『サヤマミユキ』と消えた油絵

夕辺歩

第1話

 大丈夫か二人とも! というあわてた声が聞こえて、私は目を開けた。枝を伸ばした桜の木と、雲の少ない晴れた空と、白髪頭しらがあたまのお爺さんの目を丸くした顔がいっぺんに見えた。


「しっかりしろ。立てるか?」


 差し出された手につかまって上体を起こす。硬くて骨張った大きな手だなぁ、などと思うより先に、腰からの痛みが頭まで突き抜けて私の身体は硬直した。


「どうした? 痛むのか?」

「……ちょ、ちょっとだけ」

「救急車呼ぶか?」


 お爺さんがガラケーを取り出した。私はあたふたとそれを止めた。


「い、いいですいいです! 大丈夫。平気です。強いから」

「本当に大丈夫か」

「はい。ほら、この通り」


 座ったまま、無理やり作った笑顔でガッツポーズなんかしてみせた。転校初日の朝だというのに、正門もくぐらないうちから救急車で下校だなんてありえない。そんなドラマチックな展開は私の学園生活には必要ない。

 納得してくれたのかどうか、作業着姿の、どうやら用務員らしいお爺さんは、携帯をポケットに仕舞って私に背を向けた。もう一人の方――、とっくに起き上がって、制服についた砂埃すなぼこりを落としている男子生徒に声をかける。


海藤かいどう君も、大丈夫だったか?」

「はい」


 海藤君っていうんだ。

 私は彼とぶつかって尻餅をついたのだった。今日から通うことになる三ノ森さんのもり学園の、その正門まであと少しというところ、色付いた桜の木の下、登校する生徒たちで賑わう歩道の真ん中で。

 こちらを向いた海藤君が苦笑いを浮かべた。形の良い唇が、ゴメンね、と動いた。私は呆けたまま返事もできなかった。田んぼと畑しかないド田舎で長くつちかってきた『同年代の男子には野暮ったくて子供っぽいのしかいない』という貧しい男性観を大幅に書き換えた。いるんだなぁ都会には。こういう格好良くて大人っぽい男の子が。

 海藤君は放られたままだった私の鞄を手に取って、裏返したり表返したり、やたら丁寧に汚れを払ってくれた。まだぼんやりして起き上がれずにいる私の方に歩み寄ってきた。膝を折って屈んだ彼が手を差し出す。白くて長い指。用務員さんのそれとは似ても似つかないほどきれいな手。


「立てる? ほら、つかまって」


 何だこのシチュエーション。出来過ぎ。漫画みたい。ぐっと強く手を握られた。我に返った私はあまりの恥ずかしさにうつむいた。耳が熱くなるのが分かった。直視できない。朝日のせいばかりじゃなかった。私には、海藤君の姿が本当に輝いて見えた。


「……あ、ありがとう、ございます。すみません」

「僕の方こそ、本当にゴメン。これを配るのに夢中でさ」


 どこに持っていたのだろう、立ち上がった私に彼が見せたのは数枚の紙切れだった。部員勧誘のためのビラのようで、君も吹奏楽部へ! と大きく記されている。『新入生歓迎コンサート』の白抜き文字と可愛い楽器のイラストが印象的だ。

 新年度の始まりから間もないこの時期に勧誘中ということは、彼は私と同じ二年生? それとも三年生? どちらにしろ同年代とは思えないくらい大人っぽい。

 私の顔を覗き込んで、海藤君はにわかに勧誘モードへと移行した。


「ひょっとして興味ある?」

「え、……ええ、まあその、なくはないというか」

「制服違うけど、他校の人?」

「て、転入生です」

「転入生! そっか。前の学校では、何か部活やってた? 吹奏楽とか興味ない?」


 海藤君がビラと一緒に鞄を手渡してくれた、その瞬間だった。


幸也ゆきや!」


 私と彼との間にウェーブした長い髪の毛が勢いよく割り込んできた。私は鞄を胸に抱えたまま二度目の尻餅をついた。


「幸也、大丈夫だった? どこも怪我してない? かわいそうに、急にぶつかられて驚いたでしょう? 見てたのよ校舎の中から。ダメじゃない気をつけなきゃ歩道は危ないんだから!」


