アウターワールド

 天使大隊はその街――スタントンホール各所での調査・測定を進めていた。今度は防護服を着ていないから飛んで移動できる。地上の瓦礫はどこ吹く風だ。ただそれでも「井戸」の風下にあるので、等距離にある他のポイントより放射線量が高めになるという。

 クローディアも街のあちこちを見て回った。路地やアパートの中庭など、風溜まりの線量が高めだった。一番低いのは一棟残った高層ビルのてっぺんだった。高さがある分吹きつけるものも多いが、飛ばされるものも多い。滞留しない、というのが低線量の条件らしい。

 近くで見るとビルは外壁がほとんど剥がれ落ちていて、他のビル同様に崩壊するのは時間の問題のように思えた。たぶん街の真ん中にあって他のビルに囲まれていたので、それを盾にしてこの一棟が生き残ったのだろう。構造的に特別強固というわけではなさそうだ。

 屋上は高さ約500m。ちょうど砂煙の層の天井にあたり、海のようにたゆたう黄色い霧の水平線の上に真っ青な空のドームが乗っているのが見えた。

 キャンドルとも呼ばれる独特な形のラークスパーの塔が天頂に向かって覆い被さるように伸びていた。驚くほど近い。かなり遠くまで来たような気がしていたけど、塔がそれだけ巨大な構造物だということだろう。500mのビルでも最下層甲板の高度にまったく及ばない。上がってくるのに息切れしている自分のスケールの小ささを思い知った。


 その午後は珍しく雨が降った。パンチみたいな大粒の雨だった。

 降り出すと同時にラジオチェッカーが騒ぎ始めた。雨粒は空気中に漂う微粒子を吸着する。三次元空間に拡散していた放射性物質が雨に押されて面に集まってきたのだ。場の総量に変化はない。密度が上がったわけだ。不可視の脅威が雨粒の姿を借りて顕現する。地面で弾ける雨粒がとても危険なものに思えた。

 濡れるわけにはいかない。防護服を着ればいい。一時的にはそうかもしれない。でも濡れた防護服はそれ自体が放射能を帯びる。建物の奥に入って注意深く雨漏りを避ける方が賢明だ。防護服のバイザーは真上が見えない。

 天使たちは街の南端の建物の中にテントを張り、野営の準備を始めた。まだトラックがつけられる位置だ。2食分の材料を運び込んで支度を始める。

 

 雨は2時間ほどで上がった。雨垂れに当たらないように恐る恐る外に出ると、気色悪いほどの青空が頭上に広がっていた。地平線は雨の余韻で白んでいたけど、ラークスパーの塔もほぼ全景が見えた。さっきビルの上で見た空と全く同じだった。なんだか街ごと高度500mまで浮かび上がってしまったような錯覚に捕われた。つまり地表を覆っていた砂煙も雨で濯がれて一時的に空気がクリアになっているのだ。砂と土が乾けばまた煙ってくるだろう。

 思った通り、上空は先程よりも低線量だった。クローディアは街の上をぐるぐる旋回してラジオチェッカーで確かめた。屋根だか床だかわからない廃墟の水平面に水が溜まって空と太陽を写していた。もともとあまり雨の降る土地ではないはずだ。水はけは悪い。


 上から眺めている間に街の北側の大きな平屋の建物から盗掘家が出てくるのが見えた。ツルハシの差さった見覚えのある背嚢だった。やはり防護服は着ていない。

「まだ探しもの?」クローディアは頭上を旋回しながら訊いた。

「何の用だ」

「何ってことはないわ。見つけたから声をかけただけ」

「ポリオってのは古い本にも書いてないぞ。あのあと手持ちの本で探したんだ」

 なんだか地面に降りるのは気が引けた。コの字型になった建物の窪みにちょうど上昇気流が吹いていた。あまり強くはないけど羽ばたいていれば十分浮いていられる。ホバリングを始めた。

