13.なにもかも、忘れさせて


 海辺の彼の自宅、潮騒が聞こえるベッドルームで、藍子は制服を脱いで素肌になる。


「思った通り。綺麗な背中だな」


 はっと気がつくと、藍子の後ろから濃い男の匂いが漂い、背中に熱い皮膚が重なった。そして藍子の両肩をすっぽりと腕で囲い抱きしめ、黒髪にキスをされたのがわかった。


 いつも彼から匂うあの香りが藍子を包む。なんだか目眩がしそうだった。甘い匂いをしているくせに、男の身体の濃厚な匂いもこの人は持ってる。美しい顔をして『クイン、女王様』なんて良い意味で揶揄されているけれど、ほんとうは途轍もなく男っぽい人なんだと、どうしようもなく感じさせる。


「俺は遠慮しない」


「ええ、もちろんです。だから、忘れさせて……」


 耳元に熱い息がふりかかり、そして熱いキスをしてくれる。それは乱暴ではなくて優しく、そして男の渇望を押しつけるようなものではなく、ほんとうに藍子のためのキス。そう感じられた。


 初めてかもしれなかった。こうして男が藍子を優しく抱きしめてくれるのは。藍子も女だと感じさせてくれる触れ方、扱い方。


 そしてこれは、ひと晩だけの関係、今夜だけ女にしてくれる。


 耳元や首筋を優しくキスしてくれていた彼の唇は、藍子の口元まで来ていた。そこにきてやっと藍子は肩越しにいる濃いブロンドの男を見上げた。


 藍子も迷いがない眼差しで見つめる。今度の彼の翠の目は少し翳っていて、森の湖水のよう。藍子から目をつむると、そのあとすぐに男の熱い唇が重なった。


 濃い男の匂いとあのトワレの香り、そしてゆっくりで優しい、でも濃厚なキス。やっぱり日本人とちょっと違うと思ってしまった。両親のどちらかがアメリカ人だったはず? ふとそんなこと、彼の私生活を初めて気にしてしまう。


 男になっても彼の手も優しく、唇もずっと藍子の肌のあちこちをキスしてくれて……。こんなに優しく愛されたら、藍子の肌も熱くなってくる。


「藍子、約束だ」


 俺を愛してくれるという約束を、彼は覚えていて、冗談なんかじゃなかったから、藍子からもそうしてくれと望んだ眼差しを注がれる。


 藍子は約束した覚えはない。でもこんなに優しく愛してくれる男の人なら、藍子も惜しまない。何度も頭の中に過ぎるが、これは一晩だけの、一回限りの睦み合いなのだから。


 藍子からも、彼の首筋にキスをしてみる。

 彼がふっと笑いながら、でも感じてくれているのか深い吐息を吐きながら堪らないと言いたそうな顔をしている。


 そんなクインを見つめている藍子も思っている。いつも意地悪で、でも素晴らしい腕前のアグレッサーで、きっちりと悪役が出来る優秀な人であるのに、男の匂いを忍ばせて甘い匂いを漂わせて、美しい瞳と顔で『モンキーちゃん』と藍子にはいつも口悪い。そんな男と仕事で度々一緒になる。接触する。指導してもらっている。相手は火蜥蜴という無敵のヒールだ。綺麗な男ってだけで絆されてたまるか。絶対に気を許してはいけない。綺麗な男に徹底的に打ちのめされても、喜んじゃいけない。こいつは嫌な男なんだから。そう言い聞かせてきた。


 それでも、やっぱり『素敵な男の人』。今夜の藍子は抗えそうになかった。だから……、今度は、藍子から彼の唇にキスをした。


 クインが嬉しそうに微笑んでくれる。藍子の泣きぼくろがある目元を彼がそっと撫でる、また黒髪にキスをしてくれる。


「黒髪、やわらかいな。おろしていると……、綺麗だ」


 今度は藍子が驚いて目を見開いた。


 こんなふうに優しく言われたことがない。でもクインなら当たり前の、女と寝る前の優しさなだけなのかとも思えてしまう。


 それでも藍子は嬉しくて、また涙を浮かべてしまった。


「藍子……、そんなに哀しいことばかりだったのか」


 彼がまた逞しいパイロットの胸に抱きしめてくれる。藍子もつい、つい……、甘えるようにその胸に頬を埋めてしまう。そのうえ抱きついて涙を流すだけ流してうんうんと涙声で頷いてる。


「はやく、はやく……、忘れさせて」


 なにもかも。約束通りに。そのベッドに私を放り投げて、なにも考えられなくなるまで激しく抱いて。


 クインの匂い嫌いじゃない。本当は男らしくて、美しくて、素敵なことはわかっていた。でもあなたは遠い人。だから今夜は知らない夜にいる知らない人。明日になったら、あなたは意地悪なサラマンダーにもどって、またお猿のアイアイを容赦なく叩きのめす悪役に戻るの。私も力ないカケスに戻るの。


 ベッドの上で肌と肌を重ねている間、彼のベッドルームには月の光がこぼれて、潮騒も聞こえた。日本じゃない、小笠原じゃない。なんとなくアメリカの海辺の町のような、藍子にとっては夢の中に迷い込んだ感覚だった。


