるが、実に剛毅で爽快な発言である。(新人物往来社;上杉検診の全てP270)

 あの事前準備の鬼のような信長の後半でもこれくらい戦術眼に差があった。


 ただ、戦略的な視点には乏しかった。

 時代は遡るが、信玄を中心とした信長包囲網では信長は最初信玄にゴマをすりつつ、謙信を味方した。

 これで信玄が西に攻めてくる事はない。と安心した信長。

 ところが信玄は1572年に遠江に進み、東美濃に別動隊が入った。

 約束破りの信玄の面目躍如である(皮肉)

 これは和睦の機嫌を信長が取っていた中での出陣で、信長は謙信に「信玄の所行、まことに前代未聞の無道といえり。侍の義理を知らず」「未来永劫を経ても再び相通じまじく」と怒りの手紙を謙信に送っている。

 そこで信長は謙信に信玄の後背、信濃や上野に攻め込んで欲しいと依頼した。

 12月12日には三方ヶ原で徳川が信玄に敗れているので、マジのピンチで家康もすぐに信濃に兵を出してくれと頼んでいる。


 まさに救いのヒーロー。悪を退治する毘沙門天にすがる思いだっただろう。


 ところが、このとき謙信さんは越中の椎名や一向一揆の反抗が気がかりで、8月からずっと越中とだけ戦っている。


 全体を見ず、一点集中。目の前の敵以外に敵はいない。


 これには研究者も『信長や家康からみれば、全く頼りにならない同盟者なのである』とまでかかれている。(新人物往来社;上杉検診の全てP98)


 融通が効かないにしても程がある逸話である。

 だから、民や信玄を引き合いに出してやる気を出させてみたのだが…どうも煮え切らない。


 そんな中、さねえもんが一枚の地図を広げた。

「これは、我が国一の暴れ川、大野川で御座います」

 おい、何勝手に国家機密開示しとんねん。(当時の地図は密偵が作成するほど貴重で重要)

「4年前までは住民は洪水のたびに2階に避難し、そのための入口まで用意するような土地でしたが、河川を整備し高田という水害に合わない田を作り、清らかな水が取れるようにした事で、良い米が取れ、良水により酒も上手さを増すようになりました」

 と、いきなり言いだした。

「濁った水に住む龍は酒をまずくしますが、澄んだ美しい水へ変われば越後なら、日本一、いえ 三千大千世界一の銘酒ができるでしょう」

 その言葉に、謙信だけでなく周りの家臣も「やりましょう!」と、さねえもんの手をとった。

 この般若湯中毒者どもが権力を握る越後に一抹の不安を覚えながら、河川整備の要諦を説明するのであった。


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 大野川は昭和の時代まで河川が二階まで迫り、今も警告表示があります。

 ただ、酒造業は繁盛したようで、帆足本家という酒造で財を成した一族の屋敷が大分市戸次地区にはありますし、大分市で今も唯一営業している森町の倉光酒造は 全国新酒鑑評会金賞受賞酒を作っています。

 お値段がはるので、贈答用として今もトキハなどで販売中です。

 

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