12.俺の家に来い


 路の脇は綺麗な芝生や花壇、幸せそうな白い平屋が並ぶ住宅地へ連れて行かれる。


 やがてキャンプ内にある小さな公園に辿り着く。子供達がいなくなった暗がりの公園、そこのベンチに座らされた。でも戸塚少佐はいつもの威圧感ある眼差しで、藍子の目の前に立ったまま睨んでいる。


「なんですか、こんなところに連れてきて。私はもう宿舎に帰るところだったんです」


「そんな顔でか」


「小笠原の女子宿舎で顔見知りもそんなにいませんから、誰にも会いません」


「そうではなくて。その顔で泣いた後も、泣いた気持ちのまま岩国に帰るのか」


 痛いところをつかれ、藍子は黙り込んだ。


 藍子だけベンチに座って、彼は詰問するように見下ろしていたのに。急に、藍子の顔をそっと覗くように芝に跪いた。そして藍子を案じるような、いままで見せたことがない優しい眼をしている。


「藍子、そんなに泣くなんてなにがあった。まさか今日のエリミネートのことか」


 初めて名前で呼ばれたことにも、藍子は息を引く。いつもの少佐ではなかった。


「それもあります。でもエリミネートは納得しています。ただ……、情けないだけ」


 跪いている彼が藍子から顔を背けて溜め息をついた。


「アイアイはあれでいいんだ」


 慰めてくれているんだと藍子は思った。でも戸塚少佐らしくない労りにも感じた。彼なら、クインというアグレッサーパイロットならもっと手厳しいことを突きつけてくるイメージがある。それが藍子の中でも『嫌いでも』敬意を感じている彼のエリート気質でもあったから。


 そんならしくない戸塚少佐は、プライド高いエリートパイロットの雰囲気がなくなると、ちょっと年上の大人の兄貴にも見えてきた。


 だからって藍子はそこに甘えようとは思わない。


「ありがとうございます。クインさんにそういって頂ければ、今後も岩国で自分らしく任務に励みます」


「で、エリミネートはある程度納得しているなら、藍子を泣かせる他の原因はプライベートてことだな」


 まだ突っ込んでくる。それ以上はこの気高そうなクインさんに触れてもらうつもりはないため、藍子は話を切って別れようとした。だが戸塚少佐のひとことで藍子は立ち上がれなくなる。


「カープのことか」


 ズバリと当てられ、藍子は目を見開く。戸塚少佐が図星か苦笑いを見せた。


「ち、違いますから」


「ずっと前からだろ。わりと、わかりやすいんだよアイアイは」


 えー、うそ!! 藍子は顔を覆いたくなった。ひた隠しにして誰にも言わない相談しない、ずっとずっと片想いの彼の隣で秘めてきたのに!?


「少なくとも、俺にはそう見えていた」


「私! そんな気持ちをあからさまに見せたことありません!」


「気がつかぬは本人ばかりか。アイアイのクールな泣きぼくろの顔つきは男の間でもけっこう話題になるんだよ、でもカープにだけは違う顔になっている。女の顔だと俺は感じていた。だとしたら、カープが結婚してから辛いんじゃなのか?」


 初めての第三者という言うべきか。そんな部外者みたいな人に初めて外から見られている自分がどのような顔なのか言われ、藍子は改めて自覚した。


 やっぱり。周りがそう感じたなら、妻の里奈が感じ取って藍子に強い警戒と嫌悪を持たせてしまっても仕方がなかったのだと。


 私のせいだ。


 心底、自分で認めた途端、涙がどっと溢れてきた。


「やっぱり……、そうなんですね。そう見えてしまっていたんですね、私のせいだ」


 大人になってからこんなに胸が痛くて、こんなに大泣きをするのも初めてだった。声をしゃくりあげながら泣いていると、そこにいた戸塚少佐の大きな手がそっと藍子の手を握ってくる。


「ずっと我慢していたんだろうな。一緒に空を飛んでいるならなおさらだ」


「も、もしかして……。他に気がついている方もいたのでしょうか……」


「いや、俺のまわりではいない。藍子の話題になるとしたら、アイアイとしてだ」


 それには安心する。とめどもなく流れていた涙がふっと止まった。


 その時、戸塚少佐が思わぬことを言い出した。


「俺の家に来いよ」


 藍子はぎょっとして、自分を恭しく見上げてくれている戸塚少佐を見下ろした。


「いえ、あの……」


「俺は今日むしゃくしゃしている。だから酒を飲みに来たわけだが、女が抱けるならバカみたいに抱いて忘れたいことがあるぐらいだ。藍子も一緒にどうだ」


「え、え……、な、なに言ってるんですか。私……じゃ、ダメですって」


「俺が誘ってる。そもそも、むしゃくしゃしているのは藍子、アイアイが原因だ。わかるだろ? おまえ、今日、俺のキャノピーの真上をすり抜けていったんだからな」


 それがむしゃくしゃしている原因? つまりアグレッサーのプライドを傷つけたということらしい。


「その時、アイアイ。俺と目があっただろ」


 藍子の胸がドキリとする。藍子もそう思っていたから。


「いつも俺を睨んでいるクールな泣きぼくろの目元がコックピットから見えた、いや正確には脳裏に」


「睨んでいるって……。戸塚少佐がいつも私のこと、お猿のアイアイって言うから」


「生意気なお猿のアイアイが、クインの頭を踏んづけてひょいっと飛んでいった。サラマンダーの俺を踏んづけて、むかつくな。この悔しさは忘れないぞ」


 ほら、こういう言い方がエミリオ戸塚らしい。クインの気高いプライドが格下の藍子を『猿』と喩える。それが彼にふさわしい言い方。いつもは腹が立つのに……、また藍子の目から涙が出てくる。


