第11話

 ドアを開けた幸也君の後ろから、私は室内を覗き込んだ。あまりの光景に唖然あぜんとした。


「何、これ」


 さして広くもないプレハブ小屋の中は、壁にも床にも、たくさんの絵画がひしめきあっていた。色、色、色。鮮烈な色の洪水。描かれた人物が、静物が、風景が、互いの存在感をぶつけ合い、干渉し合っている。

 私は軽いめまいに襲われた。あらゆる別世界へと至るターミナルともいうべきポイントを、自分が訪れているような錯覚に陥った。それぞれの絵画が窓となって、学園の片隅に無限の地平を作り出している。どの絵からも、多種多様な想念が滲み出して、狭い室内の空気をより濃密なものへと変えている。

 部屋の中央に作業着の後姿があった。朝の、あの用務員さんだ。振り返った彼は、まるで叱られた子供のような顔をしていた。きちんとお片付けしなさい、と言われたばかりのような。


「……あとから来る二人っていうのは、君たちのことだったか」


 招かれて、私たちは部屋の中に入った。遅かったわねという声に振り返ると、入り口側の壁にもたれて雅美さんが立っていた。腕組みをして、整った顔には微笑みと余裕、そして真剣な眼差し。


「雅美さん、これって……」


 何から聞けば良いのか分からない私に、彼女はただ頷いてみせた。壁を離れて幸也君と並んだ。私の目の前で、美しい双子が初めて寄り添った。

 異世界への入り口に立った不安定な私の目は、誰も会ったことがないはずのアダムとイヴの姿を、彼らの姿に重ねた。今日という一日が私に与えた混乱、混迷、混沌。それらすべてが一つとなり、二人の手で新しい世界が形作られようとしている。そんな予感が確かにあった。


「ディテールはまだ、私も伺ってないの。三人で聞きましょう。どうして美術室の絵を盗んだりしたのか」


 核心を突く雅美の声に、けれど用務員さんは動じなかった。彼は平積みにしてあった未使用のカンバスやパレット、水の入った容器や絵の具、散らばった絵筆などをせっせと片付け続けている。

 そのうち、どうにか私たち三人が近寄れるだけのスペースが空いた。入り口からすぐの場所にがあって、そこから先は全面畳敷きになっている。靴を脱いだ私たちは、彼が作ったスペースに並んで腰を下ろした。

 私と幸也君が来る前に、雅美さんとどんな話をしていたのだろう、こちらを向いて正座した用務員さんは、手近なカンバスを一枚取って、それを見つめたまま告白を始めた。


「美術の非常勤講師ひじょうきんこうしをしていたんだ、私は。三年前まで、ある中学校で。何度か県展に出品した経験があるくらいで、たいして優れた絵描きではないんだけれどね」


 用務員さんはそう言って白髪頭を掻いた。カンバスを見つめる目には、懐かしい写真を見ているような光があった。


「君たちの、一学年下になるのかな。高校は違うが、私には孫がいる。女の子だ。私はその孫にも、時間を見つけては絵の指導をしたりしていた。当時は本当に充実していた。今とは比べようもないくらいに」


 しばしの沈黙があった。用務員さんの瞳の色がかげった。


「……ある日、孫の作品が、あるコンクールの審査会場で注目を浴びた。良作だということで二次審査まで通っていたんだが、そのとき注目された理由は、作品の質がどうこうということではなかった。構図も色使いもほとんど同じ作品が、主催者側の人間の手で持ち込まれていたからだった」

「どうして、そんなことが?」


 雅美さんが先を促す。用務員さんは苦い顔で首を振った。


「そのときは、私にも分からなかった。分からないまま、どういうことだと私はいきどおった。自分の孫が懸命に絵に取り組む姿を、私はこの目で見て知っていたんだからね。構図や色遣いを真似られた、盗まれたんだと思って腹を立てた。孫の大事な作品が盗まれ、あろうことか同じ審査会場に、それも主催者側の手で持ち込まれたんだ、と」


 用務員さんの眉間に力が入り、ただでさえ深い顔のしわがいっそう深くなった。


「強く抗議したんだ、私は。作者に会わせろと審査会場で怒鳴った。少しして連れて来られたのは、孫と同じくらいの年の、それはそれは美しい女の子だった。女の子は私を睨み返して一言、『グズなおじいさんね』と言った」