「しょ、少佐・・」

「その呼び方、やめろ」


 そう言いながらもアグレッサーとして藍子を威嚇する格上パイロットの怖い目を見せている。


「そっちだって……、訓練の時の目、」

「それだけ真剣だってことだろ。こっちでも撃ち落とすから覚悟しろ」


 いつもアグレッサーの彼にコーチをされている身分のせいか、クインの本気の目で睨まれて、藍子はかえってゾッとしてしまった。


 トカゲの獲物。長い舌を獲物に伸ばして絡めて、力ないカケスは逃げられずにいたぶられるだけ。

 でもそれが、こんなに熱くて狂おしくて、だから『逃げることなんてできない』。

 本当に撃ち落とされる。空でもベッドでもクインは同じ。藍子は為す術がない。


 ほんとうに撃ち落とされた。いとも簡単に。こんなふうに素直に感じるのも初めてだった。


 涙がいっぱいこぼれていた。女の歓喜の涙だけじゃ。いままで卑下していた自分のなにもかも、今日までのしかかっていた重い心情のなにもかも、綯い交ぜになって溢れてくる。


「大丈夫か、藍子」


 自分の責めに堕ちた藍子を見て、少佐がまた黒髪を撫でてくれる。


「今夜だけ、俺と藍子は恋人同士だ」


 今夜だけ。そういってくれたから藍子も気が楽になる。こんな美しすぎる男とこれからどうかなるなんて自信が無さすぎてきっと辛くなる。


 今夜だけの夢、今夜だけ甘さ、今夜だけの熱愛。

 藍子も彼の首に抱きついて、彼の頬にキスをする。


「藍子、…」


 彼のくぐもった声、耳元で藍子藍子と囁かれる。


「少佐……」


 やっぱり馴れ馴れしくあの麗しそうな名前で呼べない。けれど、熱く重なる男の身体と皮膚と匂い、体の重さ、熱い唇と、優しかったり意地悪な指先、目の前にいる男のなにもかもを感じて、藍子は目を閉じる。


 遠い波の音、彼の胸の下で見上げて見えるのは、窓辺の南の星。今夜は恋人同士だから、藍子もなにもかも忘れて、女になる。





 しっとりと汗ばんだ肌を、涼しい夜風が撫でていく。

 二月なのに温暖な気候の島。まるで常春のようだった。


 途中、会話をする間があって『泣いていた理由が今後の業務に差し支えることならば、いま言え』と追及された。もちろん藍子は上官だからこそ口をつぐんだ。


 なのに、あの上官口調で『言え、藍子』と攻め落とされるかのようにして、ついに『相棒の妻が自分を嫌っている』ことを話してしまう。そこから始まる相棒との気持ちのすれ違い、願わないことを相棒が願っているがために男性を紹介され、ダイナーで会っていたこと。彼には結婚を望んだ女性がいてまだ公表前だったこと、それが言えないがために祐也に責められたことを話した。


 その時の戸塚少佐の反応が少し気になった。『なるほどな。腑に落ちた』とだけ呟いて、藍子が『どういうことですか』と気にしはじめた途端に、またキスをされて身体を愛されて流されてしまった。


 常春の島、止まない熱愛の一夜。少しだけ微睡んでしまい、目が覚めると隣には逞しい男の背中があって、その人は静かに眠っていた。


 藍子はそっと起きあがり、床にちらばっている制服を拾い、息をひそめて身支度をする。


 薄暗いリビングに出て、窓辺から見える海がもうすぐ夜明けを迎えることも知る。そっと玄関へ向かう。


 ドアを開けて、でもこのまま出て行って良いのか考えあぐねながら制服の革靴を履いた。


「黙って帰るのか」


 その声に驚いて、暗がりの玄関の中、藍子は振り向いた。ラフなスウェットパンツだけで上半身は素肌のままの少佐がそこにいた。


「申し訳ありません……。でも、もう……」


 充分、忘れさせてくれた。甘い朝はいらない。あってはいけない。藍子はそう思って戸塚少佐に背を向けた。


「ちゃんと飛べよ」


 どうしてだろう。女として良かったとか、いい夜だったとか言われるよりも、藍子の胸にジンと来た。


 そうしてまた涙を堪えていると、靴を履いた藍子の目の前に、素肌の戸塚少佐が立ちはだかる。


 そして抱きしめられた。ここに連れてきてくれたように。一晩中、そうしてくれたように。彼の肌にはまだあの匂いが残っている。濃厚に。


「またな。空飛ぶ火蜥蜴として待っている」


 今度はまたアグレッサーの仮想敵訓練、演習で。しっかり気持ちを整理して、きちんとパイロットとして空を飛べ。そう言われている気がして、藍子は少佐の胸元でうんとだけ頷いた。


 彼はそのまま見送ってくれた。ひと晩だけの相手に相応しい、余韻の残らない別れ。


 この海辺の住宅地に来る時は、彼のバイクに乗せてもらってきた。


 藍子はこの住宅地から出ている海岸線バスの停留所に向かう。空に薄い黄金が滲みもう夜明け。バスの始発が出るころだった


 潮風のバス停でひとり座っている間も、藍子の黒髪や首元、胸元からあの匂いがたちこめてくる。シャボンとベルガモットと、男の体臭。彼の髪の匂い。

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