第7話

 流行り病の噂は風や波にのって人魚の耳にも届き、アマビエも知るところになりました。

 人の流行り病は人魚にはかかりませんが、なぎのことが気になります。しかし人魚仲間たちはアマビエが海面に上るのを許しません。

 そうこうするうちに人魚たちにとっても不穏な話が聞こえてきました。

 人のうちに人魚を食えば流行り病が治るという噂があると言うのです。人魚たちはいっそう海中に籠もり、人に近づかなくなりました。

 他の人魚も海面に上らなくなれば、海面への道筋を見張る目も減ります。ある時アマビエは他の人魚のすきを見て、そっと海面へと向かいました。

 一本の尾の人魚は魚のように。

 二本の尾ならこの上なく優美に。

 けれど三本の尾のアマビエは不格好な海月のように泳ぎます。

 流れに押され、波に揺らされ、それでも少しづつ海面へと上ったアマビエがいつもの岩場についたのは、もう空が赤く染まり始めた頃でした。

 岩場にはなぎがぽつんと座っていました。

 座っていて、目を見開いてアマビエを見ました。

 「アマビエ…」

 なぎの目と鼻は赤く、頬には涙の跡がありました。

 「なぎ。」

 アマビエは岩場に這い上がります。長い髪からも、三本の尾からも、ポタポタと水が落ちました。

 「お姉ちゃんが産気づいたの。お母さん、頑張ってるけど、お母さんも病気で…」

 幸いどちらも重くはありませんでしたが、なみの病は母にもうつってしまいました。しかも二人ともの病の癒えない内に、なみが今朝、産気づいたのです。病ゆえに手伝いも呼べず、病に弱った母と娘は、懸命に出産を乗り越えようとしているのでした。

 なぎには何もできません。

 水や薪、それから布や滋養のある果物などを届けてしまえば、ただ祈る以外にできることはないのでした。

 人魚の肉を食べれば病は治る。

 本当でしょうか。

 アマビエは人魚です。尾が三本もあるけれど、確かに人魚なのです。アマビエの肉を食べさせれば、病は本当に治るのでしょうか。

 なぎは自分の中に、何かがぱんぱんに詰まっているようで、ひどく苦しくなりました。

 アマビエは友達です。

 きれいで不思議な、なぎの大切な友達です。

 でも、お母さん。

 そしてお姉ちゃん。

 それから赤ちゃん。

 みんなとても大切なのです。

 なぎは何も言えないまま泣き出していました。

 アマビエはなぎの様子を見て、なぎが人魚の肉の噂を知っているのだとわかりました。

 母と姉と姉の赤ん坊のために、きっと人魚の肉が欲しいのでしょう。けれどアマビエにそんな事は言えなくて、苦しんでいるのです。

 ふとアマビエは思います。

 病を治すために肉をくれと言われるのと、人魚の海を取り戻せと言われるのに、どれほど違いがあるだろう。

 どちらも結局はアマビエが死ななければ叶わない願いです。例えばなぎに肉やるのにアマビエが死んで、それで人魚のために願ったなら、アマビエは両方の願いを叶えられるのでしょうか。

 「ねえ、なぎ。私の肉をあげようか。」

 つるりとそんな言葉が口をつきました。

 「え…」

 なぎが顔を上げます。

 「人魚の肉で病が治るって話があるのでしょう。私も人魚だよ。」

 なぎがいっそう大きく目を見開いてかたまりました。

 波が、風が、密やかにささやきます。

 なみを隔離していても、病はひたひたと迫っています。

 「…だめだよ。そんなのやっぱりだめだよ。」

 弱々しく、ほとんどため息のようになぎがささやきました。

 「友達の肉を食うなんて、きっとおてんとう様は喜ばないよ。自分でできる事から頑張るんだって、お父さんやお母さんもいつも言うもん。」

 頑張って、頑張って、みんなで頑張って少しづつ積み上げてゆく。アマビエが知っている人の在り方に、それはあまりにふさわしい答えでした。思えばそんな事をアマビエに教えたのもなぎなのですから、当然の事なのかもしれませんが。

 なぎはなぎで、自分の考えを口に出して、とても腑に落ちた感じがありました。

 そうだ人魚の肉に頼るんじゃなくて、もっと水を運んで、滋養のつくものを持って行こう。その方がきっといいに違いない。

 おてんとう様に恥ずかしくないように。

 なぎはそう言われて育ったのです。

 本当はそう思い切ることはとても怖い事でした。

 もしも、お姉ちゃんやお母さんや赤ちゃんに何かあったら。

 きっとなぎは後悔することでしょう。どうしてアマビエに肉を貰わなかったのかと。

 でも、肉を、命を差し出してくれようとするアマビエからそれを受け取ってしまう事は、なぎにはできなかったのでした。

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