虚
鮫
うつろ
油汚れの目立つ壁。立ち込める熱気。
目の前にはいかにもボリュームを売りにしているであろうラーメン。
これでもかと盛られたモヤシを見つめ、割り箸に手を伸ばす。
割り箸を割るより先に、軽く手を合わせ「いただきます」と呟いた。
麺を食べたいという気持ちを抑え、モヤシの山をつつく。
この山を崩さなければ麺には辿りつけなそうだ。
モヤシそのものには特に味付けもなく、正直ラーメンを食べる上で空虚な時間と味だが、ある程度高さをなくせば下から無理やりにスープを絡ませた縮れた細麺を掴み上げ一気に啜り上げた。
その瞬間、先ほどまでのモヤシで充満していた口の中はラーメンの湯気と麺のもっちりとした食感、スープの少し辛味の効いた味噌ベースのこってりとした味わいが広がる。
モヤシを少しスープに付けて食べれば、こってりとしたスープもあっさりと頂けた。
ハイペースで麺とモヤシを食べ切れば、大盛り白米を注文。
平皿に盛り盛りの白米をかき込み、スープを啜った。美味い。
下町にひっそりとある小さなラーメン屋。お世辞にも外観は綺麗とはいえない。
この辛味噌ラーメンも一杯六百八十円という低価格だ。
しかし最近よく出店されるような行列の出来る店の味とは違う、懐かしさを感じるこの味と店の雰囲気が好きで時折ラーメンを食べにきていた。
最後の白米を大口で食べ切り、スープを飲み干す。
壁に貼ってある日焼けした紙に『生ビール』の文字。もっと早く気付けば注文していた。
きっと今度はこれに胸を躍らせて来店するだろう。
「すみません、お会計お願いします」
会計は九百円。この満腹感で千円いかない。
強面の店主は優しそうな笑顔で「毎度ありがとうございます」と言う。
うん、こういうのが好きだ。
この人と人との距離感が好きだ。
「毎度」と言った店主の笑顔と、あのボリュームたっぷりのラーメンを思い出す。
特になにがあったわけでもないが、今日は良い日だ。心が浮き足立っている。
帰りはコンビニでビールでも買って帰ろう。
そう心に決め、目的地を目指し角を曲がる。
人の少ない道。晴れた空、日陰の小道、涼しい風が建物の隙間を通り髪を揺らした。
なんとなく、空を見上げる。
寂れた銭湯と古い一軒家に挟まれた狭い空。
憎らしいほどに青くて、雲ひとつない。
ふとした、自分のその仕草に脳裏をかすめるアノヒト。
せっかくの良い気分が、なんだかそわそわする。
気分が悪いわけではないが、うなじを通って後頭部を逆撫でされるような感覚だ。
微弱な電気が体を走った気さえする。
胸の奥の奥がツキンッと痛み、キュウッと締め付けられる。
心臓が早く脈打ち、生き急ぐように血液を体に送り出していた。
心なしか呼吸が浅くなり、息苦しさを感じる。
早足で小道を抜ければ、目的のコンビニへと入った。
コンビニの中はベトナム人っぽい外国人の従業員が一人。
有線で音楽が流れ、飲料や食品の入った冷ケースの出す微細な音がやけにうるさく感じた。
ビール以外特に買うものもないのに、カゴを手に取れば目当てのビールを入れていく。
つい数分前までは、ビール一本飲むだけで満たされていたであろう気持ちが、今は違う。
何かに急かされるように、種類の違うビールを二本ずつ入れれば、つまみになりそうな味の濃いおにぎりも三つ入れる。
そのままフラッと店内を歩き、レジへと向かう途中に目に入るのはアイスの入った冷凍ケース。
自然と足を止め、物色した。が、またしても脳裏をかすめるのはアノヒトだった。
なんとなく心乱されている感じが本当に気持ち悪い。
アイスキャンディーを四本手に取りそのまま足早にレジへ向かった。
会計を済ませ、早足で家へと帰る。
鍵を開け、何故だかイラつく気持ちを抑えアイスやビールをしまえば、力なくベッドへ倒れ込んだ。
遮光カーテンの隙間から漏れる日差しが、今は憎らしい。
先ほどまでの清々しい気持ちとは一転、どす黒く理由の分からないモヤモヤが感情を侵食していっている。
無音の部屋特有の聴こえない音が聴こえてくる。
それをかき消すようにPCを立ち上げ、動画を流した。
音のある空間はいい。侵食を食い止め、考え過ぎることも止めてくれる。
