『サヤマミユキ』と消えた油絵
夕辺歩
第1話
大丈夫か二人とも! という
「しっかりしろ。立てるか?」
差し出された手につかまって上体を起こす。硬くて骨張った大きな手だなぁ、などと思うより先に、腰からの痛みが頭まで突き抜けて私の身体は硬直した。
「どうした? 痛むのか?」
「……ちょ、ちょっとだけ」
「救急車呼ぶか?」
お爺さんがガラケーを取り出した。私はあたふたとそれを止めた。
「い、いいですいいです! 大丈夫。平気です。強いから」
「本当に大丈夫か」
「はい。ほら、この通り」
座ったまま、無理やり作った笑顔でガッツポーズなんかしてみせた。転校初日の朝だというのに、正門もくぐらないうちから救急車で下校だなんてありえない。そんなドラマチックな展開は私の学園生活には必要ない。
納得してくれたのかどうか、作業着姿の、どうやら用務員らしいお爺さんは、携帯をポケットに仕舞って私に背を向けた。もう一人の方――、とっくに起き上がって、制服についた
「
「はい」
海藤君っていうんだ。
私は彼とぶつかって尻餅をついたのだった。今日から通うことになる
こちらを向いた海藤君が苦笑いを浮かべた。形の良い唇が、ゴメンね、と動いた。私は呆けたまま返事もできなかった。田んぼと畑しかないド田舎で長く
海藤君は放られたままだった私の鞄を手に取って、裏返したり表返したり、やたら丁寧に汚れを払ってくれた。まだぼんやりして起き上がれずにいる私の方に歩み寄ってきた。膝を折って屈んだ彼が手を差し出す。白くて長い指。用務員さんのそれとは似ても似つかないほどきれいな手。
「立てる? ほら、つかまって」
何だこのシチュエーション。出来過ぎ。漫画みたい。ぐっと強く手を握られた。我に返った私はあまりの恥ずかしさに
「……あ、ありがとう、ございます。すみません」
「僕の方こそ、本当にゴメン。これを配るのに夢中でさ」
どこに持っていたのだろう、立ち上がった私に彼が見せたのは数枚の紙切れだった。部員勧誘のためのビラのようで、君も吹奏楽部へ! と大きく記されている。『新入生歓迎コンサート』の白抜き文字と可愛い楽器のイラストが印象的だ。
新年度の始まりから間もないこの時期に勧誘中ということは、彼は私と同じ二年生? それとも三年生? どちらにしろ同年代とは思えないくらい大人っぽい。
私の顔を覗き込んで、海藤君はにわかに勧誘モードへと移行した。
「ひょっとして興味ある?」
「え、……ええ、まあその、なくはないというか」
「制服違うけど、他校の人?」
「て、転入生です」
「転入生! そっか。前の学校では、何か部活やってた? 吹奏楽とか興味ない?」
海藤君がビラと一緒に鞄を手渡してくれた、その瞬間だった。
「
私と彼との間にウェーブした長い髪の毛が勢いよく割り込んできた。私は鞄を胸に抱えたまま二度目の尻餅をついた。
「幸也、大丈夫だった? どこも怪我してない? かわいそうに、急にぶつかられて驚いたでしょう? 見てたのよ校舎の中から。ダメじゃない気をつけなきゃ歩道は危ないんだから!」
鼻が触れそうな距離で海藤君に迫る女子生徒。
振り返った彼女は、私のことをひどく冷たい目で見下ろしてきた。
「このグズ! どこの生徒なの。名前は」
「グ……、え、ええ?」
「校名と学年と名前! 早く言いなさい!」
ものすごい剣幕だけれど、彼女は、目鼻立ちのはっきりした、その辺のアイドルグループが何チームで挑んでも敵わないような美貌の持ち主だった。貴族と言えば良いのか夫人と呼べば良いのか、明るい色をした長い髪は荘厳な縦ロールときている。気高さを全面に押し出した容姿。あまりにも高圧的な物言い。とにかく凄まじい迫力だったので、素直に本名を明かして良いものかどうか、一瞬迷ってしまったほどだった。
「や、
「声が小さくて何を言っているのかさっぱり分からない。
はい会長、とまた別の声があった。立ちはだかる縦ロールの斜め後ろからだ。
眼鏡をかけたショートカットの女子生徒が、一見するとノートのような、手にした携帯端末を操作して事務的に発言した。
「始業から半月遅れで転入してくる女子生徒、ということで職員室から報告が上がって来ています。山崎由美、五月五日生まれ、双子座、A型。父親の仕事の都合により本年度から三ノ森に転入。家族構成は両親と、弟が一人。チワワが一匹」
「結構」
淡々と続くパーソナルデータの読み上げを、縦ロール会長はつまらなそうに遮った。
「そうだったの。転入生。ようこそ三ノ森学園へ。でもだから何? ちゃんと前を見て歩きなさいよこのグズ。幸也が怪我でもしていたらあなた、ちょっと、聞いてる? 目も当てられないようなことになっていたわよ、あなたの今後のスクールライフと将来の自分像」
目の前の女子生徒から発せられる威圧感に、私はただただ息を呑むしかなかった。わざとじゃないんです本当に。突然、彼の方が先に、校門の陰から飛び出して来たんです。悪いのは私じゃないはずです――。なんて取り繕う気も失せるその眼光。
フンッ、と盛大に鼻を鳴らして、縦ロール会長は私に背を向けた。戸惑いの表情を浮かべて立ち竦んでいた彼、海藤君の手を取って歩き出す。
「行きましょう幸也。一応、異状がないか保健室で診察を受けておかないと」
「え? あ、ああ、ハイ」
「英理、保険医の三島に連絡。ベッドを確保して」
はい会長、と応えてスマホを取り出す眼鏡の彼女。私に背を向けた三人は、他の生徒たちの視線など意にも介さない様子で、正門から堂々と学園内に入って行った。
脱力した私はポカンとしたままその場から動けなかった。
何だったんだろう、嵐のような雷のような、今の一連の出来事は。
「あのキツい美人は生徒会長の
隣に立って、溜息混じりにそう言ったのは用務員さんだった。
「お、いかん」
唐突に、用務員さんは作業着のポケットから畳んだガーゼを取り出した。いったい何に使ったのか、端の方が少しだけ黒く汚れている。彼はそれを私に差し出した。
「
「あ」
右の掌の、親指の付け根あたりが少しだけ赤かった。転んだ拍子にすりむいていたらしい。気付いた途端にひりひりしてきた。ガーゼの汚れていない部分を、用務員さんは私に握らせてくれた。
「保健室は今、すぐには使えないだろう。これをあげるから、しばらくそのまま押さえているといい」
「ありがとうございます」
「初日から大変な目に
気の毒そうな苦笑いを浮かべて、彼は校舎へと手を差し伸べた。
「ようこそ、三ノ森学園へ」
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