第8話

 明智に命じられるまま、私は午後の時間を保健室で過ごした。それから、やっぱり明智に指示されるまま、部活動が始まる前に文化部の部室棟へ向かった。海藤幸也君に会って話をするため、彼が所属しているはずの吹奏楽部を訪ねることになっていた。

 敷き詰められた色煉瓦の上に、大きな葉っぱを茂らせたポプラの影が長く伸びていた。静かな校舎裏は、一足早く黄昏たそがれの光に包まれたという風情ふぜいで、どこか異界じみた独特な雰囲気を漂わせて見えた。

 池沿いの道を行くのは私だけ。どのクラスもまだ授業中だから当然と言えば当然だけれど、何だか取り残されたような寂しさを感じて、また少し泣きそうなった。二年B組の皆は、今頃どうしているだろう。

 とぼとぼと歩きながら、明日、洋子たちクラスメイトにどんな顔をして会えばいいか、必死になって考えた。どうしたって、申し開きをしない訳にはいかない。

 ただ、私はおとしいれられたんだ、と声を荒げるだけでは、きっとダメだろう。疑いが晴れることはないと思う。洋子たちにしてみれば、私なんか、会ったばかりの人間。よく知りもしない相手の言うことを根拠こんきょもなく信じるなんて、そんなこと、私にだってできない。それに、クラスの皆は、私の鞄からカードが出てきたところをその目で見ている。見たままを信じ込まないでよ、なんて無茶なことも、やっぱり私には言えない。


「捕まえなきゃ。本物のサヤマミユキを」


 本物を捕まえて、自分にかけられた疑いを晴らさなければならない。そうしないと、このままじゃ、私の学園生活は本当にお先真っ暗だ。

 私は踏み出す足に力を込めた。負けるもんか、と顔を上げる。得体の知れない泥棒にも、横暴極まりない生徒会にも、絶対に負けるもんか。

 洋子と一緒にお昼を食べ、沢田くんと話をした、あの池の側のベンチの前に差し掛かったときだった。誰かに呼ばれた気がした。まさかと思って振り返ると、そこに彼の姿があった。

 海藤幸也。

 大人びた穏やかな微笑みは、水辺のきらめきを受けていっそう美しく見えた。ひょっとしてだけれど、私のことを待っていたのだろうか。彼は、あらかじめ知っていて、授業を抜け出して待っていたのだろうか。私がこうして問い質しに来るのを。


「今朝はどうも」


 何気なく、海藤君が言った。私は、向かい合ったままその先を待った。彼と出会ってすぐの私だったら、きっと、こんなふうに落ち着いてはいられなかっただろう。何しろ相手は学園トップの美青年。その整った容姿を直視できなくて、うつむいた私は彼に背を向け、緊張のあまり失神していたかもしれない。

 でも、不本意なことだけれど、今日一日、私にはいろいろなことがあり過ぎた。微笑み返す代わりに、唇をきつく結んだ私は彼の顔をじっと見つめ返した。

 幸也君は、一歩こちらに近付いた。


「改めて、自己紹介から始めた方が良いかな。海藤幸也です。妹と会ったらしいね」

「山崎由美です。会ったよ。生徒会室で。雅美さんて、すごくおっとりした方ね。私が縛られているのを見ても、眉ひとつ動かさなかった」

「大体のところはメールで知らされたよ。ひどい目にあったね。僕のことを、サヤマミユキだと疑ってるって?」

「違うの?」

「違うよ」

「本当に?」

「本当に」

「でも今朝、拾ってくれたでしょう。私の鞄を。そのときにカードを入れたんじゃないの?」


 幸也君は首を振った。


「まさか。入れてない。そんなカード、僕は知らない」

「本当に知らない? 東校舎で、階段の踊り場にカードが貼られた日、何人かの生徒が、その近くで幸也君の姿を見かけたらしいけど?」

「覚えてないなあ。でも、見た人がいるなら、やっぱり行ったんだろう。東校舎にだって知り合いはいるからね。部の後輩とか」


 日差しがかげって、水面みなもの輝きが薄れた。一瞬の沈黙。余裕の微笑みはそのままに、幸也君の目つきだけが鋭くなった。そんな気がした。


「けど、その東校舎の情報、山崎さんは誰から仕入れたのかな? 雅美じゃないよね?」


 場の雰囲気が変わった。何だろうこの感じ。不穏な気配、とでも言えば良いだろうか。幸也君に対して、私は何か油断ならないものを感じた。えっと、と思わず言いよどんでしまった。


「生徒会の、明智英理さん、だけど? それが何?」

「ああ、なるほど。いや、そうか。……うん。彼女、明智さんはすごく優秀な人だよね」


 そう納得した様子でうなずいた彼は――。

 幸也君は、確かな足取りで私に近付いてきた。

 一歩、また一歩。突然の接近に、私は言葉を失くした。どんどん縮まっていく2人の距離。いでいた心にさざ波が立った。私はうろたえ、後ずさった。何? 何? 何が起きてるの? と疑問が一度に渦を巻いた。

 どうして彼は――。

 どうして彼は――。

 どうして彼は、自分の唇に人差し指を当てているの?


「明智さんはね、大安堂生徒会長の幼馴染なんだって。昔から、家族ぐるみで付き合いがあるらしいよ」


 何気ない様子で語るエピソードとは別に、彼が私に示しているのは、明らかに『静かにしろ』というゼスチャーだ。少なくとも私は、彼のその仕草が求める他の振る舞いを知らない。

 静かにしろ? どういうこと? 

 進んで彼に従うというよりも、思考の迷路にとらわれるかたちで、私は硬直したまま動けなくなった。


「大安堂さんと明智さん、小学生の頃からずっと同じ学校で、しかも同じクラスだったっていうからすごいよね。運命だよね」


 静かに、という無言の指示を出したまま、幸也君の片手が私に向かって伸びてきた。思わず身体が震えた。けれど動けない。制服の襟元を探られた。右の鎖骨から首の後ろへと、彼の指がゆっくり動いた。

 自分の唇が震えて、頬が熱くなるのが分かった。

 頭が真っ白になった。

 幸也君の顔しか見えなくなった。

 私の緊張がピークを迎えようとした、その瞬間、彼はあっさりと身を引いた。目の高さに上げた指先に何か小さなものをつまんでいた。


「え?」


 それは、私の小指の爪にも満たないサイズの、黒いボタンのようなものだった。


「あ、危ない!」


 ふいに幸也君が叫んだ。叫ぶと同時に、彼はその黒い何かを放り投げた。投げられたそれは放物線を描いて宙を舞い、吸い込まれるように池に落ちて、水面にかすかな波紋を描いた。

 これでよし、と幸也君は笑いかけてきた。


「良かった。やっと本音で話せるね」

「え? 今のって……、え?」

「盗聴器だよ。山崎さんは今、転んだ。転んだ瞬間に盗聴器は外れた。その認識でいいね?」

「とうちょ、……えぇッ⁉︎」

「驚いただろうね」


 白い歯を輝かせた幸也君の笑顔は、これまでにないくらい晴れやかだった。

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