 それは少なくとも、パイロットとしてエリミネートという結果を出したとしても、アグレッサーのパイロットに認めてもらえたと思えたからだった。


「来い、藍子。なにもかも忘れさせてやる」


「強引すぎて……、嫌です」


「ん、じゃあ。この柔らかい手で俺を抱いてくれ」


「……ちょっと間違ったらセクハラですけど」


「じゃあ、いまここでネクタイも肩章も外す。これで一人の男だ。むしゃくしゃして適当に女と寝たがるいけすかない男、後腐れもない、ひと晩だけの男だ。好きなようにしてやる。明日になったら掃いて捨てろ。俺はなんとも思わない」


 気高いクインがここまで言ってくれる。いいや違うと藍子は首を振る。これが彼の常套手段? 自分が下手に出て女性上位で主導権はおまえと見せかけて、でも俺も女には適当、同じように掃いて捨ててやると、やっぱりプライド高いこと言ってんじゃないの? そう聞こえないのが凄い、こうして女を落としてきたのかと思った。


「まあ、宿舎で涙に濡れて独り寝をする藍子を想像しても、そそられるけれどな」


 今夜も小笠原の海には月が昇っている。昨夜もそうだった。慣れない出張先である基地の宿舎で、素っ気ない寝具で眠るのはとても寒々しい。それをまた明るくて大きな月がこれでもかと一人きりの藍子を照らしていた。確かにそういう侘びしさがあそこにある。


 岩国に帰ったら、祐也が望むとおりに、折りの合わない彼の妻、里奈と向きあって誤解を解かなくてはならない。誤解ってなに? 里奈が望んでいることはわかっている。『夫を女の目で見ながら仕事するな。そう思って家で留守を守っていると許せない。私の願いは、夫を完全に忘れてくれること。離れてくれること。ペアを解消してくれない限り、許せない』に決まっている。


 また藍子の目から涙が溢れてくる。女にはなれないことはもういい、でも最高のパートナーを手放すことを考えなくてはいけないなんて辛い。もうどうしようもなかった。


 跪いていた戸塚少佐が、藍子が座っているベンチの隣にやってきて、泣いてばかりいる藍子をそっと抱き寄せてくれる。


 月の光に、今日は明るいダークブロンド、夜空より明るい翠の目、そしてシャボンとベルガモットの香り。


 もうなにもかも忘れたい。ほんとうになにもかも考えられない夜にしてくれるの?


 くぐもった涙声で藍子はそう呟いていたらしい。


 彼も言った。『もちろん』。力なく立ち上がった藍子を、戸塚少佐はここに連れ去ってきたように力強く抱き寄せ、海辺の彼の家まで連れて行ってくれた。




 ―◆・◆・◆・◆・◆―




 美しすぎるパイロットと呼ばれる彼は綺麗な顔をして、でも男らしい体つき、気高い眼差しで、まさに『クイン』というべき男だったかもしれない。


 少し甘い匂いはユニセックスな香りのトワレ、なのに彼がシャツを脱ぐとそこには浅黒く焼けた肉体的な男性が現れる。


 女王というタックネームを持つ、『美しい男』という根付いたイメージとは裏腹に、彼の自宅はハードなアメリカンスタイル。男らしい自宅。どこか違う国の海辺に来たように藍子は錯覚してしまった。


 でも好都合だった。ここは私が日常生活を送っている日本でも、国際的な基地、研修先でもない。ここはどこか遠くの知らない場所。


 家に入って、彼の趣味の空気感が漂うリビングへ、さらにその奥のベッドルームに迷いなく連れ込まれた。


 窓を開けると潮騒の音。海が目の前。そしてここは、独身男にはちょうど良さそうな、海外風の白い平屋が並んでいる海辺の住宅地だった。


 その窓から潮風が入ってくると、戸塚少佐から制服のネクタイをほどき、シャツのボタンを外して、浅黒い皮膚と鍛えている胸元を晒した。


 なんの躊躇いもなく彼からネクタイをほどいてシャツのボタンも外して、胸元を露わにしたので、藍子もなにも考えずに自分からネクタイをほどいた。


 人に会うからと汗くさい女にならないようにとシャワーは浴びてきたけれど、まったく予測していないことで、そのまま洗い立ての身体を差し出すことに。


 藍子の背後でエミリオ戸塚はもうスラックスも脱いでしまっていた。藍子も恥じらいなんかない。どちらかというと投げやりだった。


 女らしくないからと、恥じらいに見てもらえなかった。細身でも鍛えている女は女らしくない。恥じらいが『気取った顔をしているのに、気持ち悪い』と笑った男もいた。男に恥じらいなんて見せても意味がないことを藍子は知っている。だから、潔く脱げる。


 制服の白いシャツ、ネクタイ、下着もすべて自分から取り払った。

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