26.ちいさな親友

 海人が実家の事情を藍子に伝える決意をした。

 いきなりだと驚くだろうからと、エミリオがその旨を少しだけ伝えて心構えの準備をしておこうということになった。


  最後は銀次の冗談交じりの軽快なトークで盛り上がり、久しぶりのBe My Lightの夕食を美味しく食べることができた。

 またもや彼女の自宅へとバイクで帰宅をする。玄関を開けると、ほのかにバラの匂いがリビングから漂ってきた。


 また心美がバラを持ってきたのではないかと思いながら、靴を脱ぐ。

 晩夏になってきたが、開け放しているリビングのドアからは、海辺からの風が流れてきている。


「ただいま」

「あ、おかえりなさい」


 彼女はもう寝支度を済ませていて、いつもの薄着で濡れ髪だった。風呂上がりらしい。

 案の定、キッチンカウンターにはカフェオレボウルに濃い紅色のバラが生けてあった。


「今日も心美が?」

「うん。エミルを待っていたみたいだけど、今日は先輩とお食事で帰りが遅いのよと伝えたら、私にくれたの。今日は園田のおじいちゃまと一緒で、私、初めて園田少佐のお父様にご挨拶ができたの」


 軍人は退官したが、いまも契約教官として武道指導を軍でしている園田少佐の父親、園田克俊氏。大魔神と呼ばれていた豪腕父ちゃんで、いまでも隊員達には『園田教官』と呼ばれている。


 そのお父さんが、バラを持った小さな孫娘のために、ずっとそこで待たされているのを思い浮かべてしまったエミリオは、大魔神も孫娘には敵わないかと笑みがこぼれてしまった。


「そのお父さんが、なんて呼ばれているか知っているか」

「え、知らないけれど……」


 心美のバラをそばで見ようと制服姿のままカウンターへと近寄る。


「大魔神と呼ばれていたらし……」


 と、そこまで呟いて気がつく。カフェオレボウルの下にクレヨンで書かれた文字が見える便せんが目に付いた。


「これ……、心美からか」


 藍子も気がつく。


「あ、そうなの。エミルへのお手紙だって。ココちゃん、絵を描いたり、ちょっとの文字が書けるようになって、お兄ちゃんたちにお手紙をしているみたいよ。それで今度は、家族以外にもお手紙を書くと言い出して、エミリオに届けに来たんですって」


 そこにはここ最近、心美がずっとエミリオに伝えてくれていることが書かれていた。『けこん、おめでと』だった。


「まだ小さい『っ』がわからないんだって、園田教官がおっしゃていたのよ。でも、かえって、かわいいよね」

「そうか。会ったときはまだ二歳かそれくらいの赤ちゃんぽい子だったのにな」


 自分はまだ少ししか小笠原にいないような気がしても、幼児はすくすく育って成長著しいことを、いつも心美を見て気がつくことが多い。


 その手紙を陶器のカフェオレボウルの下から抜き取る。花嫁のベールをしている女性の顔? 隣の丸い男が黄色の髪は俺のこと? つたないイラストからエミリオはそう感じ取った。


 その手紙を見ていて、どうしてか胸が痛む。知らぬ間にため息をついていたらしい。藍子がそっとエミリオのそばへと寄り添って、その手紙を一緒に覗き込んでくれる。


「ココちゃんって、ほんとうにエミルのことが大好きなのね」

「銀次さんにも言われた。心美はおまえのこと友達だと思っているんだって」

「私もそう思う。園田教官も言っていたわよ。心美は何をするにも、いちばん最初にエミリオ君になにかを持って行くとかあげるとか言うそうよ」


 なぜ、心美がそうして『お友達』のように接してくれるのか。エミリオにはわかっていた。


「初めて心美に会ったとき。かくれんぼをしていたんだ。フランク中佐と留守番中で、彼がどこにいるのかと探している時、俺の足下の近くすぐそこのマーガレットの植え込みの中に隠れているのを、素知らぬふりをして協力したことがあるんだ」


 その時のことを、藍子にも伝える。すると、藍子の表情も、どこか苦悶するような影を見せる。


「それ、ほんとうに最初のお友達だと思ってくれたのよ。きっとそうよ」

「銀次さんにも、心美はエミリオは約束を破らない友達だと思っているかもしれないから、結婚式のことはうまく納得させろと言われたよ。小笠原での披露宴をして、藍子もそこでドレスを着てみたらどうだろうか」

「でも、心美ちゃんは、あいちゃんパパのお花のレストランで結婚式をするの素敵と言ってくれるの。美瑛で見られると思っているかも」

「困ったな」


 再度、ため息を落として、エミリオはもらった手紙をそっとカウンターに戻した。


「これ。しばらくフォトスタンドに飾っておこうか。エミルがかわいい親友からもらった初めてのお手紙でしょう」


 素敵なことを思いついてくれる彼女で、エミリオもすぐに笑みがこぼれる。


「いいな。それ。頼むよ」

「そこの渚で貝殻拾ったから、それで飾ってみようかな。あ、ココちゃんと相談しようかな?」

「喜びそうだな。心美はシーグラスも集めていたから、聞いてみるといい」

「それも素敵」


 まだ子供もいないうちから、彼女が小さい子とこんなことを思いつくだなんてと、エミリオはまた彼女が妻になることに幸せを感じていた。


 藍子がシンプルなフォトスタンドを持ってきて、さっそく心美からのはじめてのお手紙を飾ろうとしている。カウンターの見えやすいところに置くときに、藍子がエミリオの顔もみず背を向けたまま言った。


