66.婿、食べてみろ
「なに、これ。言ったよね。私たちには構わなくていいよって」
エミリオも驚いて妹夫妻に慌てて向かう。
「俺がラベンダー畑が見たいがために、この最盛期のお忙しい時におしかけてしまったのに。こんな」
でも妹の瑠璃も篤志もにっこりと顔を見合わせ微笑んで、藍子とエミリオに言った。
「これが、我が家のご挨拶なんです。瑠璃と義父と義母と僕たちで決めたことです」
「父は料理人です。自分が出来るいちばんのことで知って欲しいんだと思います。娘の私からも提案しました」
そして妹と義弟が並んで、そっとお辞儀をしてくれる。
「お姉ちゃん、エミリオさん、結婚おめでとう」
「藍ちゃん、エミリオさん、今後もよろしくお願いいたします」
妹夫妻からのお祝いということらしい。
歳が近い妹に祝福されるのは嬉しい、でも姿のない父がこんな準備をして待っていてくれたなんて……。
「お父さんは……」
「もう厨房に立ってる。私たちもいまからお客様をホールに迎えなくちゃいけないから」
「だから、忙しいならいいから」
「だめだよ。藍ちゃん。これがお父さんの、エミリオさんに対する挨拶なんだから」
藍子が戸惑っていると、エミリオが妹夫妻に告げる。
「わかりました。有り難くいただきます」
父からの真っ正面のもてなしを受ける覚悟をしてくれたようだった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
パッチワークの丘が夕暮れる時間。
朝田家の庭に咲く白いハマナス、ちいさく揺れるラベンダーも茜に染まり始める。
そよそよと草花が揺れるのが見えるテーブル席で、藍子とエミリオと海人は厳かな気持ちで席に着く。
藍子の向かいにエミリオ、隣には海人が。服装は来た時のままラフでも、気持ちがフォーマルになっている。
そして目の前のエミリオの表情も堅い。父の料理を真剣に食す心構えが見て取れた。生真面目な彼らしい雰囲気になっている。
「なんだか俺も一緒で良かったのかなと今更ながら思っています」
「いいのよ。海人は立会人の気持ちでそばにいて」
「それはもう、既にその気持ちですけれど」
どちらかというと、いまのテーブルの空気は重い。海人にもひしひしと伝わっているのだろう。
これは父とエミリオの目に見えない大事なコンタクトだということを。妻になる藍子が見守るのは当たり前として、仕事仲間としてついてきてしまった自分もここに居ていいのかと海人は思っている。
時間になり、妹夫妻が料理を運んできた。
「お待たせいたしました。どうぞお召し上がりください」
「ごゆっくりどうぞ」
藍子もオーベルジュで出している正式なメニューをいただくのは初めて。父の賄いのような料理ならいくらでも分けて食べさせてもらってきた。海人もシェフの裏側メニューを楽しみにしてたはずなのだが、ほんとうにお客様のおもてなしそのものの食事が始まった。
「アミューズ 夏のトマトゼリー寄せです」
まさかのアミューズから出てきた。
「えっと、あの、お店とコースが違う気が」
「お父さんの本気だから受け取って」
妹にそう言われ、藍子も本格的な順序で始まった父のコースに向かう。
「うわ、もう見た目だけで美味しそうだ」
食いしん坊の海人はもう目を輝かせていて、重い空気もどうでもよくなったような嬉しそうな笑顔。
エミリオは真剣そのもの。
「いただきます」
ナプキンを広げ、カトラリーに手を伸ばす。静かに黙って、丁寧に。赤いジュレに近いゼリーを掬い口に運ぶ。
味わっている目が怖い。少佐の目なんですけど……。演習の時のクインの目なんですけど……。逆に藍子はそんな戸塚少佐になっているエミリオを前にヒヤヒヤしている。
「うまいです。トマトの旨みを感じます。トマトの実をほおばるより舌に柔らかく残ります」
味わった感想をきちんと細やかに給仕をする妹夫妻に伝えるその真摯な姿。瑠璃と篤志も少し驚いた顔をして、でも、やはり嬉しそうにしている。
「父に伝えますね」
そうして、オードブル、スープ、ポワソン、ソルベ……と本当に続いた。
その間、小笠原のパイロットの三人は和気藹々と食べながら話すということをしなかった。