「ここ、図書館?」

「いや、研究所だ」

「研究所?」

「この街は古代から原子力開発でやってきた街なんだ。関連技術と医療関係の資料ならここが一番充実している。正直、原爆症を疑ってたんだ。だからこの街に来た」

「ポリオは原爆症じゃないわ」

「わかってる。単に感染症の資料が多い街なら心当たりがある。明日にでも移動するさ。しかし行ってみてからこの街で十分だったというのでは困る」

 盗掘家はそう言ったあとでマスクを浮かせて地面に何かをペッと吐き出した。水溜りに黒いものが広がった。

 血だ。血痰だ。

 長く地上で活動していればフラムに蝕まれても何もおかしくはない。

 盗掘家はしっかりとマスクをつけ直したが、中でまだ咳き込んでいるようだった。

 私が声を張らせたせいかもしれない。クローディアは負い目を感じて着地した。背中をさすってやるためだ。

「面倒かけさせないでよ」

「ほっとけばいいだろ」

「肺珠を飲ませてあげる。シェルターに戻ろう」

 クローディアは一度下ろさせた背嚢を持ち上げようとした。でも重すぎてびくともしなかった。いったい何が入っているんだ。

「まったく、何が面倒だ。訊くんだろうな、その肺珠ってのは」

 天使はフラムを体内に取り込まないように肺の中で結晶化して排出する。その結晶が肺珠だ。そういえば先ほどの設営の間も大隊の天使たちが咳をして肺珠を吐き出していた。名前の通り真珠のようなもので、粉にして人間が吸い込めば肺の炎症を鎮める効果がある。カイで実証済みだ。


 再び時間のかかるエアロックを通ってシェルターに入る。地上が晴れたせいで余計に暗く感じられた。天井の明かりが何かのアラームみたいにチカチカ点滅していた。

 

「すり鉢はある?」

 盗掘家は大きな作業台の上に背嚢を下ろし、周囲のラックを見渡してその一角に収まっている古びたホッパーを指した。ガラクタのような器が詰め込まれていて、探すと縁が欠けて容量が4割くらいになったすり鉢が出てきて、すりこぎを見つけるのにもう5分くらいかかった。

 クローディアはカイのために乾燥させておいた肺珠を小瓶から2粒出して細かい粉になるまですり潰した。

「口でも鼻でもいいから、思い切り吸って肺に入れて」

 盗掘家は恐る恐る小皿を受け取って口をつけた。盛大に噎せ返りそうになる。

「我慢して」クローディアは盗掘家の顎を押さえて鼻を塞いだ。咳をすれば肺珠の粉末は痰と一緒に吐き出されてしまう。

 肺珠を無駄にしたくない一心だったけど、離した手のひらがなんだか油っこくて始末に困った。結局膝で拭った。

「本当に効くんだろうな?」盗掘家はまだ苦しそうに訊いた。

「じき楽になる。ゆっくり息をして」

「盗掘家の1人や2人、野垂れ死んだところで心も痛まないだろう」

「そうね、確かに」クローディアは瓶の蓋を開けたり締めたりしながら考えた。

「私が話しかける前に血を吐いてたら、たぶん放っておいたと思う。でも、放っておいてもいつか死んでしまうなら、自分のせいで死んだと思いたくはないの。あなたは私にとって有害な人間というわけでもないのだから」

 盗掘家はちょっと怪訝な顔をした。

「マジな顔して言いやがる」

「何?」

「……いや、いい」


「でも、命を縮めてまで地上に留まる理由って……薬を見つけたらすぐに試してやりたいって気持ちはわかるけど、地上の環境はあの子にとってとてもリスキーでしょ」

 作業台の周りには椅子代わりの木箱がいくつか置いてあった。クローディアはその上に乗ってあぐらをかいた。盗掘家は作業台に腰掛けて木箱に片足を乗せた。有機物を分解する微生物も地上では生きられない。風化さえ避ければ大昔の木材でもこうして当然のように使うことができる。