 鼻が触れそうな距離で海藤君に迫る女子生徒。

 振り返った彼女は、私のことをひどく冷たい目で見下ろしてきた。


「このグズ! どこの生徒なの。名前は」

「グ……、え、ええ?」

「校名と学年と名前! 早く言いなさい!」


 ものすごい剣幕だけれど、彼女は、目鼻立ちのはっきりした、その辺のアイドルグループが何チームで挑んでも敵わないような美貌の持ち主だった。貴族と言えば良いのか夫人と呼べば良いのか、明るい色をした長い髪は荘厳な縦ロールときている。気高さを全面に押し出した容姿。あまりにも高圧的な物言い。とにかく凄まじい迫力だったので、素直に本名を明かして良いものかどうか、一瞬迷ってしまったほどだった。


「や、山崎由美やまさきゆみ、です。二年生。……今日から、その、三ノ森に」

「声が小さくて何を言っているのかさっぱり分からない。英理えり!」


 はい会長、とまた別の声があった。立ちはだかる縦ロールの斜め後ろからだ。

 眼鏡をかけたショートカットの女子生徒が、一見するとノートのような、手にした携帯端末を操作して事務的に発言した。


「始業から半月遅れで転入してくる女子生徒、ということで職員室から報告が上がって来ています。山崎由美、五月五日生まれ、双子座、A型。父親の仕事の都合により本年度から三ノ森に転入。家族構成は両親と、弟が一人。チワワが一匹」

「結構」


 淡々と続くパーソナルデータの読み上げを、縦ロール会長はつまらなそうに遮った。


「そうだったの。転入生。ようこそ三ノ森学園へ。でもだから何? ちゃんと前を見て歩きなさいよこのグズ。幸也が怪我でもしていたらあなた、ちょっと、聞いてる? 目も当てられないようなことになっていたわよ、あなたの今後のスクールライフと将来の自分像」


 目の前の女子生徒から発せられる威圧感に、私はただただ息を呑むしかなかった。わざとじゃないんです本当に。突然、彼の方が先に、校門の陰から飛び出して来たんです。悪いのは私じゃないはずです――。なんて取り繕う気も失せるその眼光。

 フンッ、と盛大に鼻を鳴らして、縦ロール会長は私に背を向けた。戸惑いの表情を浮かべて立ち竦んでいた彼、海藤君の手を取って歩き出す。


「行きましょう幸也。一応、異状がないか保健室で診察を受けておかないと」

「え? あ、ああ、ハイ」

「英理、保険医の三島に連絡。ベッドを確保して」


 はい会長、と応えてスマホを取り出す眼鏡の彼女。私に背を向けた三人は、他の生徒たちの視線など意にも介さない様子で、正門から堂々と学園内に入って行った。

 脱力した私はポカンとしたままその場から動けなかった。

 何だったんだろう、嵐のような雷のような、今の一連の出来事は。


「あのキツい美人は生徒会長の大安堂玲華だいあんどうれいかだ。眼鏡は明智英理あけちえり。会長付きの秘書みたいな立場にある。あんたとぶつかったのは海藤幸也かいどうゆきや。三人とも、この学園じゃ有名だ。……用心した方がいいぞ転入生、大安堂ににらまれると厄介なことになる」


 隣に立って、溜息混じりにそう言ったのは用務員さんだった。


「お、いかん」


 唐突に、用務員さんは作業着のポケットから畳んだガーゼを取り出した。いったい何に使ったのか、端の方が少しだけ黒く汚れている。彼はそれを私に差し出した。


てのひら。痛いだろう。血が滲んでいる」

「あ」


 右の掌の、親指の付け根あたりが少しだけ赤かった。転んだ拍子にすりむいていたらしい。気付いた途端にひりひりしてきた。ガーゼの汚れていない部分を、用務員さんは私に握らせてくれた。


「保健室は今、すぐには使えないだろう。これをあげるから、しばらくそのまま押さえているといい」

「ありがとうございます」

「初日から大変な目にったな」


 気の毒そうな苦笑いを浮かべて、彼は校舎へと手を差し伸べた。


「ようこそ、三ノ森学園へ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る