「大安堂玲華ですね。当時の関係者に話を聞いて、確認は取れています」


 幸也君の言葉に私は息を呑んだ。けれど、と彼は続けた。


「けれど大安堂は、実際のところ、お孫さんの作品を盗んでなんかいなかった」

「え?」


 私はつい疑問の声をあげてしまった。用務員さんがうなずいた。


「そう、絵を真似たのは、私の孫の方だった。……三年前、すでに大安堂さんは超が付くほど有名な美少女で、彼女のいわゆるファンというのは男女問わず数多くいたわけだが」


何でもないことのように話される、その言葉の中に垣間見える大安堂の存在感。彼女は昔からそんなにすごかったわけか。


「そのファンの中に、私の孫もいた。孫は、よその中学校だったが、美術部に所属していた大安堂さんの元をわざわざ訪ねて、彼女の絵を写真に収めて、それを真似て、同じ作品を描いていたんだ。強い憧れからだった。盗むだなんて、そんな卑屈な精神から作られた作品では絶対になかった」


 それを勝手に私が、何も知らずに――、と用務員さんは苦悩の表情を見せた。


「とてもとても、良い仕上がりだったんだ。驚かせたくて、孫に黙って、コンクールに……」


 主催者側と大安堂家との間にどのような関係があったのか、用務員さんにはよく分からなかったという。ただ彼はその場にいた県の美術関係者数人に、大安堂家の娘に恥をかかせたと強く詰め寄られ、そのまま会場を追われた。


「そのときからもう、ずっと孫には会っていない。会ってくれないんだ。……私は勤めていた中学校を辞めて、知り合いのコネで、この学園の用務員になった。去年は本当に驚いた。あの大安堂さんが入学してきたんだからね。彼女の傍若無人な性格と美しさには中学の頃よりもずっと磨きがかかっていた。今年になって、生徒会長の座に就いてからはいっそう勢いを増した様子で……」


 俯いて、用務員さんは呟いた。


「逆恨みに過ぎないとか、大人気ない振る舞いだとか、そういうふうに自分を押し留める思いはあったんだ。それでも、あの大安堂玲華を困らせてやりたいという気持ちを抑えることが、できなかった。孫の信頼を裏切った自分への怒りや、会えないことの辛さが、私の中で凝り固まって、良くないものを作り上げていた。……恥ずかしいことをした。私は美術室に忍び込んで、彼女が描いている最中の絵を探した。黒く塗りつぶそうとか、切り刻んでやろうとか、そんな考えで頭を一杯にして」

「けれど、どの絵が大安堂の作品なのか、分からなかったんですね」


 雅美さんだった。幸也君が池の側のベンチで話してくれたのと同じことを、今度は彼女が言った。


「どれなのか分からなくて、タイトルのない作品を手当たり次第に持ち帰った」

「そう、その通りだ」

 

 用務員さんは肩を落として認めた。

 私は思わずあたりを見回した。周囲の壁を埋め尽くす絵、絵、絵。この中に、大安堂の作品があるのだろうか。クラスメイトの、小峰さんの作品もあるのだろうか。


「何度かに分けて、忍び込んでは絵を盗んだ。だが、今ここに飾ってある絵は違う。こいつらは皆、私の作品だ。盗み出したものは、別の場所に仕舞ってある」

「良かった。処分したりはしてないんですね」


 私の言葉に、用務員さんは頷き、深い溜息をついた。


「……できなかったよ。……どの一枚を見ても、それを描いた生徒ひとり一人の良さが、伝わってくるような気がして。暗い気持ちに突き動かされた私の目には、あの二十一枚は眩し過ぎた」


 二十一枚、と確かに彼はそう言った。

 ちょっと待って下さい、と私は軽く手を挙げた。


「盗まれた絵は、全部で二十二枚でしょう? 美術部から二十一枚、東校舎から一枚」

「東校舎の、あの踊り場の小品を盗んだのは私じゃない」


 用務員さんの驚くべき告白。どういうこと?


「東校舎の絵を盗んだ『サヤマミユキ』は、つまり、用務員さんじゃない?」

「ああ。私は、例の『サヤマミユキ』さんのことはまったく知らない」

「そろそろ行こうか」


 含み笑いでそう言って、幸也君が腰を上げた。雅美さんも、スカートを押さえながら上品に立ち上がった。彼女は用務員さんに会釈した。


「お話、ありがとうございました。生徒の作品は、約束通り、今晩中に美術部に戻しておいて下さい。あと、お願いした生徒会室への内線連絡、どうかお忘れなく。でないとこちらの、山崎さんにかけられた疑いが晴れませんから」

「え、ちょっと、雅美さん?」


 約束するよ、と用務員さんは言って、私たちに深く頭を下げた。


「面倒をかけて、本当に申し訳なかった」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る