「あいつは地上で生まれたんだよ」盗掘家は切り出した。

「息子が生まれる前、まだルフトがエトルキアの一部だった頃、我々はレゼにいた。俺は5年間軍に務めて、その伝手で電話機の営業職にありついていた。入った時はよかった。景気が良かった。ところがルフトの反乱をきっかけにドッと顧客が減って、そのまま倒産した。一度でも逆風を受ければなすすべなくひっぺがされるのがレゼの経済だ。テナントも高い。家を売ってレゼを出た。帰る場所はなかった。もともと塔に水が上がらなくなったせいで故郷を追われたんだ。レゼを去って、そのあと各地の島を転々としたよ。でもどこもよそ者を歓迎なんかしなかった。ただでさえ東部からの避難民でごった返していた時期だ。田舎の島はレゼのような都市とはまるで違う。知らない顔を見ただけで睨む。唾を吐く。死ぬほど排他的なんだ。仕方ないじゃないか。俺の生まれた島だってもとはそうだった。ただでさえ少ない資源を分け合って、島の人口でぎりぎりの生活をしていたんだから」

「市民権はないとしても、塔の中には入りたくなかったの?」

「いや、それを含めて、だ。田舎ではムラ管轄の聖域だし、都市は都市でスラムのコミュニティがあって、軍人や元軍人は特に疎まれていた。おまえはむしろ我々を救済する立場の人間じゃないか、とね」

「軍も助けてくれなかったのね」

「助ける義理もなかっただろう。会社をやっていた時に一番取引が多かったのがソレスだったんだ。ルフトの首都だよ。実際、軍用バンドの無線機も流していたし、そのかどで社員の何人かはすでに逮捕されていた」

「あなたも経営陣だったのね」

 盗掘家はその質問には答えなかった。一社員ならいくらでも言い訳できる。それにこの男はクローディアが軍の中枢に通じていると思っているのだ。すでに喋りすぎなくらいだった。

「盗掘家になるという選択肢に気づいたのはもう何年か放浪を続けてからだった。西部は地上が荒れているから手つかずのエリアが広いと聞いてな。レゼを引き払った時の元手は底をつきかけていた。次の島に渡るか、マスクとトラックを買うか、どちらかだった。

 連盟に入ってからの生活は嘘のように快適だった。連中は出自を問わなかった。新入りは虐げられたが、成果を上げれば正当な称賛を与えられた。何より運がよかったのは半年足らずで完全なシェルターを見つけられたことだ。たとえマスクが外せなくても、レゼで常に貯蓄を気にしながら人混みの間で肩身の狭い生活を送るより、ずっと快適だった。楽園のように思えた。だから子供を作ろうとまで思った。でもそれは必ず終わりが来るものだった。いくら防御してもフラムは確実に人間の体を蝕んでいく。塔の上ですらそうなんだ。旧文明の人間たちは当然のように100年以上の寿命を謳歌していた。60歳そこらなんてまだ中年だったのさ。フラムがいかに人間の命を縮めるか」

 盗掘家は「我々」と言った。それは自分と息子のことではない。自分と妻のことだ。

「あの子の母親はあなたよりずっと早くフラムに焼かれたのね」

「ああ」

 この親子だ。母親の方はよほど美人だったのだろうな。盗掘家は自分の膝の先にあるコンテナに目を向けていたが、焦点はもっと遠くにあった。彼が思い浮かべていたものがクローディアにも見えた気がした。


「地上の本で読んだと言っていたな」

「ポリオのこと?」

「ああ。島の医者が知らないということは、島の上の人間にはかかる心配がないということだろう」

「たぶん、島の上で生まれた人間は知らず知らずのうちに予防接種をしているんだよ。島の上にウイルスがないわけじゃない。でもみんな免疫を持っている。塔に生まれた人間も、天使も。あなたは自分のこと覚えてない?」