「ねえ、考え直さない? 結婚式のこと」


 彼女が振り向いて、笑顔で言う。


「やっぱり、親友は招待したほうがいいと思うの」


 心にのしかかっていた重りがのいたように軽くなるのがわかった。

 そしてエミリオも気がついたのだ。俺は心美に来て欲しかったんだ――と。でも美瑛まで来てもらうのは忍びない。それにエミリオが勝手に望んだ結婚式は美瑛の家族に負担がかかるものばかりだったから、これ以上の負担をかけたくなかった。だから自分から言い出せなかったのだ。


「城戸准将と園田少佐に相談してみましょうよ。招待したら、来てくださるかどうか。私も、親友の海人は招待する約束しているから。エミルも、ね」

「いいのか……? 招待客が増えたらお父さんに負担が……」

「シェフはどんな人数でも作り上げる能力があるのよ。そんなことお父さんに言ったら、俺のプライドをエミリオはまだ理解していないと拗ねちゃうかもよ」

「うわ、それは勘弁。青地父さんは怒らせたら怖そうだ。しかもまっとうな理由で怒るから、俺の婿ポイントが減るのは必須だ」

「気高いクインの婿ポイントが減るって……! うちのお父さんまで最強になっちゃう」


 藍子が笑い出した。いままで上官で近寄りがたかった男が、両親や彼女の父親には弱くて可笑しいらしい。


 そんなに笑っている藍子へと、エミリオは歩み寄り、薄着でいる彼女を抱きしめる。


「ありがとうな。藍子」


 彼女の肩先にもたれかかり、すぐそこにある首筋にキスをする。

 俺が持っているもの、なんでも大切にしてくれて、考えてくれて。小さな子供のことを『親友』と例えてまで、大事に考えてくれて。


「どうして。エミルだって、私の家族を大事に考えてくれるじゃない。私の親友のことも大事にしてくれるでしょ……」


 藍子の親友はいまは海人。それまでは斉藤だったのだろうが、もう修復も出来ないほどに壊れて、いまは会うには憚る同期生になってしまった。


 いまの藍子の親友だから。その親友が、藍子との関係をこれからも続けていきたいからと、エミリオに託してくれたものが蘇ってしまった。


 いませっかく良い雰囲気になっているのに。心美が和ませてくれた空気をそのままにしておきたくなる。


 いまはやめておこう。この夜、エミリオは彼女と素肌になって抱きあって忘れることにした。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 もういい加減、大きなベッドが欲しいと、エミリオは毎朝思っている。

 今日も自分は裸で目が覚め、隣の彼女も裸。夏の早い朝陽が差し込むベッドで、お互いの肌は汗ばんでいるのに暑くてもくっついて腕が絡まり合って目が覚める。


「もう……朝?」


 窓際、壁際で寝ていた彼女が寝苦しそうに寝返った。

 身体が大きい男に壁へ壁へと押し込まれて、ゆったりとした姿勢で眠れないのだろう。


「藍子、今日は夜間だろ。ゆっくりそのまま寝ていろ」

「うん……、そうする」


 肌にタオルケットを巻き付けて、彼女が背を向けた。綺麗な背中が視界に入り、エミリオはやっぱり我慢ができない。朝陽に艶めく背中にキスをする。


「ゆっくりしてろ」


 彼女が肩越しに振り返って、エミリオの目を見ている。少し疲れた顔をしているのは、仕事のせではなく、きっとベッドに転がり込んできた男のせい。なのに藍子が起き上がる。タオルケットがはらりと胸元から落ちても、彼女はまったく気にしないで、エミリオに抱きついてきた。


「んー、ありがとう……、いってらっしゃい……」


 綺麗な裸体のまま抱きつかれたら、もう一度、エミリオも一緒に眠りたくなる。そんな彼女を抱きしめて、朝のキスを少しだけ。あまり本気になると、遅刻をしそうな時間だったのでなんとか諦めた。




 シャワーを浴びながら、エミリオは唸る。ベッドが欲しい、大きなベッドが欲しい。いまは自分が日中仕事に出ている時に、今日のように彼女が夜間勤務で昼間はゆったり一人きりで眠れる時間があるから、なんとか休息できているに違いない。


 だからといって、俺のベッドを俺の部屋から運び出すだけの業者を頼むぐらいなら、もう大きなベッドを買ってしまったほうがいい? でも、もうすぐ新居を決めるから引っ越してから? でもそれまで何ヶ月?