海人はまさかの大好きなシェフのコース料理を真剣に味わっていて、藍子も父の気持ちを感じながら、エミリオに至っては父から飛んでくるなにかをずっしりと受け止めている顔。ほんとうにアグレッサーのクインとして空を飛ぶ前と同じ顔で食べている。
それでも三人で、目の前に新しい皿が来ると『おいしそう』、『綺麗』、ひとくち頬張っては『おいしい』と微笑みあう和やかさもあった。
少しずつパッチワークの丘が薄闇に包まれる中、ほのかなキャンドルライトだけの夏夜のディナーは静かに進む。
藍子の父親からのご挨拶。
藍子も初めて父の渾身の料理を口にして……、涙が出そうになってきた。
そんな藍子に海人もエミリオも気がついてくれる。
「俺、藍子さんがどうやって育ってきたかわかりますよ。これからも俺は、どんな時も藍子さんの相棒ですからね」
「藍子。俺もだ。こんなに心が穏やかに静かになれる食事は初めてだ。そしてこの食事の向こうに藍子が見える。お父さんがそう見せてくれているんだ」
静かに黙って味わう男たちと娘。藍子ではなくて、妹の瑠璃が給仕をしながら先に泣いていた。それをそっと寄り添ってくれる篤志との姿も、既に力を合わせて気持ちを通じあわせている夫妻として姉の藍子に見せてくれる。
ソルベもアントレも、最後のカフェ・ブティフールも、富良野に美瑛、そして道内の食材にこだわったものばかりだった。
カフェ・ブティフールを味わいながらも、夜の帳にとけこむ美瑛の風情につつまれ、やっと三人で会話が弾み始めた時。ゲストルームのドアが開いた。
コックコート姿の父が静かに入ってきた。
「いらっしゃいませ。藍子の父です」
エミリオだけでなく、海人まで立ち上がった。
「たいへん美味しくいただきました。初めまして。戸塚エミリオです」
「以前も上司と宿泊いたしましたが、本日のシェフからのコース料理をいただける幸運に打ち震えています。藍子さんと同じジェイブルーに搭乗している御園海人です」
「娘がお世話になっております。本日はゆっくりとお話しができないため、このような席にさせていただきました」
父とエミリオが、そして海人が握手を交わした。
篤志が父が座る椅子を置いてくれると、父もそこに落ち着いた。
エミリオと海人も静かに座る。
「朝田
それを聞いてエミリオが、はっとなにかに気がついた顔になる。
「だから。藍子さんに、瑠璃さん……ですか」
父親も青、娘の藍に瑠璃。色で繋がる父娘。それに気がついてくれたせいか父が嬉しそうに微笑んだ。
「そうです。彼女たちも自然の中にあたりまえに存在するような自分だけの美しい色を持つ女性であって欲しいと思いつけました」
「そのままだと思います。妹さんとは本日初対面でしたが、藍子さんとおなじで自然のまま美しい。あ、あの、見目だけのことではなくて、その空気感というのでしょうか……」
珍しくエミリオがなにかに興奮しているように見えてしまった。それを父は静かににっこりして聞いているだけ。
「ありがとう、戸塚君」
父は穏やかな人であるのは間違いない。でも娘の藍子は気がついていた。顔は笑顔でも目が笑っていない。
海人もそれに気がついているのか、いつもの調子の良い軽口も出さないでじっと大人しくしている。そんな相棒を見て藍子も気がついた。そうだ、御園隼人准将と同じような顔? だから海人も『あれは父親の顔』と思って余計なことはしないよう黙っているのかもしれない。
そんな父の眼差しは、戸塚少佐たるエミルにも気がつかれていた。
「お料理、美味しくいただきました」
「ありがとう。不味いものなど出すつもりはありませんからね。美味くて当たり前なんだよ」
『美味しいだなんてご挨拶はありきたり』とでも言いたそうで、エミリオが戸惑った顔を見せた。
えー、お父さんがそんな意地悪く仕掛けて来るだなんて、藍子は泣きそうなってくる。こんなの私のお父さんじゃないと言いたい。でもこれが娘を欲しいという男に対する父の態度? 篤志君の時はどうだったんだろう? 数年前に結婚の報告を聞いた時、瑠璃からはなにも相談されなかったと思う……と、藍子は必死に思い出すがなにも思い当たらない。
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