「……そうか、注射か。確かに、俺自身、複合予防接種を受けたはずだ。なんとなく記憶にある。だけどな、わざわざ予防接種するくらいなら名前くらい伝わっていてもいいはずじゃないか」

「何か別のワクチンがポリオにも効くようになって名前が消えてしまったのかもしれない。詳しいことはわからないけど、注射とは別の方法で接種するようになったのかもしれないし。何にしても、塔が造られるよりずっと前に絶滅して忘れ去られてしまった流行り病なんでしょ」

 盗掘家はそれから何度か唸った。何か考えているのか、ただ喉の調子が悪いだけなのか、よくわからなかった。

「まるで記憶操作だな」

「そうね。フラムと塔が現れて、それができるくらい、人類の記憶や歴史の糸は一度細く絞られてしまったんでしょうね」


「逆に言えば、俺たちが知っている旧文明のあれこれというのは、当時の人類でも解決できなかった重大な問題なんだろうな」と盗掘家。

「フラムのこと?」

「それもそうだが」

 盗掘家は地図を広げた。さほど大きくもない紙を何枚も貼り合わせたハンドメイドだ。

「この辺りの地図だ。10万分の1で描いてある。細かくはないが距離と位置関係は正確だ」

「このマークは?」クローディアは地図上に5ヶ所ある赤い星を指差した。

「そっちは言えないが、このマークは井戸だ。あの大穴のことをお前たちはそう呼んでいたな」

 確かに星とは別にラークスパーを中心に黒い点が100個近く打ってあった。多すぎて逆に気にならなかった。

「井戸? こんなに大量にはないでしょ。ここにあるのは知っているけど」

「古い井戸は板で塞いである。たぶん軍はあの爆発のことを公にはしていない。いくら地上のことでも、あまりに穴ぼこだらけでは不可解に思う人間も出てくる」

「てっきり同じ穴を使い回してるんだと……」

 クローディアは口をつぐんだ。「巨人の井戸」計画は機密事項だ。

 しかし考えてみれば、爆弾を埋め込む必要上、一度爆発が起きて径が広がった穴の中に再度設置するのは難しいのかもしれない。予め爆弾を積んだシールドマシンを真下向きに置いて穴を掘るそうだ。シールドの数さえ用意できるなら実験の度に新しい穴を掘っているとしても不思議はない。

「エトルキアの人間は塔の文明を信奉している。反面、地上世界を顧みない節がある。故郷を失ったのではない、捨てたのだ、と。だから躊躇いもなく核を使って地上世界を破壊することができる。しかし、放射線の脅威を覚えていればこそこの程度で済んでいるとも言える。彼らが核を根絶していたなら、塔にその記憶を残すこともなく、現代の人間たちはその怖さを忘れ、塔の上ですらもっと積極的に核を使い、自滅の道を歩んでいたかもしれない。自分たちの文明が滅び、無知に落ちた千年後の子孫に何を与えられるか、考えたことはあるか?」

 盗掘家はそこで首を振った。自問自答だった。

「忘却は罪深い。が、旧文明の罪は忘れさせたことそれ自体じゃない。忘れたままで一生を終えられる世界を残さなかったことだ」

「少なくとも塔の上ではその世界が成り立っていたんじゃなくて? あなた自分で言ってたでしょ。エトルキア人は地上を顧みないって。それはエトルキア人が旧文明の残した世界をただただありがたく享受してきたということに他ならないのよ」

 盗掘家は頷いた。

「そうか、ここは世界の外側だった。それを忘れたのが俺の罪だ」

 盗掘家は自分が死んだあとのことを考えているようだった。

 クローディアは悟った。この男は放射線の脅威に無頓着なわけではないんだ。放射線もフラムも正しく恐れていた。ただ自分の死期を悟り、残された時間で最大限のことをしようと思っているだけなんだ。

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