自転車

 この街で最も活躍するのは、自転車である。次点で交通バス。高低の少ない街を縦横に、文字通り、ほしいままにできるのだ。


 もっとも、お池のある公園の中や上水の脇は、ときには樹の根がうねり、自転車では走りづらいところもままあった。それもご愛嬌。緑の中、枯れ葉の中、寒風の中……寒風の中を走るのはちょっと辛かったけれど、遊びに行くのにも、いろんなお稽古事に行くのにも、欠かせなかった。


 北に行けば主要な駅、南には少し遠いけれどやっぱりちょっとした駅があった。どちらもバスも使えたけれど、自転車の方が速かったし、公園や上水のあたりを走るのは楽しかった。


 そういう理由で——きっと母にとっては単純に距離の理由から——、私は北の駅の向こうにあるピアノの先生のところにいくのにはも、絵を習いにいくのにも、そろばんを習いにいくのにも、中学受験に備えた勉強に行くのにも、もっぱら自転車を使っていた。


 自転車で行けないところはあまりない。

あるとき、当然、隕石が目の前に落ちるくらいの確率で、私たちきょうだいを自転車で連れ出して、上水を遡ってみよう、と言い出した。


 後にも先にも父の良い思い出はこれきりである。或いは、私たちきょうだいは喘息もちであったから、これもあまりいい思い出ではないのかもしれない。


 空気の良い、晴れやかな日だった。

私たちは上水に沿って上って行った。


 この上水は、江戸時代に、水利の悪い台地を水を引き、更には城下へ飲み水を引こうと、台地の高いところを選んで引かれた、上水路・用水路だ。ドラマ化もされ、物語や読み物にもたくさんなっているので、心当たりのある方は調べてみるといい。多くの苦難があっての今の都市の歴史に繋がっていると実感できるだ(感想には個人差があります)。


 お池の水も上水として引かれているのだが、それはブラタモリに任せて、お池の脇の上水をひたすら上る。


 途中、そう、よくアニメやドラマでロケに使われる橋がある。橋を渡ると、土地の有名な文豪のひとりに由来した図書館がある。大仰な名前の地区があって、ちょっと大きな駅にぶつかる。


 上水は暗渠あんきょとなって、こっそりと駅を潜り抜ける。そこから先しばらくは、遊べる水場が作ってあって、なんでもめだかやら貴重な生き物を保全しているらしかった。


 更にいくと、いつもの上水に戻る。

 いつもの上水というのは、地面が周囲より少し盛られていて、Vの字にえぐられている。水嵩は膝下くらいだろうか、鯉がたくさん泳いでいる。水面から地面までは……人の背丈でひとつ半からふたつ分くらいだろうか。


 Vの字にえぐられた両端に樹々が植えられ遊歩道がしつらえていることが多く、だいたいは住宅街の一側面を成している。


 むかし、有名な文豪が、女性と帯で互いを結んで上水に飛び降りることを3回繰り返したという。私はその話を知って首を傾げた。上手に飛び込んでも入水は難しくなかろうか、むしろどこかの骨を折って辛い目に遭いはしなかろうか。その彼は4度は繰り返さなかった。3度目で亡くなったからだ。


 上水と縁のある文豪は彼だけじゃないが、少なくとも桜の名所ばかりというようなところでもなく、落ち着いたそして幅の狭い、所々に橋のある小さな川である。


 と、どうしてこんなことを書いているかというと、途中、楽器の練習する音が聞こえた他は、いつもの上水だったからだ。退屈はしなかったけれど、書くことがあまりないのだ。常にほとんど緩やかな登り坂でそんなに大変でもなかった。


 最終的に水のたくさんあって取水口のようなもののあるところに出たので、

「ここが上水の始点かな?」

と、始点だということに決めた。(なお、のちに調べたところ上水の始点は更に奥のようだった。)


 今度は逆に上水を下って行った。上りよりずいぶんと早く下り、駅の近くの交差点にあったうどん屋さんで素うどんを食べて、家路についたのだった。


 変えると、母が「どうだった?」と尋ねてくれた。私たちは代わる代わる見たものをたくさん聴かせたのだった。

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