憲法改正と自殺薬
@emuandemu
第1話 始まり
始まり
斉藤寛は、自殺しようとしていた。
ケーブル製の吊り橋を乗り越えて、後は手を放すだけだった。
月の出ていない夜だった。真っ暗闇で底は見えないが、橋の下は河が流れ、その沿岸には石や岩があることを知っている。高さも十分にあるから、頭から落ちればおそらく死ねるだろう。
突発的といえば、突発的な行動だった。
別に今日自殺しようだなんて決めていたわけではない。
ただ、幼馴染の楠瀬ツキミの結婚が決まったと聞いて、夜眠れなくて当て所なく歩いていた。頭の中をいろいろな思いが勝手に駆け巡った。気づくと三時間は経っただろうか。
ふと目の前を見ると、小学生の一時期、よく遊びに入っていた山へと続くルートがあった。寛は導かれるようにそのルートを選んだ。
夜の山は昼の夜とは違い、本能的な恐怖を呼び覚ます。だが、寛はその恐怖を力づくで無視した。もうどうにでもなってしまえという思いが、この頃には寛の全体を支配していた。
山間を繋ぐ吊り橋にたどり着いた。ツキミと一緒に渡って、橋の上でジャンプしたら怒られたことを思い出す。
ツキミは可愛い娘だった。年齢は寛と同じ一八歳。高校卒業と同時に結婚するらしい。結婚相手は金持ちのオッサンで、年の差は二十以上。
辛い現実から目を背けさせようとするかのように、今までいつも一緒だったツキミとの思い出が頭に浮かぶ。
一番幼い記憶は楠瀬家の庭で子供用のプールに入ったことだ。どういう流れかは不明だが、水風船を顔面にぶつけられて寛は泣いていた。そういえば、アイツ昔は自由そのものだった。
それが今ではおしとやかなふりをして、読書なぞを教室で嗜んでいる。学校での評判はすこぶるよく、男子女子問わず人気を博している。
それでも二人きりになると、冗談でからかえば気ままに叩いてきたりする。そういった振る舞いは寛以外にはしなかった。
正直、両思いだと思っていた。二人でいろいろなことをしたし、何も着飾らずに話し合える唯一の相手だった。何か深いところで通じ合い、お互いが特別な存在なのだと勝手に思い込んでいた。
受験が忙しいからと最近は二人でいられる時間も減ったが、それも過ぎればまた二人で楽しく過ごせると思っていた。
それが、まさか結婚の準備をしていたとは。
裏切られたとは思うまい。ただ、彼女の未来に自分は必要なかったのだという事実が何よりも寂しく、悲しかった。
これからの彼女に訪れるであろう結婚生活を想像すると、重油が染み込んでくるかのようにして思い出が汚される気がした。
もちろん幸せな未来が彼女には待っているのかもしれない。だが、それを願うことは今の寛にはできそうもなかった。
彼女を失うということは、寛にとってはこの醜悪な世の中で生きていく意味を失うということだった。
金がなければ生きている価値のない世の中だ。生産性の低いものはろくな職にもつけず、国家の役にも立てない己の不甲斐なさに打ちひしがれて、自殺薬を口に含む。死は何よりも身近なもの。それが今の世の慣わしだ。
生産性の低い人間の生命はそれだけ軽く、国家から与えられる権利も少ない。まるで日本全体が利益第一主義の会社のようで、国民は厳しいノルマを課された社員のようだ。成績の残せない社員は発言権すらなく、存在を否定され、次第にノイローゼになり消えていく。逃げ場はどこにもない。その時、自殺薬は何より優しく語りかける。
寛はもういろんなことが嫌になった。それまでは素晴らしいと理解っていたはずのことにも、何の価値も感じられなくなってしまった。特別な存在の居ないこの世の中で生きることに絶望したのだった。
真っ暗な中空へと、寛はその身を手放した。
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