 簡易ベッドでも買って、空いているもう一つの部屋を俺の部屋にさせてもらおう。シャワーのコックをひねって、エミリオはひとまずの対策だと落としどころを付けて、リビングに戻る。


 なのに藍子が朝食を作っていた。


「藍子、寝ていろと言っただろ。俺のことは放っておいてくれて大丈夫なんだから」

「目が覚めちゃって。食べてからもう一度、寝るね」


 呆れながらも、バスタオルで金色の髪を拭きながら、エミリオはカウンターの椅子に座る。

 水色のキッチンで料理をしている彼女を見つめ、エミリオは話しかける。


「藍子、新居のことなんだが。早めに決めたい。十二月の航海に出るまでには引っ越したいんだ。ここに入ったばかりで申し訳ないけれど」

「うん、大丈夫よ。いつ異動してもいいように、そんなにたくさんの荷物はないって知っているでしょう。ここの2LDKも一部屋空いちゃってるじゃない。エミル、自由に使ってくれていいのよ」

「そこに、俺専用の簡易ベッドを入れてもいいか」


 藍子が驚き、料理をしている手を止めてしまった。


「どうして……。私と眠るとやっぱり疲れちゃうの?」


 ここ数ヶ月、ずっと彼女のベッドを占領して迷惑をかけてきたのにとエミリオは思っていたのだが、彼女はそうではなかったらしい。エミリオもほっとする。いや、そうじゃない。


「お互いの体力温存のためだ。俺だって、毎晩でも藍子に触れて眠りたい。でも、あのシングルではだめだ。俺はいい。でも藍子は不規則なシフト勤務だ。疲れを取ることは、俺たち防衛パイロットには大事なこと。事故を起こさないために、自制することも大事だと思っているんだ。上官としてではない。藍子に事故を起こして欲しくないんだ」


 いまがいちばん熱く愛し合いたくてどうしよもない時期だから、余計にどこかでブレーキをかけなくてはいけない。藍子に甘えて、いつまでもずるずると過ごしていたのはきっと自分のほうだとエミリオは自覚する。


「そんな、寂しいわよ……。エミルの熱い皮膚が匂いがそばにあるのが、私の癒やしなのに」


 ああ、もうどうして、そんなすぐに抱きつきたくなることを、そんな女らしい寂しそうな顔で言ってくれるのだろうかと、エミリオの胸が締め付けられる。


「引っ越したら、そこでは大きなベッドでふたり一緒だ。毎晩だ。いつでも一緒だ」


 俺……、なんか凄いことを口走っているぞ……とエミリオはハッと我に返った。藍子のせいだ。そんな顔をするからだ。


「わかった。私も、エミルに事故に遭って欲しくないから……。付き合い始めたばかりで、私、盲目になっちゃっていたのかな。ごめんね。気がつかなくて」

「藍子じゃなくて。俺なんだよ、俺。遠慮もなく彼女の家に毎日毎日帰宅してくつろぎまくって、しかも、その、」


 気が向けば何度も。どれぐらい彼女と夜の睦み合いを繰り返してきたことかと、エミリオも口をつぐむ。


「あ、失敗しちゃった。エミルが好きなオーバーイージー……」


 半熟よりもさらに生ぽい黄身がオーバーイージーの特徴で、エミリオが子供のころから食べてきたもの、母の朝食だった。話している間に火が通り過ぎたらしい。


「よくあることだ。母も今日は失敗しちゃったとよくおどけていたよ。そのままでいい」

「海人に教わったのに。横須賀の御園のお祖父様がオーバーイージー派なんですって」


 海人の話になって、エミリオは昨夜、ひとまず横に置いてしまったことを思い出す。

 カウンター席に座ったまま、しばらく思いあぐねていたが、エミリオも決する。


「藍子、海人のことなんだが……」


 失敗したオーバーイージーの目玉焼きやベーコンを皿に載せている藍子も、ふっとため息をついた。


「海人、あれからちょっと様子が違うの。もちろん、先輩の菅野さんと城田さんと話してそっとしているのよ。明るい様子はいつもどおりなんだけれど、時々、ふっと寂しそうな顔を見せるの。あんな海人、初めて。それでも、私、そっとして海人が元に戻るか、話してくれるまで待ってる。でも……、なにか力になれないのかなってもどかしい……」


 もういま言うしかないと、エミリオは告げる。


「昨夜。その海人も一緒だった。海人に頼まれた。実家の事情を『すべて』、藍子さんに話したいと――。その時、俺に付き添って欲しいと言われた」


 また藍子が動きを止めた。持ってこようとしていた皿を再び置いてしまう。


「すべて……? ……聞いてもいい? それをエミルは知っているの?」

「ああ、知っている。御園のそばで仕事をするには大事なことだと、サラマンダーに異動する前に横須賀の司令から聞かされた」

「それほどのことなの!? 御園のおうちだけのことではない、軍隊の中でもってことなの」

「それほどのことだ。御園が自分たちから告げるには、心を痛めるほどの事情があってのことだ。しかも軍隊が絡んでくる事情で複雑なことだ。これから藍子が軍人としてここで働くにも、海人と付き合っていくにも大事なことだ」


 藍子が青ざめたように、エミリオには見えた。


「……わかった。海人に連絡してみる」

「日時がわかったら教えてくれ。俺も付き添う約束をしている」


 それにも藍子がゆっくりと不安そうに頷いた。


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