服を脱ぎ、部屋着に着替えた。
余計なことを考えなくて済むように、トイレへ行ったり、風呂を溜めたりして無駄に体を動かした。
買ってきたおにぎりを一つ食べ、動画を見る。
某動画サイトのゲーム実況を見て、声を出して笑った。
一つの動画で約二十分。続きが気になる。
動画の続きをクリックした時、風呂が溜まったと給湯機が叫んでいた。
動画の続きが気になるが、後ろ髪引かれるように風呂場へと向かう。
服を脱ぎ捨て、手にはスマホを持っていた。
風呂に浸かりながら、スマホでニュースや漫画を読む。
しかし、いつまでもそのままで居られるわけもなく。
十五分ほどでのぼせて、スマホを脱衣所に置いた。
風呂から上がり、髪を洗う。
目を瞑っている間、またアノヒトを思い出す。
思い出したアノヒトは、笑顔だったり怒ったり不貞腐れたりとコロコロと表情を変えた。
アノヒトをかき消すように、シャンプーの泡を洗い流す。
『ちゃんと洗い流さなきゃ。ここまだ泡ついてるよ?』不意にそんな言葉を思い出し、がむしゃらに髪を洗った。
風呂を出て、身体を拭く。
この、生活における一瞬一瞬の【間】で思い出すものがある。
この【間】が心底嫌いだ。特に最近はそれが顕著だ。
冷蔵庫からビールを取り出し、余りのおにぎりが入ったビニールごとPCのある部屋へと持っていく。
風呂上りの喉にビールが流れこみ、苦味と酸味がクワッとくる。
動画の続きを見ながら、おにぎりを食べ、ビールを飲む。
ラーメンを食べた後だ。腹は一杯だ。
だが、この時間が幸せだと感じる手っ取り早い方法はこれだ。無意識のうちにそうしている自分がいた。
そうやって時間を潰し、気がつけば外は暗い。
カーテンの隙間から差し込んだいた日差しも、今は外の薄暗いほんのりとした灯りが漏れているだけだ。
本来なら今頃の時間が夕飯時なのだろうが、ラーメンとおにぎりで満たされた腹は特に何も欲していない。
冷凍庫からアイスキャンディーを取り出し、食べた。
そのタイミングで丁度一つの動画が終了する。
一瞬訪れる静寂に、一瞬現れるアノヒト。
アイスキャンディーを、欲しがるアノヒト。
シャクシャクと食べ進めた。頭がキンとしたが、構わず食べ進めあっという間に棒だけになった。
PCが次の動画を自動再生しようとしている。
無性にイライラした。
思わず大声をあげ、電気を消し、ベッドへ潜り込む。
毛布と掛け布団を頭まですっぽりと被り、隙間をなくすようにうずくまった。
歯を食いしばり、ベッドを一回だけ殴りつける。スプリングがギッ…と鈍い音を鳴らした。
恐る恐る顔を出し、PCの明かりで照らされる部屋の天井を見つめる。
動画の音が部屋を満たし、自分を安心させた。
暗い室内。アノヒトの居ないベッドと部屋。
落ち着くのは事実。よく眠れるようになったのも事実。
寂しくはない。悲しくもない。
居ないなら居ないで生きていける。強がりではなく、本心だ。
しかし思い出す。
そしてそれによって無性にイライラしたりそわそわしたりする。
神経を逆撫でされているようだ。
本当のことを言うと、嫌いではない。
だが、その事実が自分自身を苦しめる。結果的に、自分自身を苦しめているアノヒトが嫌いだ。
うまく言葉に出来ればどれだけ楽だろうか。
それを言えばアノヒトは何て言うだろうか。
聞きたくもないが、今の自分が救われる気もする。
面倒臭さと、少しの恐怖と、妙な緊張感と、期待。
入り乱れ、混ざり合い、ぐちゃぐちゃになったそれは自分の感情を侵食し酸化させていく。
一緒に居すぎた。思い出とは違うが、記憶が染み付いている。
寝心地のいいベッドの広さ。
朝起きれば大の字で寝ている。無意識的には物凄くリラックスして楽な体勢で眠れている。
朝起きた時、片側を気にする癖が最近ようやく抜けてきた。
不便なのが慣れれば居心地の良さだったのか。
そんなことはない。不便は不便だ。
しかし気付いてみれば、どちらも自分自身の本心で、その矛盾が余計にそわそわした気持ちを加速させる。
自分自身が変わっていく感覚。
一緒に居ることで縛られていた自由。
やりたいことができない歯痒さ。
アノヒトを拒絶し、忌み嫌った。
泣いているのが嫌いだ。
自分の感情論を押し付けてくるのが嫌いだ。
なにかと「あなたのおかげ」って言ってくるのが嫌いだ。
きっかけを与えたのは自分かもしれない。だけど自分がアノヒトを変えようとしたわけではない。アノヒト自身が決めたことだ。
感謝と責任は紙一重だ。
「あなたのおかげ」という言葉は、感謝の気持ちと同時に「あなたの責任」という言葉に聞こえる。
「あなたのせいでこうなったんだから、責任を取って」というように思えて、嫌で嫌で仕方がなかった。
関わらないで欲しかった。放っておいて欲しかった。
アノヒトの居なかった生活に戻りたかった。
他人に左右されず、縛られず、留まらず。
思うままに生きたかった。
自分自身の為にアノヒトを避けた。
もう関わらないつもりだった。今でもその気持ちは変わらない。
しかし時間というのは皮肉なもので。
幸せや愛情といったものが時間経過によって薄れていくのと同じで、憎しみや嫌悪というものも時間経過によって風化していく。
そしてそれは自分自身も例外ではない。
時間が経つと、気がつくのは居心地のよさ。
ふとした時に、元気にしているだろうか、仕事は変わらないだろうか、と考える時間がある。
その時間は決して多くはないが、自分自身への影響は少なからずあった。
しかし、アノヒトの感情というものは正直よく分からない。
一言でいうと、変わり者と言ってもいいだろう。
一緒に居た頃から私のことを「好き」だと言っていた。
拒絶した時も私のことを好きだと言っていたし、今現在もそうだ。
自分自身がしたことは間違いではないと思う。
正しいことをしたと思っているし、後悔もしない。
このまま好きに生きようと思っている。
アノヒトと今後関わりがあるかどうかも、その時の気分次第だ。
会っても構わなければ会う可能性もあるが、今現在はその時ではない。
嫌いではないが、関わりたくない。
心情を乱されれば、最初の嫌悪感にあふれた頃にリセットされるような気がする。
しかし、自分自身が間違えたことをしたつもりはないが、アノヒトの立場になってみるとする。
アノヒトの考えることは分かりそうで分からない。
かと思えば分からなそうで納得させられる部分もある。
その辺を考慮した上でも、自分がアノヒトなら随分心を乱されるだろう事象だった。
にも関わらず、未だに好きだと言ってくる。
正直、恐怖にも似た感情を持つ。
自分は、アノヒトに居心地のよさを感じつつも、苛立ちや不快感も感じてしまう。
にも関わらず、アノヒトはそんな私ですら愛しいという感情を持つ。
それは人の人生を自分が壊してしまうという責任と圧を感じることだった。
いっそのこと、別に好きな人間を作って、その人間と上手くいけばいいと思う。
そうすれば、自分が一人で好き勝手に生きていくことも、例えいつかアノヒトと普通に会えるようになったとしても、責任や圧を感じずに過ごすことができるからだ。
今の自分には、他人の人生を背負う覚悟がない。
そして今のところ今後もその覚悟は持てない予定だ。
自分が他人の幸せや人生や可能性を潰していいわけがない。
そんなの相手が良いと言ったってお断りだ。
断固拒否。無理。不可。死んだ方がマシだと思う。そのレベルだ。
だがそれを気にせずに、嫌われていると知っても尚、好意を向けてくるアノヒトが怖い。
自分の人生を丸投げして、所詮赤の他人である私に身を委ねようとしているアノヒトの考えていることが理解できない。
何故それほどまでに私を信用しているのか。
アノヒトの好意が本物だと分かっているからこそ、怖くて鬱陶しくて煩わしいのだろう。
そして、その好意が本物で、アノヒトが少し変わっているからこそ、自分自身が居心地の良さを感じていたことも分かっている。
アノヒトの好意が風化するのが先か。
自分の覚悟が決まるのが先か。
そんな真剣に考えないまでも、心の片隅に、自分でも気づかないほど小さくひっそりと、その選択肢がある。この頃の自分はそれにまだ気付いていない。
自分自身を生きるのに必死だった、あの頃。
虚 鮫 @pochimaru
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